林冲像の形成
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豹子頭林冲(第6位)は、現行『水滸伝』で序盤に魯智深・柴進・楊志ら重要人物を橋渡しする役割を持ち、人気も高い人物であるが、先述のように『癸辛雑識』に引く宋江三十六人賛の中にその名は見られず、比較的新しいキャラクターである。その容貌は「身長八尺、豹頭環眼、燕頷虎鬚」と形容され、丈八蛇矛を用いるという描写は、『三国志演義』の張飛の描かれ方と全く同じであり、実際に彼は梁山泊内で「小張飛」とも呼ばれている(第48回)。しかしながら、短慮で粗暴な性格ながら楽天的・喜劇的な人物として描かれる張飛とは異なり、林冲は沈着冷静で悲観的・悲劇的な人物であって、張飛的な外見とは大きな隔たりがある。すでに述べたように明初の雑劇『豹子和尚自還俗』では、豪放磊落な(張飛的な性格を持つ)魯智深が同様のあだ名で呼ばれており、「豹子」の語は張飛的なキャラクターを表すあだ名になっていたことが伺える。これは、梁山泊の序列で林冲の1つ上に位置する第5位の関勝が、張飛の義兄であった関羽の子孫で、容貌も関羽そっくりという設定があったことから、『三国志演義』の関羽・張飛のペアと対比する形で、関勝・林冲の組み合わせとして性格設定されたと見られるが、現行『水滸伝』の林冲に関する物語からは、張飛的なエピソードはあまり多くない(また、物語上での関勝と林冲の絡みも少ない)。 ただし、概ね冷静沈着である林冲の性格も、途中で幾たびか変化する場面が見られる。林冲が主役として活躍する物語は第7回から第11回までであるが、後半の第10回には陸謙を殺害した後、雪山を逃亡する途中に焚き火で暖を取っていた農民に酒肉を求めて断られると、力尽くで農民らを追い払い、一人で酒を飲んで酔いつぶれ、逆に捕らわれてしまうという破天荒・自暴自棄的な姿が描かれ、それまでの林冲像とかなり矛盾している。これを無実の罪で陥れられ、やむなく殺人を犯すという破滅的な局面に追われた林冲の性格の変化と捉える高島俊男のような見方もあるが、この場面での林冲の性格は、むしろ『三国志演義』における張飛の描かれ方と同じである。このほかにも林冲を恩人と慕う李小二が「林教頭は短気なお人で、すぐに人殺しや火付けをなさる」と述べるなど(実際の林冲はそのような行動は見られない)、張飛的性格の残滓がいくつか『水滸伝』にも見られる。 一方で、崑曲や京劇など演劇の世界では通常、林冲はひげのない二枚目役者が演じることが慣習となっており、生真面目な性格の悲劇的な人物として描かれていた。このような相反した林冲像は、元々の小説的構想であった「小張飛」的林冲という造形の上に、演劇などで演じられる二枚目で冷静な林冲の物語をかぶせてできあがったためと思われる。 演劇における林冲物語は「夜奔」と呼ばれ、これは明代中期に李開先(zh)(1502年 - 1568年)が作成した『宝剣記』という南曲が元になっている。『宝剣記』における林冲は、愛妻との別離や悲劇のヒーローぶりが『水滸伝』と共通しており、『宝剣記』の林冲夜奔物語が『水滸伝』物語の形成過程で取り込まれた可能性が伺える。しかし『宝剣記』は李開先の自序によれば嘉靖26年(1547年)の成立であり、百回本として確立した郭武定本の成立期(1540年頃)よりも後に書かれたと見られるため、逆に『宝剣記』が『水滸伝』の林冲物語を参考にして書いたものと見なされてきた。ただし近年の小松謙の研究により、李開先はこの物語を一から作ったのではなく、交流のあった劉澄甫や陳溥の父が作成した話を集大成したことが判明し、物語成立自体は数十年さかのぼる可能性が指摘された。また陳与郊が『宝剣記』を改作した南曲『霊宝刀』(1617年)が、『宝剣記』の記述を『水滸伝』の物語と整合性を取る方向で改変していることからも、原『宝剣記』が『水滸伝』の前に成立し、その林冲物語に影響を与えている可能性が高まった。 『宝剣記』では、林冲の官職が『水滸伝』よりも高く設定されていたり、配流される途中に出会った公孫勝が参軍という歴とした官僚として登場するなど、林冲・公孫勝の地位の設定が『水滸伝』と大きく異なる。両者はともに宋江三十六人賛の中に数えられておらず、『大宋宣和遺事』の段階でも名前のみ登場する影の薄い人物である。独自の物語を持たず名前のみが伝えられた2人を用いて作られた新しい物語が原『宝剣記』であり、それが水滸伝形成過程で取り入れられたものと思われる。
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