ファイブ・シスターズ包囲戦とは? わかりやすく解説

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ファイブ・シスターズ包囲戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 05:31 UTC 版)

ペリリューの戦い」の記事における「ファイブ・シスターズ包囲戦」の解説

アメリカ軍は第1海兵連隊壊滅後、作戦変更余儀なくされ、島南部からファイブ・シスターズ陣地への強行断念し、島の西側比較日本軍抵抗少な平坦地掃討しながら島の北端まで制圧し日本軍守備隊山岳地帯孤立させた後に、日本軍堅陣突破できるルート探す作戦切り替えた。残る第5海兵連隊と第7海兵連隊も第1海兵連隊程ではないが、かなりの損害被っており、第1海兵師団全体での死傷者第1海兵師団撤退時点合計3,946名に達していた。 第5海兵連隊西海岸北上しながら海岸付近日本軍掃討していたが、9月24日独立歩兵346大隊大隊長引野通廣少佐)が護る日本軍呼称水戸山」に攻撃開始した。第346大隊コロール島からペリリュー島増援として配備されたが、当初島中央部の防衛担当であったのを、7月21日急遽水戸山を含む北部地区防衛割り当てられた。中川から引野に「昼夜兼行築城訓練に当たるべし」との命令があり、引野命令通り食料弾薬内部確保し独立して長期間戦うことができる堅固な陣地構築した。その陣地攻撃したアメリカ軍公式戦史に「この洞窟陣地広大なもので、内部は文字通り迷路のように縦横無尽坑道走り火炎放射器直接射撃も完全に遮断できるように作られていた」と賞された。 第5海兵連隊戦車7輌とアムタンク7輌を援護に2個大隊兵力進攻し、水戸陣地中川連隊司令部との連絡絶たれたが、第346大隊陣地正面進攻してきた第5海兵連隊猛攻加えて大損害を与えた。翌9月26日にも第5海兵連隊進攻してきたが、第346大隊昨日引き続き水戸山の洞窟陣地と、工場建物利用して構築したトーチカからの反撃で第5海兵連隊進撃止めた苦戦する第5海兵連隊は、ひとつずつ洞穴陣地つぶしていくこととして、ブルドーザーの刃をつけた戦車入口埋めたり入口出口確認して一方から野砲砲弾撃ち込み退避する日本兵反対側で待ち構えた海兵隊員掃射するという地道な攻撃行っていった。第346大隊損害次第大きくなっていったが、それでも洞穴陣地巧みに利用し、さらに海兵隊員背後回り込んで掃射し大損害を与えるなど執拗な戦闘繰り返した。この第346大隊巧み戦闘アメリカ軍は「トンネル式の内部堅牢で、それを拠点にして日本軍押せば退き、隙を見て斬りこむ巧妙大胆な抵抗続け、死ぬまで戦った。それはゲリラ戦そのものだった」と評した。 しかし、戦力差は如何ともしがたく、9月27日には第346大隊壊滅状態となっていた。第5海兵連隊マイクで「日本兵隊さん戦争してもつまらないから、止めようではありませんか」と日本語呼びかけしたところ、84名の朝鮮人労務者と7名の日本人労務者投降した9月28日大隊長引野わずかに生存していた大隊主力引き連れて南西中央高地奪還のために出撃したが、アメリカ軍砲撃全滅した残った兵士洞窟陣地と、水戸山南端のレーダー基地立て籠もって抵抗したが、10月2日には玉砕し水戸山の戦闘終わったまた、第5海兵連隊9月28日ペリリュー島北部にあるガブドス島に上陸作戦行った。ガブドス島には、作りかけの小型機用の飛行場日本軍砲兵陣地があったため、砲兵陣地制圧飛行場戦闘機用の飛行場として使用するための作戦であった。また飯田大隊逆上成功アメリカ軍更なる日本軍援軍到来懸念生じさせており、その防止の意味合いもあった。ガブドス島にも日本軍トーチカ構築していたが平坦地であったため、戦艦ミシシッピ主力とする支援艦艦砲射撃航空爆撃海兵隊果敢な攻撃により程なく無力化され日本軍470名もの戦死者出したのに対しアメリカ軍死傷者は約50であったアメリカ軍新たな作戦計画通り中央の山岳地帯以外の地域については、第5海兵連隊と第1海兵連隊に代わった陸軍321連隊によってほぼ制圧されたが、その後ファイブ・シスターズ陣地攻略には劇的な進展はなく、攻撃した第7海兵連隊陸軍321連隊は第1海兵連隊同様に日本軍堅い守備阻まれ損害だけが増えていた。そのような状況下で9月27日には、飛行場北端にある鉄筋コンクリート製の元日本軍司令部置かれたリュパータス師団長指揮所でアメリカ軍勝利式典が行われた。北部山岳地帯での両軍による砲声鳴り響く中で、式典師団長指揮下の連隊長幕僚数名参席という簡単なものであったが、「勝利宣言」の直後9月30日には第1海兵師団死傷者は5,044名にも達しており、この後もこの島の戦闘は2ヶ月も続くことになる。 