傾向・特色
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『文藝時代』同人の資質にはそれぞれ個性や違いがあり、個々の掲載作品は様々であったが、『文藝時代』創刊翌月の『世紀』11月号にて評論家の千葉亀雄が、横光利一の掲載短編「頭ならびに腹」の当時斬新であった文体や、同人らの大まかな傾向をみて、彼らの文体における感覚と技巧を重視する姿勢から「新感覚派の誕生」として高評価した。同人らは「既成作家」と自分たちとの違いを明確にするため、千葉の「新感覚派」という命名を受け入れた。 千葉は、室生犀星の「官能の享受においては異常な敏感があつたが、それを感覚として発表するには、まだ醇化しきらない混濁と古さとがあった」創作や、「語彙の清新や、観照の様式の溌剌さ」に主力が集中しその技巧を「脚色や態度にまで延長されるには不十分であつた」新技巧派(芥川竜之介・菊池寛・久米正雄)の芸術の、二つの未成長に終ったものをさらに発育させ「一つの合成の域にまでに達したもの」が、『文藝時代』に現われた傾向からみられるとした。 彼等が、さうした芸術の傾向に、特殊な悦びを感ずるのは、彼等の心理機能が、何よりも、気分や、情調や、神経や、情緒やに最も強い感受性を持つからであり、そしてそれは、文化の芸術が、当然そこまでに導かるべき内部生命を持つからである。で、彼等の感覚の新しさは、そして生々した飛躍さは、当然新らしい文化人にそれを観賞する悦びを感ぜしめる。 — 千葉亀雄「新感覚派の誕生」 人間の内面を超越する物理的な力(不測の鉄道事故)と、それに翻弄される人間との関わりを描いた横光の「頭ならびに腹」に代表される「新感覚派」の作品は、関東大震災後の新たな機械文明や交通機関のスピード感覚やリズム感、都市文学のモダニズムの要素を多く持ち、無機物(列車や車)を主語にした擬人法、人間集団の擬物化、奇抜な比喩、映画的な技法の表現を取り入れた文体で、従来の自然主義文学や写実主義文学の平板な視点にはなかった新しい感覚を表現したものであった。 横光は震災の4か月前に『文藝春秋』に発表していた「蠅」でも映画的手法を取り入れ、人間の意志を超えた些細な外的要因によって左右される人間の運命を描いていたが、そうした感覚を「完全に表現すること」が出来きれば、「生活と運命とを象徴した哲学が湧き出て来る」と感じたと語っていた。その信念を抱き始めたこの新感覚派時代以降、横光は機械論的な比喩で世界を見る傾向を強め、些細な外的要因や偶然の一致への関心を晩年まで持ち続けることになる。 なお、一口に「新感覚派」といっても、横光と川端でも作品の微妙な発想法の違いがあり、横光における「新感覚」には「認識論的」なものがみられ、川端の「新感覚」には「生死につながる縁の深さ」を表現する川端の特性を示す「存在論的」なものがみられる。 特に川端には、自身の「輪廻転生・万物一如」の世界観の夢を、前衛芸術の表現法に重ねている傾向がみられる。そこには、人が自身の存在を、現世・現在の自分だけがかけがえのない唯一の存在だとする醜い執着や保身が、人の我欲や争いを生んでいるという、川端の思考があり、この「新感覚派」の表現法にも人間の現世我欲に対抗する川端の主客一体、汎神論的な宇宙観が込められている。その川端は「新感覚派」の表現の理論的根拠を、〈一 新文藝勃興〉〈二 新しい感覚〉〈三 表現主義的認識論〉〈四 ダダ主義的発想法〉の4節から成る「新進作家の新傾向解説」と題する論で以下のように詳説した。 まず新感覚派主義の作品は、その手法や表現において、美術や音楽の感覚の働き方に近づくものであるとし、ドイツ表現主義からおもに影響された〈表現主義的認識論〉という理念を掲げて、「新主観主義的表現」という主観に絶対性をおく認識の表現法を説き、その主観を自由に流動させるところから「万物一如」といった一元世界が成立して、東洋的な「主客一如主義」にもなる、と芸術理論が説明された。 新感覚派の表現は、従来の自然主義的な描き方や、見る対象と自分とが「別々にある」と考えて観察する古い客観主義の認識とは異なり、例えば、百合を見て認識した時に、「百合の内に私がある」「私の内に百合がある」という気持ちで物を書き現そうとする表現であるとしている。 自分があるので天地万物が存在する、自分の主観の内に天地万物がある、と云ふ気持で物を見るのは、主観の力を強調することであり、主観の絶対性を信仰することである。ここに新しい喜びがある。また、天地万物の内に自分の主観がある、と云ふ気持で物を見るのは、主観の拡大であり、主観を自由に流動させることである。そして、この考へ方を進展させると、自他一如となり、万物一如となつて、天地万物は全ての境界を失つて一つの精神に融和した一元世界となる。また一方、万物の内に主観を流入することは、万物が精霊を持つてゐると云ふ考へ、云ひ換へると多元的な万有霊魂説になる。ここに新しい救ひがある。この二つは、東洋の古い主観主義となり、客観主義となる。いや、主客一如主義となる。 — 川端康成「表現主義的認識論」(「新進作家の新傾向解説」) そうした表現の態度は、片岡鉄兵、十一谷義三郎、横光利一、富ノ澤麟太郎、金子洋文などの作品にみられ、特に横光の諸作品の擬人法的手法に見られるものだと説明された。