趙雲
趙雲
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趙 雲(ちょう うん、拼音: 、生年不詳 - 建興7年(229年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。字は子龍(しりゅう・しりょう)[1]。冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号は永昌亭侯。諡は順平侯。
注釈
- ^ 『華陽国志』によると、翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後であり「關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞。又以黄忠為後將軍,趙雲翊軍將軍。」と四将と並んで昇進したと記録されている。
- ^ 諸葛亮伝および『華陽国志』によれば、趙雲らの軍は擬軍(少数の兵を多数に見せかけること)であったという。
- ^ 胡三省は、『晋書』職官志を根拠にすると鎮軍将軍は四征将軍・四鎮将軍の上位であるため、鎮東将軍から鎮軍将軍へとなるとむしろ昇格になることを指摘し、「思うに、蜀漢の制度では鎮東将軍は方面の鎮圧を専らにするものだから、鎮軍将軍は雑号将軍だった。それゆえ降格となるのだろう」と述べている[2]。しかし蜀の鎮軍将軍は四征将軍や四鎮将軍同様に上位職の鎮軍大将軍の位が置いてあり、雑号将軍であるとは考えづらい。盧弼は「『宋書』百官志では、鎮軍将軍は四鎮将軍と比較すると、四鎮将軍に次ぐ。『晋書』のいう鎮軍将軍は鎮軍大将軍のことであるから、四征将軍・四鎮将軍よりも上位なのだ」と述べている[3]。
- ^ 192年に常山郡は袁紹の統治領となった。
- ^ この時、他に増祀された従祀名臣は、倉頡、仲虺、畢公高、周呂侯、仲山甫、尹吉甫、劉章、魏相、丙吉、耿弇、馬援、狄仁傑、宋璟、姚崇、李泌、陸贄、裴度、呂蒙正、李沆、寇準、王曾、范仲淹、富弼、韓琦、文彦博、司馬光、李綱、趙鼎、文天祥、呼嚕、博果密、托克托、常遇春、李文忠、楊士奇、楊榮、于謙、李賢、劉大夏[23]。
- ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主(劉禅)を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応している[24]。
出典
- ^ 『趙雲』 - コトバンク
- ^
(中国語) 『資治通鑑』巻71太和二年胡注, ウィキソースより閲覧, "據《晉書‧職官志》:鎭軍將軍在四征、四鎭將軍之上。今趙雲自鎭東將軍貶鎭軍將軍,蓋蜀漢之制,以鎭東爲專鎭方面,而以鎭軍爲散號,故爲貶也。"
- ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "《宋書· 百官志》鎭軍將軍比四鎭,在四鎭之次。《晉志》 之鎭軍將軍為鎭軍大將軍,故在四征、四鎭之上也。"
- ^ 楊子龍「浅談魏晋南北朝時期雑伝之別伝」『四川教育学院学報』第3号、2009年、57-58頁。p. 58.
- ^ 朱静「魏晋別伝繁興原因探析」『塩城師範学院学報(文社会科学版)』第2号、2006年、62-66頁。p. 65.
- ^ 田延峰「漢魏六朝時期人物別伝綜論」『宝鶏匯理学院学報(哲学社会科学版)』第2号、1995年、76-80, 20。pp. 77-78, 80.
- ^ 趙華「略論別伝与史伝之異同」『黒河学刊』第6号、2003年、85-86頁。p. 58.
- ^ 朱 2006, pp. 62–64.
- ^ 王煥然「試論漢末的名土別伝」『沈陽師範大学学報(社会科学版)』第2号、2004年、70-74頁。p. 74.
- ^ 裴媛媛「魏晋別伝体例考論」『編輯之友』第11号、2012年、106-108頁。p. 107.
- ^ 『三国志』巻14孫資伝注引『孫資別伝』
- ^ 田 1995, p. 80; 楊 2009, p. 58.
- ^ 『漢書』巻65東方朔伝顔師古注, "謂如《東方朔別傳》及俗用五行時日之書,皆非實事也。"
- ^ 矢野 1967, pp. 30–31.
- ^ 田 1995, pp. 77, 80.
- ^ 渡邉 2020, pp. 242–243.
- ^ 渡邉 2020, p. 243.
- ^ 矢野主税「別伝の研究」『社會科學論叢』第16号、1967年、17-45頁。p. 31.
- ^ 矢野 1967, p. 45.
- ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "本傳先主為平原相時,[趙]雲已隨從主騎,《別傳》謂 '就袁紹,雲見於鄴' 則在建安五年後,此違反不可信也。";"諸葛賞罰之肅,雲猶貶號,其下安得濫賜?又足以明其不然。別傳類皆子孫溢美之言,故承祚不取。"
- ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "雲之駁分賜,議甚忠正,然經國之務,有諸葛公在,必得其當,未應反待武臣駮議,殆家傳掠美耳。其諫伐吳,則又諸葛公所不能得之,其主追思孝直,恐散號列將非所及也。《別傳》大抵依仿諸葛子瑜書及孫權稱尊號諸葛公不明絕其僭之義為之。"
- ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "雲之美德皆見《別傳》 ,而本傳略不及之,何哉?"
