ファイブ・シスターズ包囲戦
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「ペリリューの戦い」の記事における「ファイブ・シスターズ包囲戦」の解説
アメリカ軍は第1海兵連隊の壊滅後、作戦の変更を余儀なくされ、島南部からファイブ・シスターズ陣地への強行を断念し、島の西側の比較的日本軍の抵抗の少ない平坦地を掃討しながら島の北端まで制圧し、日本軍守備隊を山岳地帯に孤立させた後に、日本軍の堅陣を突破できるルートを探す作戦に切り替えた。残る第5海兵連隊と第7海兵連隊も第1海兵連隊程ではないが、かなりの損害を被っており、第1海兵師団全体での死傷者は第1海兵師団撤退時点で合計3,946名に達していた。 第5海兵連隊は西海岸を北上しながら海岸付近の日本軍を掃討していたが、9月24日に独立歩兵第346大隊(大隊長引野通廣少佐)が護る、日本軍呼称「水戸山」に攻撃を開始した。第346大隊はコロール島からペリリュー島に増援として配備されたが、当初は島中央部の防衛が担当であったのを、7月21日に急遽、水戸山を含む北部地区の防衛が割り当てられた。中川から引野に「昼夜兼行、築城と訓練に当たるべし」との命令があり、引野は命令通り、食料や水や弾薬を内部に確保し、独立して長期間戦うことができる堅固な陣地を構築した。その陣地は攻撃したアメリカ軍の公式戦史に「この洞窟陣地は広大なもので、内部は文字通り迷路のように縦横無尽に坑道が走り、火炎放射器の直接射撃も完全に遮断できるように作られていた」と賞された。 第5海兵連隊は戦車7輌とアムタンク7輌を援護に2個大隊の兵力で進攻し、水戸山陣地は中川の連隊司令部との連絡を絶たれたが、第346大隊は陣地正面に進攻してきた第5海兵連隊に猛攻を加えて大損害を与えた。翌9月26日にも第5海兵連隊は進攻してきたが、第346大隊は昨日に引き続き、水戸山の洞窟陣地と、工場建物を利用して構築したトーチカからの反撃で第5海兵連隊の進撃を止めた。苦戦する第5海兵連隊は、ひとつずつ洞穴陣地をつぶしていくこととして、ブルドーザーの刃をつけた戦車で入口を埋めたり、入口と出口を確認して、一方から野砲で砲弾を撃ち込み、退避する日本兵を反対側で待ち構えた海兵隊員が掃射するという地道な攻撃を行っていった。第346大隊の損害は次第に大きくなっていったが、それでも洞穴陣地を巧みに利用し、さらに海兵隊員の背後に回り込んで掃射し大損害を与えるなど執拗な戦闘を繰り返した。この第346大隊の巧みな戦闘をアメリカ軍は「トンネル式の内部は堅牢で、それを拠点にして日本軍は押せば退き、隙を見て斬りこむ巧妙、大胆な抵抗を続け、死ぬまで戦った。それはゲリラ戦そのものだった」と評した。 しかし、戦力差は如何ともしがたく、9月27日には第346大隊は壊滅状態となっていた。第5海兵連隊はマイクで「日本の兵隊さん、戦争してもつまらないから、止めようではありませんか」と日本語で呼びかけしたところ、84名の朝鮮人労務者と7名の日本人労務者が投降した。9月28日、大隊長の引野はわずかに生存していた大隊の主力を引き連れて、南西中央高地の奪還のために出撃したが、アメリカ軍の砲撃で全滅した。残った兵士も洞窟陣地と、水戸山南端のレーダー基地に立て籠もって抵抗したが、10月2日には玉砕し水戸山の戦闘は終わった。 また、第5海兵連隊は9月28日にペリリュー島北部にあるガブドス島に上陸作戦を行った。ガブドス島には、作りかけの小型機用の飛行場と日本軍の砲兵陣地があったため、砲兵陣地の制圧と飛行場を戦闘機用の飛行場として使用するための作戦であった。