10月3日には島北部掃討終えた第5海兵連隊もファイブ・シスターズ陣地攻略加わったアメリカ軍攻撃先立って山岳地帯全体激しい砲爆撃加え機関銃兵が援護射撃を行う中でライフル歩兵高地斜面前進していくが、砲撃をやりすごした日本軍迫撃砲小火器ライフル歩兵撃ちこまれ死傷者続出し進撃停止し今度アメリカ軍迫撃砲援護射撃を行う中で、ライフル歩兵前進してきた道を後退していくといった戦闘何日繰り返された。陣地籠る日本軍片時も目を離さずアメリカ軍監視し限られた弾薬有効活用するよう最大限務めており、砲撃射撃アメリカ軍最大限損害与えられる見極めた時に効果的に行われた。特に日本軍狙撃してきたときは、ほぼ例外なく誰か命中していると海兵隊員恐怖するほど、日本軍射撃に関する規律は見事であった。また日中陣地籠っていた日本兵夜になると、アメリカ軍夜襲警戒のために絶え間なく打ち上げている照明弾一瞬の隙をついて、砲撃倒れた樹木岩陰利用して音もなく忍び寄りアメリカ兵夜襲をかけてきた。その音もたてずに近づいてくる能力は、アメリカ兵にとっては恐怖の的であり、アメリカ軍対策として暗くなったら塹壕から出ることを禁止し2人1組となって、1名が寝ているときは別の1名が寝ずの番を行うといった対策をとったが、それでも死傷者続出した。この10月3日にはペリリューの戦い最高位戦死者となった師団参謀ジョセフ・F・ハンキンス大佐が、前線視察中に日本軍狙撃兵に胸を撃ち抜かれ戦死している。 中川大佐は、アメリカ軍心理戦仕掛けるつもりであったのか、アメリカ軍対す降伏勧告文書を英語の達者烏丸洋一中尉に作らせた。その内容は「勇敢なアメリカ軍兵士諸君諸君らがこの島に上陸して以来まことに気の毒である。悲惨な戦闘中において、我が方はただ君たち射撃浴びせるだけで、与えられ相すまないと思っている。諸君勇敢にその任務果たした今や武器捨てて白旗ハンカチ掲げて日本軍陣地に来たれ。喜んで諸君迎えできるだけ優遇をする。」といったものだった中川大佐はこのビラ斬り込み隊に持たせアメリカ軍陣地にばら撒いたが、アメリカ軍はその意趣返し数日後日本軍への降伏勧告ビラ大量に航空機からばら撒いている。しかし、両軍ともビラ書かれ指示実践し降伏する兵士はいなかった。 10月入ってから、それまで異常気象でずっと晴天であったペリリュー島にも降り始めた極暑乾きの中で戦っていた両軍にとっては恵みの雨となったが、アメリカ軍にとっては、視界不良になったり足元ぬかるむため、恵みばかりとは言えなかった。更に風雨強まり航空支援補給物資輸送にも影響が出るようになり、補給滞るようになった。そのため、第1海兵師団補給物資揚陸輸送責任者であった中佐がその重責に耐えられず拳銃自殺遂げている。10月4日にはペリリュー島台風接近したため、井上中将はその嵐の中を突いてパラオ各島から飯田大隊に続く増援送ろう画策したが、増援懸念していたアメリカ軍徹底した船舶への攻撃により、部隊海上輸送するだけの船舶集めることができず断念せざるを得なかった。同日日本軍呼称水府山」山頂米軍進出した守備隊抵抗により米軍部隊壊滅撃退され日本軍呼称大山」にも戦車伴った米軍部隊攻撃をかけてきたがそれを撃退した戦車2両を撃破した10月5日には第7海兵連隊総力をかけた最後の攻撃行ったその結果、第7海兵連隊は既に撤退している第1海兵連隊匹敵する1,497名の死傷者出した強襲部隊としては既に部隊としての体を成しておらず、攻撃失敗後に、第1海兵師団最後に残った第5海兵連隊交代しファイブ・シスターズ陣地攻略の任を解かれた。また10月1日には海兵第1師団唯一の戦車隊であった第1戦車大隊損害蓄積により撤退させられている。10月6日には水府山で、7日には観測山で日本軍守備隊は、攻撃してきた米軍撃退している。この日は天皇陛下から4回目の御嘉尚を賜るとともに14師団以前所属していた関東軍司令官から激励電報届いている。10月10日ごろ、米軍水府山に攻撃仕掛け守備隊は、これを支えきれず11日水府山は米軍の手落ちた12日には、米軍大山攻撃してきたが、守備隊はこれを撃退した同日海軍陸攻1機がペリリュー飛行場空襲した。しかしこのころになると日本軍側の攻撃変化見られるようになり、それまで激し砲撃銃撃アメリカ軍浴びせられていたが、攻撃散発的になり、より確実性求めるようになっていた。日本軍火砲所定成果を挙げる射撃止めるようになり、戦場奇妙な静寂訪れた日本軍苦しんでおり、既に戦死者行方不明者は9,000名を超え10月13日時点中川大佐掌握していた兵員は1,150名に過ぎなかった。 