歌川広重 歌川広重の概要

歌川広重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/09 02:52 UTC 版)

歌川 広重
広重の死絵3代豊国筆、安政5年(1858年))
生誕1797年
日本 江戸八代洲河岸
死没1858年10月12日(1858-10-12)
日本 江戸
国籍 日本
著名な実績浮世絵
代表作東海道五十三次』『名所江戸百景
影響を受けた
芸術家
歌川豊広葛飾北斎
影響を与えた
芸術家
小林清親印象派等の西洋芸術

江戸定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった[1]。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。

人物・略歴

東海道五十三次之内 日本橋

広重は、江戸八代洲河岸やよすがし定火消屋敷[注釈 1]同心、安藤源右衛門の子として誕生。源右衛門は元々田中家の人間で、安藤家の養子に入って妻を迎えた。長女と次女、さらに長男広重、広重の下に三女がいた。文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が火消同心職を継ぐ。同年12月に父も死去。

幼いころからの絵心が勝り、文化8年(1811年)15歳のころ、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広1774年-1829年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用してデビュー。

文政4年(1821年)に、同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。 文政6年(1823年)には、養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となったが、まだ仲次郎が8歳だったので引き続き火消同心職の代番を勤めた。

始めは役者絵から出発し、やがて美人画に手をそめたが、文政11年(1828年)師の豊廣没後は風景画を主に制作した。天保元年(1830年)一遊斎から一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。

天保3年 (1832年)、仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専心することとなった。一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、このころ大岡雲峰に就いて南画を修めている[2]

この年、公用で東海道を上り、絵を描いたとされるが、現在では疑問視されている。翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画張交絵戯画玩具絵春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画(肉筆浮世絵)・摺物団扇絵双六・絵封筒ほか絵本・合巻狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。

安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は顕功院徳翁立斎居士。友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。

東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん

(「死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい」の意)

江戸での住居

文久年間(1861年から1863年)の「江戸日本橋南之絵図」によると、日本橋大鋸(おおが)町(現在の京橋)に広重の住居があり[3]、西隣には狩野永悳の旧居が印刷されている。

その後、京橋よりに道路5つほど先の、常磐町に移転したようである[4]

辞世の句

辞世の句は、

東路(あづまぢ)に筆をのこして旅の空 西のみくにの名所を見む

であるというが、「後代の広重の作ではないか」とする見解もある。

明治15年(1882年)4月(広重の死後24年目)、門人達が、墨江須崎村の秋葉神社[注釈 2]に碑を建立したが、第二次世界大戦東京大空襲により破壊され、現在は残っていない。

墓所

東京都足立区の東岳寺境内の初代広重墓及び記念碑

流行の疫病(コレラ)により安政5年(1858年9月6日61歳で没[注釈 3]。墓所は東京の足立区にある禅宗東岳寺である[注釈 4]

特色

ヒロシゲブルー

京都名所之内 淀川
左:広重 右下:北斎 右上:モネの構図の類似例

歌川広重の作品は、ヨーロッパアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。

この鮮やかな青は日本古来の藍(インディゴ)の色と間違えられることがあるが、当時ヨーロッパから輸入された新しい顔料であるベロ藍つまり紺青である。木版画の性質から油彩よりも鮮やかな色を示すため、欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて「ヒロシゲブルー」とも呼ばれる。

ヒロシゲブルーは19世紀後半のフランスに発した印象派の画家や、アール・ヌーヴォーの芸術家らに影響を与えたとされ、当時ジャポニスムの流行を生んだ要因の一つともされている[5][6]

東海道往復旅行

東海道五十三次之内 蒲原
東海道五十三次之内 庄野

天保4年(1833年)、傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風やを感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。

この連作の前年の天保3年(1832年)秋、幕臣でもあった広重は伝を頼りに幕府の一行(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)し、実際の風景を目の当たりにする機会を得た、とする伝承が伝わる。一方、実際には旅行をしていないのではないかとする説もある[7]。 また、同作は司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したとする説もある(元伊豆高原美術館長・對中如雲が提唱した)。(外部リンクに、これに対する否定説を述べた『司馬江漢作で、広重の「東海道五十三次」の元絵と称する絵について』あり。)