- ^
(中国語) 『清史稿』巻84礼志三, ウィキソースより閲覧, "[康熙]六十一年,[聖祖]諭:「帝王崇祀,代止一二君,或廟饗其臣子而不及其君父,是偏也。凡為天下主,除亡國暨無道被弒,悉當廟祀。有明國事,壞自萬曆、泰昌、天啟三朝,神宗、光宗、憙宗不應崇祀,咎不在愍帝也。」於是廷臣議正殿增祀[...]凡百四十三位。其從祀功臣,增黃帝臣倉頡,商仲虺,周畢公高、呂侯、仲山甫、尹吉甫,漢劉章、魏相、丙吉、耿弇、馬援、趙雲,唐狄仁傑、宋璟、姚崇、李泌、陸贄、裴度,宋呂蒙正、李沆、寇準、王曾、范仲淹、富弼、韓琦、文彥博、司馬光、李綱、趙鼎、文天祥,金呼嚕,元博果密、托克托,明常遇春、李文忠、楊士奇、楊榮、于謙、李賢、劉大夏,凡四十人。是歲,世宗御極,依議行,增置神主,為文鑱之石。"
- ^ 『三国志集解』巻36評, "灌[嬰]摧項羽於垓下,滕[公]脫孝惠於彭城,比之定軍、當陽之事。"
- ^
季漢輔臣贊 〈贊趙子龍、陳叔至〉 (中国語), 季漢輔臣贊, ウィキソースより閲覧。 - 征南厚重,征西忠克。統時選士,猛將之烈。
- ^
(中国語) 『榕村語録』巻22, ウィキソースより閲覧, "趙雲、張嶷不獨有將略,其見事明決,持重老成,實古重臣之選。"
- ^ “一身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。
- ^ “満身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。
- ^ 嘉靖元年(1522年)序刊『三国志通俗演義』二十四巻「盖因嚇喝主母、以致喪命、亦是不忠也。」
- ^ 上野隆三「『三国演義』における趙雲像」(PDF)『中國文學報』第38号、1987年、86-114頁。p. 98.
- ^ 上野 1987, pp. 102–104.
趙雲(ちょううん)(別名:蘭(らん))
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「王者の遊戯」の記事における「趙雲(ちょううん)(別名:蘭(らん))」の解説
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趙雲
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「ジャイアントロボ バベルの籠城」の記事における「趙雲」の解説
口からあらゆる物を吸い込む能力を持つ。幽鬼と対決する。ヒィッツカラルドのエネルギーを吸い取り重症を負わせるが、幽鬼の命をかけた最後の技で死亡。
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趙雲(趙子龍)(ちょう うん / しりゅう)
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「孔明のヨメ。」の記事における「趙雲(趙子龍)(ちょう うん / しりゅう)」の解説
孔明の財布を掏摸取った難民の少年を取り押さえた男。劉備の家臣。劉備とその家族を守る護衛役(阿斗の子守もする)。
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趙雲(ちょううん)
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「三国志 (北方謙三)」の記事における「趙雲(ちょううん)」の解説
常山真定出身の偉丈夫。公孫瓚の部将だった時に、単身で敵からの攻撃を防ぐなど一目おかれる活躍をしその後劉備に惚れ込み仕官を直訴。このときは劉備は自身も内心では登用したいとは思ったものの自分の信念から一年間世間を知り様々な人を見てそれでも自分を気に入ったのなら、また士官しに来いとを諭され、天下行脚の旅に出る。(劉備は内面では他のところに行ってしまうのではないかと心配していたのを漏らした)それでもやはり、帰還後は劉備に仕えさらに劉備軍の重鎮となり、この旅で得た人脈が後々劉備に利することになった。その武勇は張飛 関羽にもまさるとも劣らずと評され、その武勇で様々な将軍を怯えさせた。さらにその人の良さからも周りに好かれた。史実では諸葛亮と親交が深いが、今作ではそのような面はあまり見受けられない。趙雲率いる騎馬隊の素早さから老齢になっても、第一線で活躍をする。作品後半の夷陵の戦いでは、劉備に反対するものの、ギリギリのところ助けに入るなど、作品を通じて義の武将である。
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趙雲(ちょううん)
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「バイトのコーメイくん」の記事における「趙雲(ちょううん)」の解説
コーメイより後に採用されたバイト店員。高校生で、重度の中二病で、500万円の名槍「竜胆」を買うためにバイトしている。また、中学時代のルールを高校まで持ち込むタイプである。時折コーメイを「お兄ちゃん」と呼ぶ。
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趙雲
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「私説三国志 天の華・地の風」の記事における「趙雲」の解説
