百貨店での藤田大佐らの「展示」とは? わかりやすく解説

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百貨店での藤田大佐らの「展示」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 04:10 UTC 版)

通化事件」の記事における「百貨店での藤田大佐らの「展示」」の解説

3月5日11月17日逮捕されていた元満鉄総裁大村卓一海竜獄舎獄死する3月10日になると市内百貨店中国共産党軍主催2・3事件展示会開かれ戦利品中央藤田大佐見せしめとして3日間に渡り立ったまま晒し者にされた。中国側資料ではこのとき国民党責任者として劉慶栄がともに晒されたとされているが、日本人側では晒されていたのは孫耕暁であった考えて伝え証言が多い。2月5日拘束され藤田痩せてやつれた体に中国服をまとい、風邪をひいているのか始終鼻水垂らしながら「許してください自分不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」と謝り続けた。これは、現地習慣で、再犯を防ぐために犯罪犯した者に晒しものにしてそのように言わせるものだが、藤田はその前の留置中においても小声周りの者に謝り続けていたという話もあり、本心からの謝罪であった可能性もある。一方で判断誤った謝罪していたするものもあり、であれば、単に失敗したのがまずかったのだとしか考えていなかったかもしれない反乱軍鎮圧展示品とされたものには林弥一郎少佐一二三送った越の銘入り軍刀展示された。3月15日藤田肺炎獄死した。藤田大佐死因について毒殺されたものだと疑う者も日本人側にいたようだが、松原一枝押川医師二道江満州製鉄の元勤務医終戦後通化市街に出て他の医師民主病院営んでいた)への調査で、肺炎による病死であることが明らかになっている。その遺体は顔が覆われた形で兵舎前にしばらく横たわっていた。ある婦人が、お前のおかげで婿は帰ってこない、婿を返してくれと、座り込んで泣きながら迫っていたという。その後何日かして兵舎からほど近い場所で彼の名を書いた棺桶晒し物にされた。実際に遺体中に入っていたかは分からない事件以後 この事件後、八路軍による日頃警備厳しくなり、皮肉なことに日常通化治安は急改善したという。また、この頃延安中国共産党本部方針の変更があり、それが伝えられ通化中国共産党日本人への対応も改善されたという。生存者中国共産党軍への徴兵シベリア抑留などさまざまな運命辿ったこの後9月にごく短期間、国共間の一時的な停戦が行われ、一部ながら帰国作業行われた。これを蜂起参加者中には、これが後の本格的な帰国作業繋がった蜂起成果だと主張する者もいるが、犠牲者遺族の中からは、帰国はもともとポツダム宣言でも決まっており国共内戦滞っていただけで、また、事件後かえって些細なこと朝鮮人兵士射殺され日本人もいたとして反発する声も強い。後に発見され当時中国側資料によれば日本人側から蜂起成功後には日中双方からなる政権(つまり、日本人首謀者・有力者らと漢人国民党関係者らで、現地多数満人統治する政権)を立て邦人帰国させず、中華民国の国籍と職を与えることが要求され国民党側にそれが認められていたという。これは、当時の情勢では、邦人日本人であることを理由日本送還することはせずに、満州での居住権認め中国人と同じ資格其の財産権保障することを意味する。しかし一方で、これは帰国希望する邦人帰国の途まで鎖すことになり、多数難民含めた"持たざる者"にとっては、これから通化市で安い労働力として暮らしていくしかないことを意味する。このことから、蜂起自体は、財閥まで出来ているとされた当時満州で、資産を持つ一部有力者が、自身らの資産自己都合の良い社会構造社会階層維持狙い在郷軍人らを使嗾し、藤田大佐担いで起こそうしたものである可能性が高い。なお、藤田大佐自身は、国民党側から軍事部長日本軍務大臣にあたる)の地位認められていた。 関東軍第二航空団第四錬成飛行部隊はそのメンバー集団八路軍入り中国共産党航空総隊となっていたが、うち、航空技術もたない100余り隊員部隊から離され炭鉱兵器工場送られた。航空総隊航空学校改められ林弥一郎副隊長から参議となり、教官専念学校国民党軍攻撃避けて転々としたものの、数多くパイロット整備士養成し現在の中国空軍母体一つとなった叛乱加担することを計画していた2名の士官は、労働改造教育を受けることになったらしく、労働に就いているところを目撃されている。 篠塚良雄龍泉ホテル共産軍に逮捕されたが包囲された際に熱病にかかり、9月まで意識失っており回復後人民解放軍入隊し1953年撫順戦犯管理所送られたと述べている。帰国後は撫順の奇蹟を受け継ぐ会などで731部隊証言行っている。 1946年末に中華民国政府軍通化奪還する事件犠牲者慰霊祭が行われたともいう。