また飯田大隊の逆上陸成功もアメリカ軍に更なる日本軍の援軍到来の懸念を生じさせており、その防止の意味合いもあった。ガブドス島にも日本軍はトーチカを構築していたが平坦地であったため、戦艦ミシシッピを主力とする支援艦の艦砲射撃と航空爆撃と海兵隊の果敢な攻撃により程なく無力化され、日本軍は470名もの戦死者を出したのに対し、アメリカ軍の死傷者は約50名であった。 アメリカ軍の新たな作戦計画通り、中央の山岳地帯以外の地域については、第5海兵連隊と第1海兵連隊に代わった陸軍第321連隊によってほぼ制圧されたが、その後ファイブ・シスターズ陣地の攻略には劇的な進展はなく、攻撃した第7海兵連隊と陸軍第321連隊は第1海兵連隊と同様に日本軍の堅い守備に阻まれ損害だけが増えていた。そのような状況下で9月27日には、飛行場北端にある鉄筋コンクリート製の元日本軍司令部に置かれたリュパータス師団長の指揮所でアメリカ軍の勝利式典が行われた。北部山岳地帯での両軍による砲声が鳴り響く中で、式典は師団長と指揮下の連隊長と幕僚数名参席という簡単なものであったが、「勝利宣言」の直後の9月30日には第1海兵師団の死傷者は5,044名にも達しており、この後もこの島の戦闘は2ヶ月も続くことになる。 10月3日には島北部の掃討を終えた第5海兵連隊もファイブ・シスターズ陣地攻略に加わった。アメリカ軍は攻撃に先立って山岳地帯全体に激しい砲爆撃を加え、機関銃兵が援護射撃を行う中でライフル歩兵が高地の斜面を前進していくが、砲撃をやりすごした日本軍の迫撃砲や小火器がライフル歩兵に撃ちこまれ死傷者が続出し進撃が停止し、今度はアメリカ軍が迫撃砲で援護射撃を行う中で、ライフル歩兵が前進してきた道を後退していくといった戦闘が何日も繰り返された。陣地に籠る日本軍は片時も目を離さずにアメリカ軍を監視し、限られた弾薬を有効活用するよう最大限務めており、砲撃や射撃はアメリカ軍に最大限の損害を与えられると見極めた時に効果的に行われた。特に日本軍が狙撃してきたときは、ほぼ例外なく誰かに命中していると海兵隊員が恐怖するほど、日本軍の射撃に関する規律は見事であった。また日中は陣地に籠っていた日本兵は夜になると、アメリカ軍が夜襲警戒のために絶え間なく打ち上げている照明弾の一瞬の隙をついて、砲撃で倒れた樹木や岩陰を利用して音もなく忍び寄り、アメリカ兵に夜襲をかけてきた。その音もたてずに近づいてくる能力は、アメリカ兵にとっては恐怖の的であり、アメリカ軍は対策として暗くなったら塹壕から出ることを禁止し、2人1組となって、1名が寝ているときは別の1名が寝ずの番を行うといった対策をとったが、それでも死傷者が続出した。この10月3日にはペリリューの戦いで最高位の戦死者となった師団参謀のジョセフ・F・ハンキンス大佐が、前線視察中に日本軍の狙撃兵に胸を撃ち抜かれて戦死している。 中川大佐は、アメリカ軍に心理戦を仕掛けるつもりであったのか、アメリカ軍に対する降伏勧告文書を英語の達者な烏丸洋一中尉に作らせた。その内容は「勇敢なアメリカ軍兵士諸君、諸君らがこの島に上陸して以来、まことに気の毒である。悲惨な戦闘の中において、我が方はただ君たちに射撃を浴びせるだけで、水も与えられず相すまないと思っている。諸君は勇敢にその任務を果たした。今や武器を捨てて、白旗かハンカチを掲げて日本軍陣地に来たれ。喜んで諸君を迎え、できるだけの優遇をする。」といったものだった。中川大佐はこのビラを斬り込み隊に持たせアメリカ軍の陣地にばら撒いたが、アメリカ軍はその意趣返しか数日後に日本軍への降伏勧告のビラを大量に航空機からばら撒いている。しかし、両軍ともビラに書かれた指示を実践し降伏する兵士はいなかった。 