甲州日記

富士三十六景之内 甲斐御坂越

江戸時代中期には生産力の向上から都市部では学問や遊芸、祭礼年中行事など町人文化が活性化し、幕府直轄領時代の甲斐国甲府山梨県甲府市)でも江戸後期には華麗な幕絵を飾った盛大な甲府道祖神祭礼が行われており、甲府商人の経済力を背景に江戸から広重ら著名な絵師が招かれて幕絵製作を行っている。広重は天保12年(1841年)に甲府緑町一丁目(現若松町)の町人から幕絵製作を依頼され、同年4月には江戸を立ち甲州街道を経て甲府へ向かい、幕絵製作のため滞在している。この時の記録が『甲州日記』(「天保十二年丑年卯月日々の記」)で、江戸から旅した際に道中や滞在中の写生や日記を書き付けられており、現在の八王子市から見た高尾山、甲府市内から見た富士山や市内の甲斐善光寺身延町富士川など甲州の名所が太さの異なる筆と墨で描かれており広重の作品研究に利用されているほか、甲府での芝居見物や接待された料理屋の記録など、近世甲府城下町の実態を知る記録資料としても重視されている。

日記によれば広重は同年4月5日に甲府へ到着し、滞在中は甲府町民から歓迎され句会や芝居見物などを行っている。日記は一時中断して11月からはじまっており、この間には幕絵は完成し、手付金は5両であったという。幕絵は東海道の名所を描いた39枚の作品で、甲府柳町に飾られたという。日記の中断期間中は幕絵制作に専念していた可能性や、制作のためにいったん江戸で戻っていた可能性などが考えられている。広重の製作した幕絵は現存しているものが少ないが、山梨県立博物館には2枚の幕絵が所蔵されており、甲府市の旧家には下絵が現存している。

また、幕絵以外にも甲府町人から依頼された屏風絵襖絵などを手がけており、甲府商家の大木コレクション山梨県立博物館所蔵)には作品の一部が残されている。

日記は甲府滞在記録のほか甲斐名所のスケッチも記されており、一部は『不二三十六景』において活かされている。『甲斐志料集成』などに収録され知られていたが、原本は関東大震災で焼失している。発見された写生帳は和紙19枚を綴じたもので、縦19.6cm横13.1cm。3代広重が1894年に(明治27年)死去した直後の海外に流出したとされ、1925年イギリス人研究家エドワード・ストレンジが著書で紹介して以来、行方不明であった。2005年ロンドンのオークションでアメリカ人が落札、栃木県那珂川町馬頭広重美術館の学芸員が本物と鑑定した。約80年ぶりに発見されたのである(2006年9月5日朝日新聞)。

肉筆画

左:広重  右:ゴッホの模写
左:広重  右:ゴッホの模写

版画が盛んになって、浮世絵師が版画家になってからは、彩筆をとって紙や絹に立派に書き上げることの出来るものが少なくなったが、広重は版画とはまた趣の違った素晴らしい絵を残している。 有名なのが、俗に「天童広重」とも呼ばれる200点以上の肉筆画で、天童藩から依頼されたものである。当時、藩財政が逼迫したので藩内外の裕福な商人や農民に献金を募ったり、借金をしていた。1851年、その返済の代わりとして広重の絵を贈った。 なお、広重の遠近法は印象派以後の画家、特にゴッホ1853年-1890年)に影響を与えたことで良く知られているが、もともと西洋絵画から浮世絵師が取り入れた様式であり、先人としては北斎や、歌川の始祖豊春1735年-1814年)の浮絵にみられる。


注釈

  1. ^ 八代洲河岸は和田倉門から馬場先門周辺にかけての江戸城内濠(馬場先濠)沿いを指し、定火消屋敷は現在明治生命館が建つ場所(東京都千代田区丸の内二丁目)にあった。この地名の変遷については八重洲参照。
  2. ^ 現住所は東京都墨田区向島4-9-13
  3. ^ 増補浮世絵類考』では、62歳で死亡とある。
  4. ^ 当初、浅草北松山町にあったが、関東大震災により、足立区伊興本町1-6 に移転、東武伊勢崎線竹ノ塚駅より徒歩圏内。

出典

  1. ^ 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年、49頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  2. ^ 歌川広重伝」『浮世絵師歌川列伝』「
  3. ^ 白石(1993)
  4. ^ 関根(1899)
  5. ^ 田辺昌子監『カラー版徹底図解 浮世絵』新星出版社、2011年、ISBN 978-4-405-10701-4、p.40
  6. ^ 北斎・広重の浮世絵に見るジャパンブルー 〜渋沢栄一の生きた時代〜 アダチ版画研究所
  7. ^ 永田生慈 「広重の動静と作品 問題点を中心として」『生誕200周年記念 特別展 歌川広重展』図録所収、1996年
  8. ^ a b c d e f g 白井和雄. “江戸時代の消防事情5”. 一般財団法人 消防防災科学センター. 2020年8月6日閲覧。
  9. ^ 藤懸(1924)
  10. ^ 菊地(1965)
  11. ^ 文化遺産オンライン・作品一覧より広重「月に雁」


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