TM NETWORK〜TMNとは? わかりやすく解説

TM NETWORK〜TMN

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:52 UTC 版)

小室哲哉」の記事における「TM NETWORK〜TMN」の解説

自身音楽ユニットであるTM NETWORK(のちTMN)と並行して三浦徳子勧め三浦紹介知り合った渡辺有三推薦、「たまには他の人の曲を作るのも勉強になる」という今野敏後押し岡田有希子の「Sweet Planet」「水色プリンセス水の精―」を皮切りに渡辺美里伊藤かずえ八木さおり荻野目洋子おニャン子クラブ福永恵規堀ちえみ中山美穂松田聖子小泉今日子今井優子宮沢りえ観月ありさ牧瀬里穂中森明菜などに楽曲提供し作曲家としても活躍するその活動TM NETWORKソロ活動の際の企画制作費プロモーション環境整備一役買った。特に当時共同作業する機会多かった大村雅朗に関して小室は「僕が提示しようとした新しさを一番理解してくれた。その上で他の歌謡曲どのように馴染ませるか・どうフレーズコード進行アレンジすればヒットするかを考えるときに随分助けてもらった」と語っている。その活動巡り巡って雑誌新聞に「TM小室哲哉作曲と言う形でTM宣伝として形に表れその後作曲家としての小室動き方大きな影響与えた1986年昭和61年)に渡辺美里提供したMy Revolution」が、第28回日本レコード大賞金賞TM NETWORKは、1987年発表したGet Wild」で一躍人気バンドとなり、1988年には第39回NHK紅白歌合戦出場。しかし、小室は「何で『Get Wild』が1位じゃないんだ」と悔しがり、それ以来レコード会社一緒に他の人気アーティスト発売日飾らないように、スケジュールを自ら調整するうになる1988年初春から、「CAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜」等の制作海外の動向探り最新音源直接触れるために小室一人仕事費用ペイすることを条件ロンドン渡り半年程をアパート過ごした部屋置いたCP-80で曲を作り製品盤のイメージ見えてきたらトンプソン・ツインズのプライベートスタジオに足を運んでデモテープ作り、それを郊外レコーディングスタジオ仕上げるという現地ミュージシャンと同じスタイルでの制作活動繰り返したあわよくば現地にて女性ボーカリストスカウトしTM international」というTM姉妹ユニット結成世界デビューさせて、「ディスコアルバム」「既存TM楽曲英訳版」を制作発売する計画があったが、カイリー・ミノーグ1stアルバムKylie」の売り上げ規模をみて、日本海外マーケットの差が如何に隔絶しているかを思い知らされたこと・「キック・ハイハットがシンクロていないこれでは踊れない」と現地ミュージシャン忠告され自分無力さ痛感したこと・プロデューサー集団PWLストック・エイトキン・ウォーターマン)の仕事間近見たことによりスタジオワーク面白さ知ったこと・ジャングルロンドンでの浸透ショック受けたこと・日本との連絡手段として、直接話すときは国際電話企画書チェックにはFAXデモテープ配送には郵便用途別に使わなければならず、無駄な時間通信費がかかり、本来の仕事支障きたしたことで白紙になった。この件がきっかけそれ以降1年に最低でも1回多くて4~5回はスタジオ設計機材研究兼ねてロンドン複数スタジオでレコーディング・ミキシング作業を行うようになるその他にミュージカル作曲家アンドルー・ロイド・ウェバー次から次へめくるめく感覚にも影響を受け、研究した1989年昭和64年/平成元年)にシンガーソングライターとしてソロデビューリードボーカル担当したRUNNING TO HORIZON」、「GRAVITY OF LOVE」が連続でオリコンシングルチャート1位を記録1985年 - 1992年の間には、アニメーション映画の「吸血鬼ハンターD」、実写映画の「ぼくらの七日間戦争」、「天と地と」、月9テレビドラマの「二十歳の約束」、舞台ミュージカルの「マドモアゼル モーツァルト」の劇中音楽手掛けた1991年頃、松浦勝人対面した際に松浦からTM楽曲ユーロビート調にアレンジしたリミックスアルバムTMN SONG MEETS DISCO STYLE」の企画持ちかけられ時にTM作品初回プレス売り切っても、バックオーダー発生しないから楽曲ファン以外に広がらずカラオケでもディスコでも渡辺美里さんの曲しかかからない」という危惧諦めからTM固定ファンを「15個の消しゴム」と例えるようになり、当時新興軌道に乗り始めていたエイベックスからの誘いには最初及び腰だった。だが松浦の「だったらTM楽曲かからないような所をターゲットにすればいいじゃないですか。絶対格好悪ならないようにしますから」「ヨーロッパで一つの音で、ダンスフロアがぶわっと盛り上がるそういう作り方音楽面白いですよ」と勧められたこともあり、1992年から自分ベース一つであるダンス・ミュージックが「どうしたらそのジャンル大好きな固定ファンから不特定多数大衆広がるか」をDJとして全国回り音色出演メンバー対す若者反応確かめオーディション審査員務め地道にスタジオで作曲活動をする等の試行錯誤をしていた。