第5海兵連隊陸軍321連隊日本軍をファイブ・シスターズ陣地中心とした東西300m南北450mの狭い地域包囲することに成功していた。10月14日米軍日本軍呼称大山」、「南征山」などに爆撃行ったのち、攻撃をかけた。この攻撃によって天山北部奪取され東山陥落した。しかしこの攻撃によって第5海兵連隊限界達しており、10月15日ペリリュー島離れることとなった損害第1海兵師団中でもっとも少なかったとは言え1,378名に達していた。第5海兵連隊撤退により、第1海兵師団の全兵力ペリリュー島から去ることとなった10月17日には、ウルシーアンガウルより来た米陸軍元い海兵隊南征山に攻撃仕掛けて来たが守備隊はこれを撃退した18日には、米軍1個連隊北部から攻撃仕掛けて来た。特に南征山は東山から1個大隊戦車進出してき、これに加えて北側から20メートルの崖に梯子をかけて登ってきた。これによって南征山北部が奪取されたが、守備隊は、進出してきた米軍集中射撃浴びせ逆襲行い陣地奪回米軍撃退した21日米軍1個連隊南征山に再攻撃仕掛けてき、守備隊攻撃持ちこたえられず、23日までに南征山はほとんど奪取され逆襲失敗した同日にはペリリュー島攻略は完全に陸軍引き継がれることとなり、「激しくて短い戦い」と宣言したリュパータス師団長飛行機ペリリュー島を後にしたが、宣言通り第1海兵師団単独短期間攻略できなかったという悔しさよりむしろ、地獄の戦場を後にできるという安堵表情であったと言う海兵隊からペリリュー攻略引き継いだポール・J・ミューラー英語版陸軍少将包囲網時間をかけて慎重に縮めていくことで、これ以上人員消耗避け戦術取ろうとした。またアメリカ軍新たな戦術として、ペリリュー島ふんだんにある珊瑚質の砂を利用し土嚢袋を前線まで運び車両入れない狭い道などでは土嚢に砂を詰めると、兵士土嚢ごと前進し日本軍攻撃から防御する戦術行い始めた。この戦術は有効であり、日本軍小火器砲弾の破片による損害減少させた。また日本軍陣地ナパーム弾火炎放射器時にはガソリン直接流し込んで焼き払い爆薬爆破し着実に攻略していった包囲されている日本軍10月17日ペリリュー島唯一の水源である池をアメリカ軍奪われていた。そのため水不足が深刻化し日本軍決死隊編成し夜陰紛れて水汲みに出かけたが、アメリカ軍はそれを重機関銃狙い撃って日本軍は百数十名の死者を出すこととなってしまった。ついにアメリカ軍10月28日には水源鉄条網囲い完全に遮断し日本軍乾き苦しむこととなったそのような状況の中で10月21日には昭和天皇から6回目嘉賞を受け、10月23日には連合艦隊司令長官から感状授与され士気大い高まったが、10月時点中川大佐掌握していた兵力はわずか500名にまで減っていた。一方で10月25日には包囲網縮め戦い行ってきた陸軍321連隊死傷者615名に達したため、陸軍323連隊交代したアメリカ軍次々と戦力投入してくるのに対し日本軍増援補給もなく次第追い詰められていった。 それでも日本軍最後まで高い戦意維持し戦い続け攻撃する323連隊はたびたび苦杯をなめさせられた。撤退した海兵隊戦車隊代わりに投入され陸軍戦車隊は、対戦車火器のない日本軍侮って警戒なしに進んできたが、日本軍はまだ保有していた航空爆弾工兵隊電気爆破装置装着して簡易地雷として埋設戦車がその上通過したタイミング爆破するという作戦でたちまち3輌のM4戦車撃破し70名以上のアメリカ兵殺傷している。この工兵隊善戦によってアメリカ軍進撃はさらに慎重となってブルドーザー埋没地雷除去しながら、戦車と歩兵連携してゆっくりと進撃してくるようになった11月2日には、米軍2個連隊攻撃開始し大山南部奪取された。 11月入って8日までは再び訪れた台風小休止となった13日に、米軍攻撃開始し戦車火炎放射器によって陣地はさらに圧縮され行き守備隊は、大山周辺集結するに至ったその後中川大佐司令部洞窟のある大山巡って最後激し戦い続けられた。大山周辺急峻な地形であり、車両が近づけず、アメリカ軍戦車火炎放射器での攻撃ができなかった。11月22日には米軍1個連隊攻撃仕掛けてきた。そのうち一部が崖をよじ登り陣地まで侵入してきたが守備隊はこれを撃退した。この戦いの中で10月17日日本軍狙撃兵は、第323連隊第1大隊レイモンド・S・ゲイツ中佐仕留めている。ゲイツ中佐ペリリュー島の戦いにおける陸軍での最高位戦死者となった

※この「ファイブ・シスターズ包囲戦」の解説は、「ペリリューの戦い」の解説の一部です。
「ファイブ・シスターズ包囲戦」を含む「ペリリューの戦い」の記事については、「ペリリューの戦い」の概要を参照ください。

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