史跡・旧跡
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漢興亭侯李恢の子、李蔚(李遺)と漢寿亭侯関羽の娘(関銀屏、または関三小姐)の合葬墓が玉渓市に現存している。宣統2年(1910年)の墓碑には「漢忠臣興亭侯子李蔚、寿亭侯女関氏三姐之墓」と刻まれ、墓碑脇の墓聯には「墓近聖人宮、父女相睽祗數武」、「神游荊襄界、魂魄長恨於千秋」と刻まれている。 1989年に修復され、2001年に玉渓市の史跡に登録された。
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史跡・旧跡
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史跡・旧跡
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後楽園(岡山市北区) 岡山城(岡山市北区) 備中高松城跡(岡山市北区) 最上稲荷(岡山市北区) 曹源寺(岡山市中区) 西大寺観音院(岡山市東区) 倉敷美観地区(倉敷川畔)(倉敷市)大原美術館 倉敷民藝館 倉敷考古館 井上家住宅 大橋家住宅 旧大原家住宅 倉敷アイビースクエア 藤戸寺(倉敷市) 鴻八幡宮(倉敷市)- 岡山三大だんじり祭りとして有名。 吉備路吉備津神社(岡山市北区) 吉備津彦神社(岡山市北区) 造山古墳(岡山市北区) 作山古墳(総社市) 備中国分寺(総社市) 津山城跡(鶴山公園)(津山市) 衆楽園(津山市) 鬼ノ城(総社市) 宝福寺(総社市) 神明神社(総社市) 備中松山城(高梁市) 岩山神社(新見市) 本蓮寺(瀬戸内市) 熊山遺跡(赤磐市) 両宮山古墳(赤磐市) 矢掛本陣(矢掛町) 誕生寺(久米南町) 和気神社(和気町) 亀石神社(岡山市東区) - 神武天皇東征時に、水先案内を行った珍彦が乗る大亀を祀る。
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史跡・旧跡
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椿大神社(つばきおおかみやしろ) 桃林寺(とうりんじ) 神宮寺 - 稲生西。神宮寺、別当寺 伊奈冨神社(いのうじんじゃ) - 伊勢国総社の推定神社の一つ。紫つつじの名所 慈恩寺 - 稲生西。別当寺 福楽寺 - 稲生塩屋 伊勢国分寺跡 龍光寺(りょうこうじ) - 釈迦の涅槃図を所蔵。毎年春に開帳がある。 神戸城址:県史跡。 子安観音寺(白子山観音寺) - 安産のご利益があるとされる。国の天然記念物の「不断桜」が境内にある。 白鳥塚古墳 - ヤマトタケルの能褒野(のぼの)陵墓として有力視された古墳。 加佐登神社(かさどじんじゃ) - 日本武尊を祀る神社。 荒神山(高神山)観音寺 - 荒神山の喧嘩の舞台。 石薬師宿 石薬師寺 長太の大楠 勝速日神社(かつはやひじんじゃ)
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史跡・旧跡
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松山城 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に水軍の将であった加藤嘉明が、1602年(慶長7年)に築城を開始した広大な平山城であり、城山公園全体は国の史跡で、建造物21棟は国の重要文化財に指定されている。黒船来航の翌年に当たる1854年(安政元年)に、15万石の親藩松平家により本壇の天守群が再建されたため、代表紋章は葵の御紋。城山の樹叢(樹林)は、県指定天然記念物。登城客の利便のため、城山索道が設置されている。日本100名城、美しい日本の歴史的風土100選(道後温泉とともに)、日本さくら名所100選、日本の歴史公園100選などの指定も受け、標高150mの松山城天守からの眺望も素晴らしく、松山市のランドマークであるとともに愛媛県を代表する観光名所である。日本に12か所しかない現存天守の一つ。 宇和島城 伊達家10万石の居城。日本100名城。大名庭園の天赦園も現存。日本に12か所しかない現存天守の一つ。 今治城 藤堂高虎が築いた日本三大水城で、日本100名城。 大洲城 日本100名城 湯築城 道後温泉近くの中世の城郭の縄張りが残る、日本100名城 大山祇神社
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史跡・旧跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 14:23 UTC 版)
