大本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/11 13:54 UTC 版)
大本事件
詳細は「大本事件」を参照
第一次大本事件
1921年(大正10年)に起きた事件である。不敬罪と新聞紙法違反の容疑で王仁三郎が逮捕された。1927年(昭和2年)に恩赦(大正天皇大葬による)が行われ、裁判自体が消滅、事件は終結した。この間、一部の信者が教団を離脱した[11]。生長の家を後に興した谷口雅春は当時大本の信者であったが、明治55年(1922年=大正11年)に起こると予言された「立替え」が起こらなかったので不信が生じ事件に際して教団を去っている[12]。
第二次大本事件
1935年(昭和10年)に起きた事件である。不敬罪、新聞紙法、治安維持法に問われた。教団本部の建物撤去が行われた[13]。
第三次大本事件
宗教法人大本内では反教団事件と呼称される、四代教主の地位をめぐる紛争。および大本の教義解釈の衝突を発端とする別派の独立。
二代教主・澄の帰幽の頃(昭和27年、1952年)には既にその兆候があったとされており、1980年代に顕在化し始めた。
最終的に宗教法人大本、愛善苑、大本信徒連合会の3派に分裂している。(大本信徒連合会は宗教法人大本内の一派閥だと主張しており、分離独立を否定しているが、組織としては完全に分離独立した状態にある)
王仁三郎の孫・和明らを中心とする一派は、当時の大本内において王仁三郎の神格や思想が蔑ろにされているとして、宗教観を共にする者たちと共に「いづとみづの会」を結成して、派閥闘争の末に訴訟へと発展した。後に大本を脱退して「愛善苑」へと改組。
王仁三郎の長女・直美らを中心とする一派は、出口直美は生まれながらにして四代教主となることが決まっていたとし、王仁三郎が生前に直美を開祖と同じ稚姫君命の御霊であると審神し四代の証を手渡していたことなどを根拠に「大本四代教主 出口直美様を守る会」を結成、派閥闘争の末に訴訟へと発展した。後に直美を派閥独自の教主として立て「大本信徒連合会[14]」へと改組[15][16]。
- ^ a b 永岡崇 (2013). “宗教文化は誰の者か - 『大本七十年史』編纂事業をめぐって”. 日本研究 (国際日本文化センター) (47): 130.
- ^ a b 島田裕巳『現代にっぽん新宗教百科』 柏書房 90-95p
- ^ 玉串奉奠の作法1 - 公式サイト
- ^ “霊場(霊山・霊地) 沓島・冠島”. 宗教法人大本. 2021年9月9日閲覧。
- ^ 『大本神諭』明治三十四年旧十二月三日 / 大正三年旧七月十一日
- ^ 『霊界物語』第1巻 第三五章 「一輪の秘密」、第38巻 第十三章 「冠島」 / 第一四章 「沓島」
- ^ 『いのりとつどいー教派神道連合会結成百周年記念史』1996年。10-12頁。
- ^ 祭神 - 公式サイト
- ^ “予言と警告”. 大本信徒連合会. 2023年1月2日閲覧。
- ^ “王仁三郎がみろく様”. 大本信徒連合会. 2021年4月21日閲覧。
- ^ 『オールカラーでわかりやすい! 世界の宗教』236頁
- ^ 井上順孝 『新宗教の解読』 ちくま学芸文庫 [イ-12-1] ISBN 4480082735、111p
- ^ 五十嵐太郎 『新宗教と巨大建築』 講談社現代新書 1580 ISBN 4061495801、164p
- ^ 大本信徒連合会 公式ホームページ
- ^ “第三次大本事件の本質”. 大本信徒連合会. 2022年9月29日閲覧。
- ^ “「反教団事件」の本質”. 宗教法人大本. 2021年5月31日閲覧。
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