天赦園
名称: | 天赦園 |
ふりがな: | てんしゃえん |
種別: | 名勝 |
種別2: | |
都道府県: | 愛媛県 |
市区町村: | 宇和島市天赦公園 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1968.05.20(昭和43.05.20) |
指定基準: | 名1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S43-6-094[[天赦園]てんしゃえん].txt: 宇和島城の西部に接する旧浜御殿の敷地の一部にあり、第7代宇和島藩主伊達[[宗紀]むねただ]の退隠の居所潜淵館の建築と同時に文久3年(1862)に勘定奉行の釆配によって築造されたものである。初代藩主秀宗は、仙台藩主伊達政宗の長子であって当藩主となったが、天赦園の名は、正宗が退隠のときの詩の一句(「残〓(*1)ハ天ノ縦ストコロ」)からとったものという。潜淵館は明治29年に取り払われ、その跡は今は芝生となっている。 広い池を主体とする庭園で、岬・入江・曲浦など屈曲の多い汀線で囲まれた池に一小島を置き、池辺の要所の石組には多く和泉砂岩の海石を用いてある。池の東部は延びて枯流(玉石敷)としてある。園の周囲はクロマツ・クス・ウバメガシ等の常緑樹で外景を遮断し、園内には、各種多様の暖温帯性植物が植栽されており、ビロウのごときも庭樹として用いられているが、中でもタケとフジの種類が多く本園独特の風致を生み出している。 作庭年代は比較的新しいが、全体の意匠と細部の技法にみるべきものがあり、かつ庭景の変化が豊富であって廻遊式庭園の特色をよく表現している。鴨場などの実用的施設も残存し、小規模ながら江戸末期における大名庭(だいみょうにわ)の形態もとどめている。伊達宗彰氏の所有である。 |
天赦園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 10:26 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動天赦園 Tensya Garden |
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池の中には亀の形の蓬莱島
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分類 | 都市公園(歴史公園)、日本庭園 |
所在地 | |
座標 | 北緯33度12分55.85秒 東経132度33分40.05秒 / 北緯33.2155139度 東経132.5611250度座標: 北緯33度12分55.85秒 東経132度33分40.05秒 / 北緯33.2155139度 東経132.5611250度 |
面積 | 11240平方メートル |
前身 | 浜御殿 |
運営者 | 公益財団法人宇和島伊達文化保存会 |
現況 | 8:30~16:30(4月~6月は17:00まで)。休園日・12月第2月曜~2月末の月曜日(祭日のときは翌日)・年末年始・その他天候不良時などの事情で休園もあり。 |
駐車場 | 入園料大人500円各種割引あり、駐車場は無料で有り |
事務所 | 0895-22-0056 |
公式サイト | 天赦園ブログ |
天赦園(てんしゃえん)は、愛媛県宇和島市にある日本庭園。国の名勝に指定されている。寛文12年(1672年)に宇和島藩2代藩主の伊達宗利が海を埋め立てて造成した「浜御殿」の一部であったが、文久3年(1863年)に建物等が整備され百歳長寿の大名と云われる7代藩主の伊達宗紀(号は春山 しゅんげん)が移居し「南御殿」と称された後、慶応2年(1866年)に築庭が竣工し、「天赦園」と命名した[1]。鬼ヶ城連峰を借景とした池泉回遊式の庭園で、大名庭園でもある。
概要
天赦園の名は、伊達政宗が詠んだ「酔余口号」の中の以下の漢詩から採って命名された。
- 馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何
- (馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し 残躯は天の赦す所 楽しまずして是を如何せん)
の一節にちなみ、余生を十分に過ごしたいという思いが込められており、宗紀は隠棲のためにこの天赦園を築き、庵を結んだ。園内には伊達家の家紋である「竹に雀」より竹を配しているのが特徴で、珍種も含め18種もの竹や笹が植栽されている。また、藤原氏とも関わりが深いことから、多くの藤が植えられ、藤の名所としても名高い。
- 総面積は11240m2(そのうち3分の1を池が占める)で、形式は池泉回遊式。昭和43年(1968年)5月20日に国指定名勝[2]となった。
- 建物には旧潜淵館付属茶室・春雨亭がある。
- 池護岸や南東部の陰陽石、三尊石組、立石と平天石、枯滝石組と彼流石組、両岸には臥牛石、起牛石、虎吠石などが点在している。
- 昭和天皇が大正11年(1922年)に皇太子時代に休憩所にされ、昭和41年(1966年)に皇后と庭園を散策された[1]。
関連項目
- 宇和島城
- 宇和島市立伊達博物館
- 南楽園(南予レクリエーション都市の日本庭園)
脚注
外部リンク
- 天赦園のページへのリンク