香椎宮(香椎) 仲哀天皇・神功皇后を祭神とする旧官幣大社。本社殿は香椎造(かしいづくり)と呼ばれる独特の建築様式をもつ。境内は神木綾杉を始めつつじ、しょうぶの花で有名である。神社奥の丘陵には仲哀天皇霊廟古宮址(ふるみやあと)、地名説話の元となった棺懸椎(棺掛椎、かんかけのしい)、大本営址がある。 香椎参道(香椎) 旧街道(県道504号線)から香椎宮へ延びる通りで、宇佐神宮と共に勅使が定期的に遣わされるため勅使道ともいう。沿道は大正年間に植えられた常緑樹クスノキが枝を広げ、一年を通じて緑のアーチを作り出している。参道入口、鹿児島本線踏切りそばの丘にある頓宮わきには三条実美の筆による万葉歌碑があって、かつてはここから香椎潟が一望できた。 不老水(香椎) 老の水(御飯の水、おいのみず)とも呼ばれ、香椎宮から北東へ500mほどのところのおいの山の山麓にある地下水である。伝承では長寿伝説で知られる武内宿禰がそばに屋敷を構えこの水を飲んでいたとされる。古い歴史をもち、環境省の名水百選に選ばれているが飲用には煮沸が必要とされている。 報恩寺址(香椎) 栄西は宋からの帰国後多くの禅宗の寺を建立したが、そのうち香椎宮古宮のそばの建久報恩寺は博多の聖福寺に4年先立ち、日本で最初の禅寺である。また栄西が持ち帰った菩提樹も香椎宮に植えられ、そこから日本中に広められたといわれる。現在の報恩寺のそばにそれを記念した石碑が残り、隣には栄西が持ち帰ったものから分けられた菩提樹がある。 御島(香椎浜) 御島(みしま)は香椎潟の海中から顔をのぞかせるいくつかの小さな岩島で、綿津見神を祀る香椎宮末社御島神社でもある。かつては博多湾を背景に海岸より500mほどに浮かび、背の高い岩島であったが、やがて崩れて岩が取り払われ、満潮時には祠と鳥居のみが頭を覗かせるだけとなっている。香椎潟の埋め立ては御島を取り囲むようにして行われ、現在はかろうじて小さな海域に残る。神功皇后伝説では皇后が髪を洗って神託を伺い男髪を結った所とされ、また江戸時代にはここで日照りのときに雨乞いが行われていた。 鎧坂・兜塚(香椎駅前) 香椎小学校に近い鎧坂・冑塚には御島と同じく神功皇后の男装にまつわる伝承があり、鎧坂は鎧を着けた所、兜塚(冑塚)は皇后が兜を身に着けた所とされる。 鎧坂はかつて碑があったが今は地名だけが残る。 馘塚(耳塚)(香椎駅東) JR香椎駅のすぐ東にある馘塚(きりみみづか)または耳塚は元々現在のJR香椎駅付近にあったものを鉄道建設に際して現在の場所に移設したものである。江戸時代から神功皇后の朝鮮征伐の際に「異国(新羅と思われる)の敵の首を埋めさせた」と言われている。昔は大きな塚であり、延宝元年(1673年)に浜男の村人が塚を掘り起こしたところ、中に三尺四方の石室があり、錆びた刀が収めてあった。これを取り出して紡錘に作り替えたところ、掘り起こした村人の家に災難が起こったために、新たに作った刀と紡錘を納めて塚を直し、上に石仏を置いて地蔵と号したという。また、豊臣秀吉による文禄・慶長の役時に行われた耳切り・鼻削ぎの刑の供養塔がある。 おいの山公園(香椎台) 1995年から始まった宅地造成に伴う調査によって香椎宮奥の御飯ノ山(老ノ山、笈ノ山)から山城などが発見され、記録にある中世の御飯ノ山城であることが判明した。立花城の支城ではないかともいわれる。現在では御飯ノ山一体は開削され住宅地となっているが、住宅地内のこの公園には城の模型や案内板がおかれている。また傍らには香椎宮の神木大槇木(おおまきのき)がある。 清張桜(香椎駅前) 松本清張の小説『点と線』では1950年代の発展途上にあった香椎が舞台となった。このことを記念して、当時の名残をとどめた旧西鉄香椎駅前の桜の老木は、現在の駅前に移植され保存されている。 舞松原古墳(舞松原) 香椎宮のすぐ南の丘陵頂上にある帆立貝式古墳で、平成7年の調査による出土物から4世紀後半のものと考えられている。円丘部分の直径は29.5m、全長は37m、高さは4.5 mあり、鉄製の斧・鍬・鎌などが出土した。周囲から平安期の墓も見つかっている。 名島城址(名島) 多々良川河口部の丘の上にあり小早川隆景が築いた城址である。城跡の隣には名島神社がある。 香椎参道 不老水 御島神社 清張桜 名島城址
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史跡・旧跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 07:50 UTC 版)
現在、翠雲廊の北段の入口に張紹の像が建っており、古柏の碑文(父、張飛植林の柏街道で感涙に噎ぶ)が刻まれ、劉禅・張飛・張紹らの思いが偲ばれる。今日でも古柏が鬱蒼と生い繁り、静寂な駅道が断続的に続き、樹齢千年を超す古柏の樹も珍しくない。当時から愛され続け、明の時代までに植林された柏は、8000本にも及ぶといわれている。
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