1947年には中国共産党軍通化を再び占領した事件生存者1人だった中山1952年通化遺族会を設立し遺族援護法対象とするための署名活動陳情活動始めるなど全国的な運動展開した1954年には川内通化県県長の妻とともに大野伴睦らの仲介川崎秀二厚生大臣対し遺族援護法通化事件犠牲者にも適用することを嘆願し特例のような形で認められた。他に波及することを怖れる厚生省によって認定作業密かに進めるよう要請され、そのため個別申請勧めるために行った先で、そんなうまい話があるわけはない何らかの詐欺だろう、追い返せ罵られたこともあったという。通化遺族会は1955年以降毎年2月3日靖国神社慰霊祭行っている。 前田光繁当時通化名乗っていた名前は杉野一夫)は日本に帰国後日中友好会理事を務めるなどし、2005年には北京開かれた中国人民抗日戦争世界反ファシズム戦争勝利60周年記念」に出席し胡錦濤主席統治称えるとともに日中関係友好的発展のために努めることを表明した林弥一郎日中平和友好会を創設し会長務めた赤十字病院柴田大尉蜂起失敗後逃走通化県境にさしかかったところで捜索隊に見つかり、追われ野菜潜んだ所を発見され逮捕された。中国側資料では赦され釈放されたように思えるが、邦人社会では、その後臨江捕らえられ9月銃殺されたとも伝えられおり、実態はっきりしない藤田大佐とともに栗山邸で捕まった柴田朝江(柴田大尉とは単に同姓で、特段親族関係はない)については、死刑かと思われたものの、龍泉ホテルでの看護婦としての仕事ぶりを劉司令評価していたためか、いったん釈放されその後9月引揚チャンス捉えて帰国した松原一枝事件取り上げた著作が出ると、自ら連絡をとり、その著述誤り指摘している。 通化中国共産党側の日本人工作員元締めである山田参謀(元鉱山技師で、中国共産党軍参謀部に籍をおいた為このように通称された。実際参謀ではない。元い鉱山妻子置いて八路軍とともに通化に来たという。)は、共産党軍工作員ありながら穏便に処理するため懸命に叛乱防止努力していたのではないか考え向きも多い。多くの説では、邦人叛乱企んでいることを報告しなかったことで、共産党軍疑われ処刑されたとされているものの、日本に無事帰ることが出来たとする者もいる。山田部下らには、日本人側の叛乱成功すれば山田自身は必ず日本人らに処刑される見て自身らの生き残りの途を策して、両陣営二股をかける者もいた。事件後、山田部下らで劉司令取り縋るようにして弁明しているを目撃された者もおり、部下らは多く思想教育を受け直すことで助かったようだ。 日本人首謀者らについては、松原一枝確認した厚生省記録によると、結局多くの者が中国共産党釈放され日本に無事帰還している。ただし、柴田大尉については日本人引揚者の間で消息聞かれず、処刑されたと信じられそのように引揚者から厚生省報告されたためか、戦死記録されていたという。前田光繁は、中国共産党側は藤田大佐殺さず生かして利用する方針だったというが、中国側資料によると、中国共産党側の方針もあり、藤田限らず多く首謀者格の者も取り調べ後、他の者らとともに釈放されたように見える。彼らの一部には、1946年11月以降国民党通化奪回国民党協力し、さらにその後国共内戦継続最終的な共産党勝利の中で逮捕され処刑された者もいたようであるが、かなりの数の者は、それ以前1946年9月からの国共内戦一時休戦時に日本への帰還果たしたであろうか。 藤田大佐家族については、夫人次女双子息子とともに石人から先に引揚げ長女当地での(共産側の)民主化運動への参加知られるようになっていたため、帰路国民党支配地域を通ることから不測の事態避けるため、いったん残り別に北朝鮮経由して帰国した。(なお、佐藤和明は、民主化運動をしていたのを次女としていることから、当時通化にいたのは藤田大佐の娘は次女三女考えているようである。)柴田朝江は、栗林宅にいたタイピスト佐々木きぬ江と奉天の駅で偶然会い、彼女に知らされて、ともに居た藤田夫人藤田大佐遺品渡している。 国民党首謀者らについては、事件前逮捕されていたトップ孫耕暁については中国側資料によれば事件のさなかに処刑された。ナンバー2、3の劉亦天、姜基隆らをはじめ逃走成功した国民党員らは奉天逃亡亡命本部自称反共政権活動続けた政権メンバーについては、孫耕暁藤田実彦生存しているよう見せかけるため、そのままトップ据え日本人メンバー名は偽名使って埋めたという。やがて国民党1946年11月通化奪回、彼ら国民党関係者らは事件釈放されていた日本人メンバー一部とも結んだものの、その後国共内戦最終的な共産党勝利の中で多く逮捕され、劉亦天・姜基隆処刑され其の他メンバーも、一部処刑、あるいは有期刑受けた。 なお、姜基隆については、1946年9月通化からの12名の日本人引揚者国民党支配地域に来た際、共産側にも二股をかけていた者がいたために捉えられ一部拷問かけられ処刑される可能性もあった際に、釈放尽力してくれたという(ただし、12全員救われたのかどうか不明確である。)。

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