10月に入ってから、それまで異常気象でずっと晴天であったペリリュー島にも雨が降り始めた。極暑と乾きの中で戦っていた両軍にとっては恵みの雨となったが、アメリカ軍にとっては、視界が不良になったり足元がぬかるむため、恵みばかりとは言えなかった。更に風雨が強まり、航空支援や補給物資の輸送にも影響が出るようになり、補給が滞るようになった。そのため、第1海兵師団の補給物資の揚陸や輸送の責任者であった中佐がその重責に耐えられず拳銃自殺を遂げている。10月4日にはペリリュー島に台風が接近したため、井上中将はその嵐の中を突いてパラオ各島から飯田大隊に続く増援を送ろうと画策したが、増援を懸念していたアメリカ軍の徹底した船舶への攻撃により、部隊を海上輸送するだけの船舶を集めることができず断念せざるを得なかった。同日、日本軍呼称「水府山」山頂へ米軍が進出したが守備隊の抵抗により米軍部隊は壊滅、撃退され日本軍呼称「大山」にも戦車が伴った米軍部隊が攻撃をかけてきたがそれを撃退した上戦車2両を撃破した。 10月5日には第7海兵連隊が総力をかけた最後の攻撃を行った。その結果、第7海兵連隊は既に撤退している第1海兵連隊に匹敵する1,497名の死傷者を出した。強襲部隊としては既に部隊としての体を成しておらず、攻撃失敗後に、第1海兵師団で最後に残った第5海兵連隊と交代しファイブ・シスターズ陣地攻略の任を解かれた。また10月1日には海兵第1師団の唯一の戦車隊であった第1戦車大隊も損害蓄積により撤退させられている。10月6日には水府山で、7日には観測山で日本軍守備隊は、攻撃してきた米軍を撃退している。この日は天皇陛下から4回目の御嘉尚を賜るとともに、14師団が以前所属していた関東軍司令官から激励電報が届いている。10月10日ごろ、米軍が水府山に攻撃を仕掛け守備隊は、これを支えきれず11日に水府山は米軍の手に落ちた。12日には、米軍は大山に攻撃してきたが、守備隊はこれを撃退した。同日海軍の陸攻1機がペリリュー飛行場を空襲した。しかしこのころになると日本軍側の攻撃に変化が見られるようになり、それまでは激しい砲撃と銃撃がアメリカ軍に浴びせられていたが、攻撃は散発的になり、より確実性を求めるようになっていた。日本軍の火砲は所定の成果を挙げると射撃を止めるようになり、戦場に奇妙な静寂が訪れた。日本軍も苦しんでおり、既に戦死者行方不明者は9,000名を超え、10月13日時点で中川大佐が掌握していた兵員は1,150名に過ぎなかった。 第5海兵連隊と陸軍第321連隊は日本軍をファイブ・シスターズ陣地を中心とした東西300m、南北450mの狭い地域に包囲することに成功していた。10月14日、米軍は日本軍呼称「大山」、「南征山」などに爆撃を行ったのち、攻撃をかけた。この攻撃によって天山北部が奪取され、東山が陥落した。しかしこの攻撃によって第5海兵連隊も限界に達しており、10月15日にペリリュー島を離れることとなった。損害は第1海兵師団の中でもっとも少なかったとは言え1,378名に達していた。第5海兵連隊の撤退により、第1海兵師団の全兵力はペリリュー島から去ることとなった。10月17日には、ウルシー、アンガウルより来た米陸軍と元いた海兵隊が南征山に攻撃を仕掛けて来たが守備隊はこれを撃退した。18日には、米軍1個連隊が北部から攻撃を仕掛けて来た。特に南征山は東山から1個大隊と戦車が進出してき、これに加えて北側から20メートルの崖に梯子をかけて登ってきた。これによって南征山北部が奪取されたが、守備隊は、進出してきた米軍に集中射撃を浴びせ逆襲を行い陣地を奪回、米軍を撃退した。21日に米軍1個連隊が南征山に再攻撃を仕掛けてき、守備隊は攻撃に持ちこたえられず、23日までに南征山はほとんど奪取され、逆襲も失敗した。