字は子龍で、孔明の理解者の一人。細作二十余名を引き連れた上で、南屏山付近の入り江にて孔明救出任務を請け負う。呉の追手に矢を打ち、船を傾かせた隙に帆をあげ、距離を取った。死亡年は不明だが、心不全で亡くなったことになっている。
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趙雲(ちょううん)
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「ランペイジ (漫画)」の記事における「趙雲(ちょううん)」の解説
初登場の時点では黄巾側について劉備軍と対立。しかし、劉備の絶対魅了によって戦闘不能になる。もともと、過去に女性に関するトラウマがあるらしく、劉備の一件以降、よりいっそう女性嫌いに拍車がかかったようである。黄巾の乱平定後は劉備軍に誘われる。しかし、張宝に操られていた村人を殺した張飛・劉備に不信を抱き、これを拒絶した。
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趙雲(演:鶴田亮介 / 片山徳人)
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「龍狼伝」の記事における「趙雲(演:鶴田亮介 / 片山徳人)」の解説
基本的には『演義』に準ずる。本作序盤で志狼に槍術を教えている。彼も関羽や張飛に勝るとも劣らぬ強さを持ち、虎豹騎にも余力を残して勝てる。『匈奴編』では劉備から密命を受ける形で終盤に再登場を果たし、志狼を助けている。
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趙雲
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趙雲
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五虎将軍の一角。長坂の戦いで劉禅を救ったというエピソードから、普段から彼を背負った状態で登場することが多い。劉備たちと一緒に遊ぶこともあるが、基本的には真面目なキャラクターのようで劉備たちを諭す場面もある。劉備の妻である淑玲(スーリン)が足手まといになるまいと井戸に身投げするネタでよく登場する。実家は農家。
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趙雲
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『演義』完成段階における重要度の変化という意味で、張飛と好対照をなすのが趙雲(字:子龍)である。 趙雲は『演義』において蜀漢の五虎将軍に数えられる名将であり、その活躍や忠誠も関羽・張飛に匹敵する英雄として描かれる。しかし正史には五虎将軍という官職は実在しないうえ(蜀書巻6に「関張馬黄趙伝」と5人の武臣がまとめられていることから、後世に総称されただけのもの)、趙雲伝の記述はわずか246字に過ぎず、『演義』に見られる活躍はほとんど記載されていない。わずかに長坂の戦いにおいて幼い劉禅を保護したことが載るのみである。裴注に引く『趙雲別伝』に、わずかに桂陽太守趙範から未亡人の兄嫁との縁談を勧められるも怒って断った話や、定軍山の戦いの後帰陣しない黄忠の身を案じて出陣した趙雲が、包囲する敵兵を突破して救援し、劉備から「子龍は一身これすべて胆なり」と賞賛された説話が載る。しかし『平話』の段階に至っても、戦場での活躍などは他の武将からそれほど突出した印象はない。 趙雲は『演義』が完成する段階で、一躍英雄としての描写を増加させた人物だった。上記の黄忠を救う場面を採用するにあたり、『演義』は戦闘の描写に文学的技巧の精緻を尽くし、戦場における趙雲の華麗で鮮やかな動きを梨花にたとえる見事な場面に作り上げている。ほかにも『演義』の段階で加えられた趙雲の活躍場面には高度な技巧的表現が用いられたり、忠義・実直・無欲な面が強調され「士大夫の理想的な」武将としての趙雲が描かれていることが多い。これらは張飛や孔明が語り物や演劇などの世界で培われた英雄なのに対し、趙雲は『平話』より後の、文学作品として完成する詰めの段階で造形され、知識人たちの倫理観による洗礼や、文学的なリライトといった技巧を施されて形成された英雄ということを物語るものである。小松建男は『演義』の地の文で、場面によって「趙雲」「子龍」という異なる呼称が偏る傾向があることに注目し、「子龍」が使われる場面(劉備が孫権の妹を娶るために呉へ赴いた際に趙雲が従った話、桂陽太守の兄嫁を巡る話など)は、総じて倫理的・理知的で思慮深い側面を描くために挿入された、比較的新しい故事の可能性があることを指摘している。 『演義』と同じく口承文芸や演劇から小説に発展した『水滸伝』においても、趙雲と同様の士大夫的倫理観を持つ英雄林冲の説話が最終段階で挿入された形跡があり(詳細は水滸伝の成立史#林冲像の形成)、白話文芸から文学作品として大成させる最終段階で、知識人が果たした役割を示している。
※この「趙雲」の解説は、「三国志演義の成立史」の解説の一部です。
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