歴史と受容
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「モール・ウォーキング」の記事における「歴史と受容」の解説
モール(Mall)は木陰のある散歩道や遊歩道を表す言葉でもあるが、もともとアメリカにおけるショッピングモールは、第二次世界大戦後に郊外に建てられ、買い物をする女性にとって安全な商業施設として発展しており、女性客の取り込みとその社交を目的としていた。その意味ではモール・ウォーキングもまた参加者に社会化とショッピングの機会を同時にあたえるものであるといえる。アメリカではいつごろから習慣化したかははっきりしていないが、少なくとも1992年にはサラ・ドノヴァンが各地のモールと提携して、モール・ウォーキング・プログラムを打ち出している。ワシントン大学のベイシア・ベルザらがまとめているように、モール・ウォーキングは天候に左右されず、治安の問題もなく、トイレやベンチ、給水のための設備もあり、地面も水平であるというメリットなど、まさに「歩行者フレンドリーな環境」が揃っている。21世紀のアメリカにおいては、全米各地のモールでみることのできる健康法となった。 モール・ウォーカーの主目的は運動であるため、1990年代のショッピングモールでは歓迎されておらず、入り口を開放する時間も遅かった。しかし見た目でモール・ウォーキングをしている人と一般の買い物客とを見分けるのは困難であり、また特にアメリカでは多くのショッピングモールが集客に苦戦していたことから、テナントなどの開店前からウォーキングのためにモール内を開放するようになった。またモール・ウォーカーに商品の割引を行うなど、運動後もモールにいる時間を増やすような取り組みが始まった。 アメリカ国内でも「モール・ウォーキング」という健康法が知られるようになったばかりの頃は嘲りの対象であり、国外では例えばイギリス人にとっても不可解な言葉であった。しかしその後アメリカ各地でモール・ウォーキングは普及し始め、日本でも地方自治体やショッピングモールを経営する大手流通企業がモール・ウォーキングを奨励するなどして一般化している。 かつて建築家のビクター・グルーエンがモールをギリシャのアゴラに見立てたように、モール・ウォーキングの隆盛によってショッピングモールはただの商業施設ではなく、人々がそこを歩き回り社交するための文化的な中心地として生まれ変わる可能性が指摘されている。
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歴史と受容
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十字架を意味するギリシャ語σταυρός(stauros)は本来直立した杭のことを表す。十字架の形態には垂直で先の尖った杭、T字である直立した木とその上の横木、同じ長さの2つの交差する木からなるものの3つがある。十字架刑はペルシャ人が考案し、最初に使用したものと考えられている。処刑された者の死体によってゾロアスター教のアフラ・マズダに奉献された大地を汚さないようにしたのではないかと推測される。後に十字架はアレクサンダー大王やディアドコイの王子たち、特にカルタゴ人たちによって使用された。ギリシャでは十字架刑は奴隷に限られており、自由人を十字架にかけたのはバルバロイであった。ローマにおいては共和国時代から既に奴隷の処刑方法であり、帝政期にはローマ市民ではない外国人にも行われた。ただし独裁的な為政者は必ずしもこの原則を守っておらず、マカベアの王アレクサンドル1世は、反乱を起こしたベトメを占領したとき、捕虜をエルサレムに連行し、800人のユダヤ人を十字架につけた。ローマでは十字架への磔刑は「国家反逆罪」への罰であった。十字架刑は死刑囚自身が横木となる梁を持って処刑場に行き、梁は身体と共に持ち上げられ、直立した支柱に固定された。十字架の高さは様々だが、人の背丈よりやや高いか、遠くから死刑囚が見えるようにさらに高くなる場合もあった。十字架には罪状書きが貼り付けられた。キケロは十字架刑を最大の死刑と呼び、最も苦痛で恐ろしく、醜いものとした。遺体は通常腐敗するにまかせるため放置されるが、埋葬のために引き渡されることがあった。十字架上では緩慢な死が訪れるため、想像を絶する苦しみがあった。 旧約聖書において、磔刑に処されたものは「呪われる」とある。 もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。 — 申命記21章22-23節、『口語訳聖書』より引用。 パウロはガラテヤ人への手紙3章13節において申命記の引用を行っている。 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。 — ガラテヤ人への手紙3章13節、『口語訳聖書』より引用。 佐竹明はキリストが人間に代わって死んであがないとなったことにより、人間が救われるという考え方であるとしている。あがないのための代理の死という考え方は、ヘレニズムユダヤ教にも見られており、ガラテヤ人への手紙1章4節及びローマ人への手紙5章8節にあるようにパウロ以前の段階でキリスト教においてキリストの死の解釈としてあらわれている。キリストが呪いとなることによって人々には「呪いから」の解放がもたらされる。 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。 — ガラテヤ人への手紙1章4節、『口語訳聖書』より引用。 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 — ローマ人への手紙5章8節、『口語訳聖書』より引用。 