百貨店での藤田大佐らの「展示」
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「通化事件」の記事における「百貨店での藤田大佐らの「展示」」の解説
3月5日、11月17日に逮捕されていた元満鉄総裁の大村卓一が海竜の獄舎で獄死する。3月10日になると市内の百貨店で中国共産党軍主催の2・3事件展示会が開かれ、戦利品の中央に藤田大佐が見せしめとして3日間に渡り立ったまま晒し者にされた。中国側資料ではこのとき国民党側責任者として劉慶栄がともに晒されたとされているが、日本人側では晒されていたのは孫耕暁であったと考えて伝える証言が多い。2月5日に拘束された藤田は痩せてやつれた体に中国服をまとい、風邪をひいているのか始終鼻水を垂らしながら「許してください。自分の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」と謝り続けた。これは、現地の習慣で、再犯を防ぐために犯罪を犯した者に晒しものにしてそのように言わせるものだが、藤田はその前の留置中においても小声で周りの者に謝り続けていたという話もあり、本心からの謝罪であった可能性もある。一方で、判断を誤ったと謝罪していたするものもあり、であれば、単に失敗したのがまずかったのだとしか考えていなかったかもしれない。反乱軍鎮圧展示品とされたものには林弥一郎少佐が桐越一二三に送った桐越の銘入りの軍刀も展示された。3月15日に藤田が肺炎で獄死した。藤田大佐の死因については毒殺されたものだと疑う者も日本人側にいたようだが、松原一枝の押川医師(二道江の満州製鉄の元勤務医。終戦後、通化市街に出て他の医師と民主病院を営んでいた)への調査で、肺炎による病死であることが明らかになっている。その遺体は顔が覆われた形で兵舎前にしばらく横たわっていた。ある婦人が、お前のおかげで婿は帰ってこない、婿を返してくれと、座り込んで泣きながら迫っていたという。その後、何日かして兵舎からほど近い場所で彼の名を書いた棺桶が晒し物にされた。実際に遺体が中に入っていたかは分からない。 事件以後 この事件後、八路軍による日頃の警備が厳しくなり、皮肉なことに日常の通化の治安は急改善したという。また、この頃延安の中国共産党本部の方針の変更があり、それが伝えられて通化の中国共産党の日本人への対応も改善されたという。生存者は中国共産党軍への徴兵、シベリア抑留などさまざまな運命を辿った。この後、9月にごく短期間、国共間の一時的な停戦が行われ、一部ながら帰国作業も行われた。これを蜂起参加者の中には、これが後の本格的な帰国作業に繋がった、蜂起の成果だと主張する者もいるが、犠牲者遺族の中からは、帰国はもともとポツダム宣言でも決まっており国共内戦で滞っていただけで、また、事件後かえって些細なことで朝鮮人兵士に射殺された日本人もいたとして反発する声も強い。後に発見された当時の中国側資料によれば、日本人側から、蜂起成功後には日中双方からなる政権(つまり、日本人の首謀者・有力者らと漢人の国民党関係者らで、現地の多数の満人を統治する政権)を立て、邦人を帰国させず、中華民国の国籍と職を与えることが要求され、国民党側にそれが認められていたという。これは、当時の情勢では、邦人を日本人であることを理由に日本に送還することはせずに、満州での居住権を認め、中国人と同じ資格で其の財産権を保障することを意味する。しかし一方で、これは帰国を希望する邦人の帰国の途まで鎖すことになり、多数の難民を含めた"持たざる者"にとっては、これからも通化市で安い労働力として暮らしていくしかないことを意味する。このことから、蜂起自体は、財閥まで出来ているとされた当時の満州で、資産を持つ一部の有力者が、自身らの資産と自己に都合の良い社会構造と社会階層の維持を狙い、在郷軍人らを使嗾し、藤田大佐を担いで起こそうとしたものである可能性が高い。なお、藤田大佐自身は、国民党側から軍事部長(日本の軍務大臣にあたる)の地位を認められていた。 関東軍第二航空団第四錬成飛行部隊はそのメンバーが集団で八路軍に入り、中国共産党の航空総隊となっていたが、うち、航空技術をもたない100名余りの隊員は部隊から離され炭鉱や兵器工場に送られた。航空総隊は航空学校と改められ、林弥一郎は副隊長から参議となり、教官に専念。学校は国民党軍の攻撃を避けて転々としたものの、数多くのパイロットや整備士を養成し、現在の中国空軍の母体の一つとなった。叛乱に加担することを計画していた2名の士官は、労働改造教育を受けることになったらしく、労働に就いているところを目撃されている。 篠塚良雄は龍泉ホテルで共産軍に逮捕されたが包囲された際に熱病にかかり、9月まで意識を失っており回復後は人民解放軍に入隊し、1953年に撫順戦犯管理所に送られたと述べている。帰国後は撫順の奇蹟を受け継ぐ会などで731部隊の証言を行っている。 1946年末に中華民国政府軍が通化を奪還すると事件犠牲者の慰霊祭が行われたともいう。1947年には中国共産党軍が通化を再び占領した。 事件の生存者の1人だった中山菊松は1952年頃通化遺族会を設立し、遺族に援護法対象とするための署名活動や陳情活動を始めるなど全国的な運動を展開した。