生活・趣味
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趣味として、ゴルフを勧められ、1917年(大正6年)の皇太子時代よりゴルフを行っていた。当時は病弱であり、結核を予防するという意味もあったという。皇太子はゴルフに熱心となり、欧州旅行中も行い、また、来日中の英国王太子(のちのエドワード8世国王、現在のエリザベス2世女王の伯父)と1922年(大正11年)4月19日、プレーしている。妃の良子女王も裕仁親王から教えられゴルフを行っている。赤坂離宮に6ホール、那須御用邸に9ホール、吹上御苑に最初4コース、のち9コースのゴルフコースでプレイした。成績として9コース、58,51,54、良子女王の60という記録がある。満州事変のあとは中止し、吹上御苑コースなども廃止された。 生物学研究所の顕微鏡を古くなっても買い替えることはなく、鉛筆は短くなるまで使い、ノートは余白をほとんど残さず、洋服の新調にも消極的であった。 不自然なものを好まず、盆栽を好まなかった。 天皇皇后と皇太子一家の食事は、宮内庁大膳課に所属する主厨長ら約50人の料理人が担当した。工藤極の回想によると、食材は御料牧場(栃木県)から届けられるほか、カレーの付け合わせとしてラッキョウは桃屋製、福神漬は酒悦製など市販品も使われていた。変わった好みとしては、スルメから骨とゲソを取り除いてオーブントースターで焼いてからちぎり、鉢ですり潰した「イカ粉」をカレーにかけていた。朝食は洋食、昼食・夕食は和洋交互で、同じ食材や調理法(煮る・焼く等)が続かないよう考慮されていた。食事を含め他人の手を煩わせないよう極力配慮しており、メニューに関して何が食べたいという希望が出されることはなく、夜食が必要な時のために待機していた宿直にも声がかかることはなかった。 晩年の昭和天皇は芋類、麺類(蕎麦)、肉料理、鰻、天ぷら、乳製品、チョコレートの順に好物であったとされる。月一回の蕎麦が大変な楽しみで、配膳されたときには御飯を残して蕎麦だけを食べたという。猫舌については、浜名湖で焼きたての鰻の蒲焼を食べて火傷をした逸話が伝わる。このほか、鴨のすき焼きも好んだと伝わるなど、食に関する逸話は非常に多い。 朝食にハムエッグを食することを好んだという。戦後はオートミールとドレッシング抜きのコールスローにトースト2枚の朝食を晩年まで定番とした。 1964年(昭和39年)に下関に行幸した際には、中毒の恐れがあるからとフグを食べられないことに真剣に憤慨し、自分たちだけフグを食べた侍従たちに「フグには毒があるのだぞ」と恨めしそうに言ったという逸話もある。その一方で同所ではイワシなど季節の魚に舌鼓を打ったという。宮中にフグが献上された場合も同じ理由で食すことを止められ、ときには「資格を持った調理人がさばいたフグを食べるのに何の問題があるのか」「献上した人が逆臣だとでも言うのか」と侍医を問い詰めることもあった。しかし、ついに生涯フグは食べることができなかった。 1963年 (昭和38年)、赤坂御所で揚げたての天ぷらを毒見無しで食べたことがある。天ぷらは神田小川町「天政」店主・橋井政二の手によって、屋台で揚げられた江戸前のハゼで、昭和天皇はお代わりをする程に気に入ったという。 1926年(大正15年)5月、摂政宮として岡山県、広島県及び山口県の3県へ行啓の際、御召艦となった戦艦「長門」で将兵の巡検後タバコ盆が出された甲板で「僕は煙草はのまないからタバコ盆は煙草呑みにやろう」と、(「朕」ではなく)はっきり「僕」と言うのを当時主計中尉で「長門」勤務だった出本鹿之助が聞いている。 見学した新幹線の運転台が気に入り、侍従に時間を告げられてもしばらくそこから離れなかったこともある。訪欧時にもフランスで鯉の餌やりに熱中し、時間になってもその場を離れなかったエピソードがある。 スポーツに関しては「幼いときから色々やらされたが、何一つ身につくものはなかった」と発言した。昭和天皇自身は乗馬が好き(軍人として必要とされたという側面もある)で、障害飛越などの馬術を習得しており、戦前はよく行っていた。戦後でも記念写真撮影に際して騎乗することがあった。また水泳(古式泳法)も得意で、水球を楽しむ写真も残っている。 デッキゴルフやビリヤードを好み、戦艦「比叡」を御召艦にしていた際に侍従を相手に興じている。乗艦時は無表情だった昭和天皇が、このときは屈託もなく笑って楽しんでいたという。 映画も大の好みであった。「ベルリン五輪記録映画『民族の祭典』やヴィリ・フォルスト監督の『未完成交響楽』(オーストリア映画)、ディアナ・ダービン主演の『オーケストラの少女』なども鑑賞された」と、戦前の海軍侍従武官であった山澄貞次郎海軍少将が回想記に綴っている。 1975年(昭和50年)10月31日の記者会見で「テレビはどのようなものをご覧になるか」という質問に対し、微笑を浮かべ身を乗り出して、「テレビは色々見てはいますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今どういう番組を見ているかということには答えられません」と微笑みつつ冗談交じりに返した。記者達はこの思わぬ天皇の気遣いに大爆笑した。現在では、側近の日記が明らかになることによってどのような番組を見ていたかが明らかになっており、NHK朝の連続テレビ小説と『水戸黄門』が好きだったとされる。 『おしん』では「その当時の女性の苦労というものを、察していましたが、当時はあまりよく知らなかった。苦労をしていたということは知っていましたけれども、それは非常に大ざっぱな感想しか、その当時は承知していませんでした。」と感想を述べた。『おしん』の原作と脚本を手掛けた橋田壽賀子によれば、おしんの誕生年設定はあえて昭和天皇と同年の明治34年としており、その意図は「昭和天皇にご覧頂くため」であったことに言及している。 テレビ番組に関してはこのほか『自然のアルバム』などもよく視聴した。意外なところでは『プレイガール』も視聴したことがあるという。『刑事コロンボ』も好きで、訪米の際には主演のピーター・フォークを昼食会に招待しようと希望したという記事もあるが、訪米直前のニューズウィークのインタビューでは、国民に人気のあることは知っているが観たことはないと答えている。 テレビの被写体になることに関して、『皇室アルバム』のプロデューサーを務めた古山光一が「秋田国体に行かれたときに、小雨が降って侍従が傘を差し出したら、強風で傘が飛び、陛下の帽子も飛ばされた映像もあるんです。戦前なら即NGでしょうが、陛下はそれをご覧になって『おもしろい映像だったね』とおっしゃったそうです。そういうお声を聞くと侍従も困るといえません。昭和天皇の人間性で、この番組は、救われてきた気がします」と振り返っており、古山も天皇と皇族の動静がテレビで報道されることに一定の理解を示していた。 好角家として知られる昭和天皇は、当時の日本相撲協会理事長・春日野清隆が「蔵間は大関になります」と語った言葉をのちのちまで覚えていたらしく、あるとき「蔵間、大関にならないね」とこぼした。春日野理事長は「私は陛下に嘘を申し上げました」と言って謝罪し、その後、蔵間を理事長室へ呼んで叱責したという逸話がある。また高見山が現役引退を表明した頃、日本相撲協会を管轄していた森喜朗文部大臣(当時)へ「髙見山がなぜ辞めたのかね」「髙見山は残念だったろうな」と発言。そのことをのちに森文部大臣が髙見山に伝えると高見山は「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。
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