そして彼らの表現の態度は、描写を立体的に鮮明にさせ、「自然人生の新しい感じ方」、「新しい感情」であるとしている。 横光氏の作品のどの一節でも開いて見給へ。その自然描写を読んで見給へ。殊に、沢山の物を急調子に描破した個処を読んで見給へ。そこには、一種の擬人法的描写がある。万物を直観して全てを生命化してゐる。対象に個性的な、また、捉へた瞬間の特殊な状態に適当な、生命を与へてゐる。そして作者の主観は、無数に分散して、あらゆる対象に躍り込み、対象を躍らせてゐる。(中略)横光氏の表現が溌溂とし、新鮮であるのも、このためである。横光氏の作品に作者の喜びが聞こえるのも、この見方のためである。 — 川端康成「表現主義的認識論」(「新進作家の新傾向解説」) さらに川端は、ダダイスム主義の詩や小説における、時によっては「訳の分らない」こともある芸術表現を一種の「発想法の破壊」だと捉えながら、ダダイストは精神分析学における「自由連想」法から新しい創造的発想法を見出し、それは従来の表現法に反抗した、他人には「分らない」頭の中の主観・直観・感覚そのままに近い表出であるとした上で、『文藝時代』の新感覚派は、そのダダイストの「分らなさ」を喜んで真似ようとするのではなく、そこから「主観的な、直観的な、新しい表現が導き出さるべき暗示」を見出し、「言語の不自由な束縛」や古い発想法から解放されることを目指すとしている。 川端は、そうした自分たちの表現を〈ダダ主義的発想法〉と名付けた上で、「心象の配列法が、主観に忠実となり、直観的となり、同時に感覚的になつて来たのである」と説明し、ベネデット・クローチェの『表現の科学および一般言語学としての美学』(1902年)にも触れ、その説を「心象即表現即芸術と云い約めることが出来る」としている。また、その「心象をそのままの姿で文字に現はさうとする気持」を持つ自分たちの表現法は、小説の構成における「速度」と「同時性」の視点が重視され、「表現を心象の豊かな花園とし、みづみづしい感覚が直観と抱き合つて踊る世界」と化すところに創造的要素があるとしている。 こうした新感覚派たちの作品傾向の説明などについて、当時生田長江から「旧いといふのが旧い」といった批判や「『新時代』の蛙等よ」という罵りの言葉が浴びせられ、横光の「頭ならびに腹」は宇野浩二から「徒らに奇を衒ふ表現」と酷評された。また、新感覚派はポール・モランの『夜ひらく』(1922年)の真似ではないかという生田の意見もあり、それに対し川端は、『夜ひらく』の堀口大学邦訳(1924年7月)が出る以前から新感覚派的な文章はあったとし反駁した。 既成作家からのそうした『文藝時代』に対する強い風当たりもあり、同人の中には自分は「新感覚派」ではないと主張して既成作家に抗議する者(佐々木味津三)も出てきた。実際、同人で「新感覚派」と呼べる者は、横光、川端、片岡鉄兵、今東光、中河与一、ほか数名(佐佐木茂索、十一谷義三郎など)であり、さらにその中でも文学的実験を真面目に続けていたのは横光だけ、という側面もあった。 その横光本人は非難に抗する論の中で、「未来派、立体派、表現派、ダダイズム、象徴派、構成派、如実派のある一部、これらは総て自分は新感覚派に属するものとして認めてゐる」として、立体派の例は川端の「短篇集」(掌の小説)を挙げつつ、「プロットの進行に時間観念を忘却させ」ていると説明し、構成派の例は、片岡鉄兵や金子洋文の作品、芥川龍之介の「藪の中」を挙げている。また、新感覚派の「感覚的表徴」とは「自然の外相を剥奪し物自体へ躍り込む主観の直感的触発物を云ふ」として、横光は認識論的な主客合一の中に感覚の新しさを希求している傾向がみられる。 横光は自身の過去の作品で「内面的な光り」が最も出ているとする「笑はれた子」(横光が天才視する志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」に影響された作品)から、目下の「街の底」「青い大尉」といった新感覚派作品を書くに至った経緯に触れ、自身が天才ではないと悟った芸術家は「外面を愛するにちがひない」とした上で、「より多く内面を響かせる外面は、より多く光つた言葉である」ゆえ、自分は「より多く光つた外面(言葉)」を愛すると宣言した。 言葉とは外面である。より多く内面を響かせる外面は、より多く光つた言葉である。此の故に私は言葉を愛する。より多く光つた外面を。さうして、光つた言葉をわれわれは象徴と呼ぶではないか。此の故に私は象徴を愛する。象徴とは内面を光らせる外面である。此の故に私はより多く光つた象徴を愛する。より多く光つた象徴を計画してゐるものを、私は新感覚派と呼んで来た。 — 横光利一「内面と外面について」 横光は後年に、この「新感覚派」の時期の自身の傾向や文体を振り返り、「国語との不逞極まる血戦時代」だったとしている。 なお、政治思想に裏打ちされたプロレタリア系の『文藝戦線』と、芸術至上的な新感覚派の『文藝時代』は対立的ではあったものの、既成作家の作品(身辺の日常生活の些事をそのまま描く私小説)とは違う新たな文学を求めていた点は共通し、両者ともに、都市やその中の職場・集団である工場や船舶、あるいは列車や機関車など、社会的な空間に着目し作品世界を創作していた点では似ていた。
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