同日にはペリリュー島の攻略は完全に陸軍に引き継がれることとなり、「激しくて短い戦い」と宣言したリュパータス師団長も飛行機でペリリュー島を後にしたが、宣言通り第1海兵師団単独で短期間に攻略できなかったという悔しさよりむしろ、地獄の戦場を後にできるという安堵の表情であったと言う。海兵隊からペリリューの攻略を引き継いだポール・J・ミューラー(英語版)陸軍少将は包囲網を時間をかけて慎重に縮めていくことで、これ以上の人員の消耗を避ける戦術を取ろうとした。またアメリカ軍は新たな戦術として、ペリリュー島にふんだんにある珊瑚質の砂を利用し、土嚢袋を前線まで運び、車両が入れない狭い道などでは土嚢に砂を詰めると、兵士は土嚢ごと前進し日本軍の攻撃から防御する戦術を行い始めた。この戦術は有効であり、日本軍の小火器や砲弾の破片による損害を減少させた。また日本軍陣地をナパーム弾や火炎放射器や時にはガソリンを直接流し込んで焼き払い、爆薬で爆破し着実に攻略していった。 包囲されている日本軍は10月17日にペリリュー島唯一の水源である池をアメリカ軍に奪われていた。そのため水不足が深刻化し、日本軍は決死隊を編成し夜陰に紛れて水汲みに出かけたが、アメリカ軍はそれを重機関銃で狙い撃って、日本軍は百数十名の死者を出すこととなってしまった。ついにアメリカ軍は10月28日には水源を鉄条網で囲い完全に遮断し、日本軍は乾きに苦しむこととなった。そのような状況の中で10月21日には昭和天皇から6回目の嘉賞を受け、10月23日には連合艦隊司令長官から感状も授与され士気は大いに高まったが、10月末時点で中川大佐が掌握していた兵力はわずか500名にまで減っていた。一方で、10月25日には包囲網を縮める戦いを行ってきた陸軍第321連隊が死傷者615名に達したため、陸軍第323連隊と交代した。アメリカ軍は次々と新戦力を投入してくるのに対し、日本軍は増援も補給もなく次第に追い詰められていった。 それでも日本軍は最後まで高い戦意を維持し戦い続け、攻撃する第323連隊はたびたび苦杯をなめさせられた。撤退した海兵隊戦車隊の代わりに投入された陸軍の戦車隊は、対戦車火器のない日本軍を侮って警戒なしに進んできたが、日本軍はまだ保有していた航空爆弾に工兵隊が電気爆破装置を装着して簡易地雷として埋設、戦車がその上を通過したタイミングで爆破するという作戦でたちまち3輌のM4戦車を撃破し70名以上のアメリカ兵を殺傷している。この工兵隊の善戦によってアメリカ軍の進撃はさらに慎重となって、ブルドーザーで埋没地雷を除去しながら、戦車と歩兵が連携してゆっくりと進撃してくるようになった。11月2日には、米軍2個連隊が攻撃を開始し大山南部が奪取された。 11月に入って8日までは再び訪れた台風で小休止となった。13日に、米軍は攻撃を開始し戦車と火炎放射器によって陣地はさらに圧縮されて行き全守備隊は、大山周辺に集結するに至った。その後は中川大佐の司令部洞窟のある大山を巡って最後の激しい戦いが続けられた。大山の周辺は急峻な地形であり、車両が近づけず、アメリカ軍は戦車や火炎放射器での攻撃ができなかった。11月22日には米軍1個連隊が攻撃を仕掛けてきた。そのうちの一部が崖をよじ登り主陣地まで侵入してきたが守備隊はこれを撃退した。この戦いの中で10月17日に日本軍の狙撃兵は、第323連隊第1大隊長レイモンド・S・ゲイツ中佐を仕留めている。ゲイツ中佐はペリリュー島の戦いにおける陸軍での最高位の戦死者となった。
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