1954年には川内通化県副県長の妻とともに、大野伴睦らの仲介で川崎秀二厚生大臣に対し、遺族援護法を通化事件犠牲者にも適用することを嘆願し、特例のような形で認められた。他に波及することを怖れる厚生省によって認定作業は密かに進めるよう要請され、そのため個別に申請を勧めるために行った先で、そんなうまい話があるわけはない、何らかの詐欺だろう、追い返せと罵られたこともあったという。通化遺族会は1955年以降、毎年2月3日に靖国神社で慰霊祭を行っている。 前田光繁(当時、通化で名乗っていた名前は杉野一夫)は日本に帰国後、日中友好会理事を務めるなどし、2005年には北京で開かれた「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利60周年記念」に出席し、胡錦濤主席の統治を称えるとともに日中関係の友好的発展のために努めることを表明した。林弥一郎は日中平和友好会を創設し会長を務めた。 赤十字病院の柴田大尉は蜂起失敗後、逃走。通化県境にさしかかったところで捜索隊に見つかり、追われて野菜蔵に潜んだ所を発見され、逮捕された。中国側資料では赦され釈放されたようにも思えるが、邦人社会では、その後臨江で捕らえられ9月に銃殺されたとも伝えられおり、実態ははっきりしない。藤田大佐とともに栗山邸で捕まった柴田朝江(柴田大尉とは単に同姓で、特段の親族関係はない)については、死刑かと思われたものの、龍泉ホテルでの看護婦としての仕事ぶりを劉司令が評価していたためか、いったん釈放され、その後、9月の引揚のチャンスを捉えて帰国した。松原一枝の事件を取り上げた著作が出ると、自ら連絡をとり、その著述の誤りを指摘している。 通化の中国共産党側の日本人工作員の元締めである山田参謀(元鉱山技師で、中国共産党軍の参謀部に籍をおいた為このように通称された。実際の参謀ではない。元いた鉱山に妻子を置いて、八路軍とともに通化に来たという。)は、共産党軍側工作員でありながら、穏便に処理するため懸命に叛乱防止に努力していたのではないかと考える向きも多い。多くの説では、邦人が叛乱を企んでいることを報告しなかったことで、共産党軍に疑われ処刑されたとされているものの、日本に無事帰ることが出来たとする者もいる。山田の部下らには、日本人側の叛乱が成功すれば、山田自身は必ず日本人らに処刑されると見て、自身らの生き残りの途を策して、両陣営に二股をかける者もいた。事件後、山田の部下らで劉司令に取り縋るようにして弁明しているを目撃された者もおり、部下らは多くが思想教育を受け直すことで助かったようだ。 日本人首謀者らについては、松原一枝の確認した厚生省の記録によると、結局、多くの者が中国共産党に釈放されて日本に無事帰還している。ただし、柴田大尉については日本人引揚者の間で消息が聞かれず、処刑されたと信じられ、そのように引揚者から厚生省に報告されたためか、戦死と記録されていたという。前田光繁は、中国共産党側は藤田大佐を殺さず生かして利用する方針だったというが、中国側資料によると、中国共産党側の方針もあり、藤田に限らず多くの首謀者格の者も取り調べ後、他の者らとともに釈放されたように見える。彼らの一部には、1946年11月以降の国民党の通化奪回後国民党に協力し、さらにその後の国共内戦の継続と最終的な共産党勝利の中で逮捕され処刑された者もいたようであるが、かなりの数の者は、それ以前の1946年9月からの国共内戦の一時休戦時に日本への帰還を果たしたのであろうか。 藤田大佐の家族については、夫人が次女、双子の息子とともに石人から先に引揚げ、長女は当地での(共産側の)民主化運動への参加で知られるようになっていたため、帰路に国民党支配地域を通ることから不測の事態を避けるため、いったん残り、別に北朝鮮を経由して帰国した。(なお、佐藤和明は、民主化運動をしていたのを次女としていることから、当時通化にいたのは藤田大佐の娘は次女と三女と考えているようである。)柴田朝江は、栗林宅にいたタイピスト佐々木きぬ江と奉天の駅で偶然会い、彼女に知らされて、ともに居た藤田夫人に藤田大佐の遺品を渡している。 国民党側首謀者らについては、事件前に逮捕されていたトップの孫耕暁については中国側資料によれば事件のさなかに処刑された。ナンバー2、3の劉亦天、姜基隆らをはじめ逃走に成功した国民党員らは奉天に逃亡、亡命本部を自称、反共産政権活動を続けた。政権メンバーについては、孫耕暁、藤田実彦を生存しているよう見せかけるため、そのままトップに据え、日本人メンバー名は偽名を使って埋めたという。やがて国民党が1946年11月通化を奪回、彼ら国民党関係者らは事件後釈放されていた日本人メンバーの一部とも結んだものの、その後の国共内戦と最終的な共産党勝利の中で多くが逮捕され、劉亦天・姜基隆は処刑され、其の他のメンバーも、一部は処刑、あるいは有期刑を受けた。 なお、姜基隆については、1946年9月通化からの12名の日本人引揚者が国民党支配地域に来た際、共産側にも二股をかけていた者がいたために捉えられ、一部は拷問にかけられ、処刑される可能性もあった際に、釈放に尽力してくれたという(ただし、12名全員が救われたのかどうかは不明確である。)。
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