これに対し青野は十字架の死を神の呪いであると考えるユダヤ教の理解に対応している可能性は十分にあるとしつつも相手がユダヤ人であるか否かにかかわらず誰でもが感知できる「呪い」としての「十字架のつまずきの性格」にもかかわらず、その「十字架」を逆説的に救済論的に捉えていくパウロ独自の視点が強く押し出されているとする。その上で「十字架」においては「呪い」としか言えない「悲惨さ」が抑えられており、それは「つまずき」であり「愚かさ」以外の何ものでもない。この「呪い」の中にこそ、逆説的に神の救済の行為は示されていた。キリストの死の事実だけではなく、その死の形も重要な役割を果たしているのである。 十字架刑はコンスタンティヌス大帝によって廃止されたが、十字架がキリスト教の信仰の中で重視されるようになったのは4世紀以降である。十字架はキリストの受難の象徴また死に対する勝利のしるし、さらには復活の象徴として捉えられた。このため「聖なる木」「死を滅ぼしし矛」などの美称がある。 キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌス1世の夢に十字架が勝利のしるしとして現れたという伝承や、コンスタンティヌスの母ヘレナがエルサレム巡礼に際して十字架の遺物を発見したという伝承がある。 いくつかの図像や立体の十字架の根元にはされこうべが置かれていることもあり、これは伝承によればアダムのされこうべであるといわれる[要出典]。 カトリック教会や正教会など伝統的諸教会においては、十字架への崇敬を公の場面でも私の場面でも行う。特別の祭日において十字架を崇敬するほか、十字架への接吻や跪礼を行う、十字架を主題とした祈祷を行う、一般の祈祷において十字を手で画くなどさまざまな仕方で、十字架は信仰生活の一部となっている。 十字の描き方には、教派によっていくつかの種類がある。こうした際は古代の教義論争の結果成立したものであり、最初期には一本指・二本指などいろいろな方法があった。また十字を画く場所も多岐にわたった。 プロテスタントのほとんどの教派でも、十字架はキリストの受難を象徴するものとして教会装飾に取り入れられる。一方ほとんどのプロテスタント教派では手で十字を描く習慣は廃されている。
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歴史と受容
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フロッグケーキのアイデアは、バルフォアズ・ベーカリーの共同設立者ジョン・バルフォアの甥、ゴードン・バルフォアによるものである。彼は1920年代初頭にフランスへ旅行し、欧風菓子店でフロッグケーキのアイデアを思いついた。彼が帰国しアデレードに戻った後、まだ市内のあちこちにティールームが存在した1922年、フロッグケーキは販売され始めた。フロッグケーキはバルフォアズ・ベーカリーのマスコット的存在として知られるようになり、販売は南オーストラリア州だけに限られていた。しかし、今ではビクトリア州やニューサウスウェールズ州、クイーンズランド州でも販売されるようになっている。 フロッグケーキの色は元々緑色で今でも緑色が最もメジャーだが、茶色とピンクも後にバリエーションに加わっている。形についても基本はカエルの姿をしているが、特別な時期には少し形を変える。例えば、クリスマスシーズンにはサンタクロースや雪だるまになり、イースターの頃はヒヨコになる。また、地元のサッカーチーム、アデレードFCのチームカラーになることもある。なお、形が変わっても呼び名はフロッグケーキのままである。 フロッグケーキは南オーストラリアを代表するデザートで、オーストラリアの新聞紙オーストラリアンでは、まず思いつく(ただし、ちょっと奇妙な)デザートに挙げており、誕生日やウェディングケーキにさえも使われている。また、時には州の宣伝にも一役買ってきた。例を挙げると、2001年には世界警察消防競技大会の開催地選定時に、政治家のジョン・ホールが最後のアピールにフロッグケーキを用い、2007年のアデレード開催を勝ち取った。ラジオパーソナリティのピーター・ゴアーズがフロッグケーキの像を建てようと冗談で言ったこともあったが、実際に南オーストラリアの伝統文化を表すものとしてリストアップされたこともある。南オーストラリアのナショナルトラストは毎年8つ、南オーストラリアの文化に関連した事物を選出しており、フロッグケーキは2001年に選出されている。2015年には、メンタルヘルスの研究資金調達のため、陶製やレジン、銀などで作られたフロッグケーキを象ったアート作品が南オーストラリアのアーティストたちによって作られた。オークションにおいて6,000ドルで落札されたものもあり、これらの作品の売り上げにより30,000ドルを調達できたという。フロッグケーキを選んだことについて、製作者は子どものときに誰もが経験している南オーストラリアらしいものだから、と理由を話している。 フロッグケーキは製造・販売元であるバルフォアズ・ベーカリーの人気商品で、時には会社を取り巻く事情により売れ行きを伸ばした。会社の経営が危なくなったときにアデレードのタブロイド紙、The Advertiser のレックス・ジョリーによって、フロッグケーキを買って会社を救う呼びかけが行われ、この時は以前の最高売上額の2倍を記録した。2001年にナショナルヘリテッジから文化的価値を認められたときも売り上げを伸ばしている。フロッグケーキの売り上げが伸びたことで模倣品が出回ることになり、バルフォアズ・ベーカリーは2001年に形と名前について商標登録を行っている。
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