ダンス・ミュージック主軸専念した理由として、「カラオケディスコ流行りだしていて、ディスコの後にカラオケ行く人多かったでも、歌う曲はサザンオールスターズ松任谷由実さん・ZARDのような熱唱なければいけない型ばかりで、ただタンバリン持ってメロディ合わせて踊るだけでは無理がある曲が多かった。だから、歌うか・踊るかどちらに行って楽しめるがもっとあってもいい。僕から見るとそこがマーケットとしての空白だった」と語っている。しかし、1970年代 - 1980年代シンセサイザーだとどうしても難しプログラミングできないため、やむを得ずメロディーリズム戻ってくる」パターン作って繰り返さなければならず「流れ流暢ドラマチック起承転結ある日本の歌謡曲」「尾崎豊さんのような涙・汗・エモーショナル楽曲名曲」と若者受け入れられていた世間に対して、どうやったら反復多くて無機質なダンス・ミュージックロック・ミュージック対抗できるパワー持たせるか、音楽業界入り込むかを考えていた。 しかし、小室avex traxライセンス契約結んだ際、EPIC内では「他社アーティストプロデュースするなんて契約違反だ!」「法的に何の問題もないが義理としてはどうか」と議論巻き起こった。これは当時音楽業界では「音楽プロデューサーレコード会社社員・元アーティスト専属契約」であることが多かったためといわれる。その問題対応するためにtrfデビューの際、TMとしての契約引き続きEPICと結びながら、音楽プロデューサーとしてフリーランスであるために、個人事務所OPERA GIG(後にTK state改名)」を設立し小室音楽に関する全てのコンセプト立てた。それをスムーズに実行させるために、丸山茂雄は「アーティスト主導レパートリー管理特化した芸能事務所」をコンセプトに「アンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)」を設立小室第一契約者となった。それと同時に丸山小室個人事務所フリー契約を結び、avexとの橋渡し役を務めた形態として「演奏権確かにエピック側が持っているが、打ち込まれデータ再生演奏ではない」と丸山保障することで契約問題乗り越え、その見返りとして本来小室支払われる3つの音楽著作権印税の内「原盤権生じ印税」「実演家としてのアーティスト印税」を丸山が頂く形をとり、「作詞・作曲・編曲プロデュース中心とした売上中1~5%の著作権印税」は小室取り分になった1993年音楽プロデューサー徹する決意周囲表明する東京オフィスビルフロア借り切り個人用スタジオを3軒建て、ミキシング専任スタッフロサンゼルスロンドン抱え配送スタッフを週2日定期的に行き来させる等、いつ誰とでも楽曲制作ができて、スムーズに海を越え態勢整え、「1993年スタジオで音作り明け暮れた」と述懐する程に只管楽曲ストック増やす制作活動徹したその時目標となったのが、ジ・オーブ作品群活動スタイルであり、「TMtrf共通する僕のすごくポップな部分生まれ切っ掛けになった」と話している。その時状況を「世の中は既に仕事分担してシステム化していくのに、全て自分一人決めていくなんて時代逆行しているのではないかやっていることは家内制手工業同じだ」と迷い見せたが、反面作詞・作曲・編曲の内、小室担当する作業がどれか1つだけだと制作行き詰まり敢えて3つ兼ねれば「メロディコード進行が同じでも、音色作詞次第で全く別の曲にできる」「作詞行き詰ったときにコード進行マイナーからメジャーにすることで全然違うイメージにする」「アレンジダンスミュージックからロック簡単に様変わりできる」等仕事組み合わせ3つ以上あった方がかえって仕事やりやすいことに気付き、「大量アイディアライブラリーになるし、アーティストキャラクター色分けにもつながる」と語っている。 そうした要領創作活動行いながら企画書練っていく内に、「TMできることもうないんじゃないか」「女性ボーカリストのための曲をプロデュース・ワーク的な部分作りたい」とその内容小室を含むTMの3人では到底収めることができるものではなくなってしまったために1994年TM活動停止決意するその際のキーワードとして「解散ではなく終了」を全面的に押し出したのはその間になってもなおTM次のイメージ可能性見つけた自分気付き、それを尊重するために「飽くまで第1期プロジェクト終了」「ニュース・ドキュメンタリー・モニュメントとしての終了』という言葉プロデュース」 というコンセプトから来たものである小室が後に「どう聞いてもわがまま」と振り返るほどの申し出受け入れてくれた宇都宮木根には感謝の意示している。

※この「TM NETWORK〜TMN」の解説は、「小室哲哉」の解説の一部です。
「TM NETWORK〜TMN」を含む「小室哲哉」の記事については、「小室哲哉」の概要を参照ください。

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