ハ40の故障と整備
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三式戦闘機は日本ではまだ技術の成熟していない液冷エンジン、それも比較的先進的なものを採用したため、その生産不備や故障、整備の困難性についての指摘が多くなされている。渡辺(2002年)などでは三式戦闘機を大歓迎した部隊は一つも無いとまでされており、同じく渡辺 (2010年) によれば、エンジントラブルは前線部隊の三式戦闘機の代名詞であるとまで言われている。このため前線では多少性能が劣っても確実に飛ぶ一式戦闘機や二式戦闘機を装備し、運用することを望む声もあった。 新機材の初期不良は多くの場合に存在する。また当時の滑油、機械油は低温での粘性が高く、滑油冷却器まわりでは必要なところにオイルが供給されないという問題が発生したが、これは冷却器の能力を抑えることで解決した。初の実戦部隊である第14飛行団でも燃料噴射装置の圧力調整弁、過給器の故障、冷却器や滑油の漏れなどトラブルが続出した。特に油圧系統と燃料噴射ポンプには故障が続出していた。 和泉 (1994年)では流体継手の調整不良による出力低下、燃料噴射ポンプの故障、冷却器等からの油漏れが主な故障とされ、さらに燃料噴射装置の調整に対する整備兵の教育不足などが挙げられている。流体継手によるスーパーチャージャーの無段階変速がDB601の特徴であるが、これの調整が適切でないと、全くパワーが出ない。これを地上で調整するには、機体を杭で固定し、オーバーヒートに留意しつつ、ホースでラジエータに水をかけて冷却しながら整備作業を行った。 また本来DB 601では、クランク軸をはじめとした重要な部品はニッケル入りのクロムモリブデン鋼で作られていた。しかし、陸軍はハ40エンジン生産にあたり川崎にニッケル不使用を指示した。当時、冶金学の遅れていた日本では、ニッケルを加えないクロムモリムデン鋼は表面に微細なヒビが入り、品質は悪化、クランク軸折損事故を起こした。鈴木 (2012年)によれば、当初は表面硬化のために高周波焼入れが行われていたが、これは硬度不足で100時間以内に表面が剥離してしまうため滲炭処理に変更されたが、これの不良のため表面が剥離する事例が多かったとみられ、またクランク軸の真円度自体も、トラブルを回避するためには1000分の3mm程度の精度が要求されるが、これについても基準に至っていなかったのではないかとしている。ハ140への生産転換を迎える頃に至ってもハ40の気筒部分の生産歩留まりは50%程度であり、クランク軸の生産もはかどらなかった。さらに歴史群像編集部 (2010)によれば、このハ40は一般的な1000馬力級の空冷エンジンに比べて、生産に3倍の工程数を要したとする。 またクランク軸のコンロッド接続部のローラーベアリング(ころ軸受け)はローラーが14mm程度の径のものを3列にして用いていたが(複列円筒ころ軸受)、それに用いられた72個のローラーもドイツ製のものと比べて相当に精度が低く、クランク軸の破損に繋がった。当時の日本の基礎工業力は、ボールベアリングのボールの精度でも表面の凹凸がヨーロッパのSKF社製のものは0.001mm以内に収まっていたものが日本製のものは0.012 - 0.015mmと桁違いに悪く、(ハ40ではないが)愛知のアツタでは、ローラーについては真円度0.002 - 0.003mmのものを選別して利用していた。同様の選別が川崎でも行われていたと仮定しても、ほぼ素人である勤労動員の多かった当時の労働者の質を考慮すると、適切な選別が行われたかには疑問が残る。 1998年に現存していたハ40の部品を測定してみたところ、ベアリングケージなど他の箇所については精度は悪くなかったものの、やはりローラーの真円度はよくなく、10 - 22マイクロメートルであったいう。また鈴木 (2012年)は、生産上の主要なネックはこのクランク軸ピンの表面剥離であるとし、ローラーの形状自体にも(ベアリングのローラーは単純な円筒形をとってはいない)技術的蓄積が足りなかったのであろうと指摘する。ローラーの形状の不均一性については、愛知のアツタでも問題となっていたようだ。なお、鈴木(2012年)では、ベンツ製と川崎製クランク軸の断面顕微鏡写真が比較掲載されている。ベンツ製のクランク軸の結晶構造は均質なマルテンサイトとなっているが、ハ40は滲炭部の組織が完全なマルテンサイトではなく、焼きが入りきらずにトルースタイトが析出している。また滲炭深さにも問題があり、クランクとベアリングが局所的に噛み合うため、硬化の深度は1.5mm以上が必要であるが、データでは1mm程度の深さから硬度が大きく落ちている。また、川崎がこれまで製作していた水冷エンジンと比べ、技術的飛躍が大きかった点も無視できないとする。 碇(2006)によれば基礎工業力の不足は、全ての部品の質に非常な悪影響を及ぼした。例えば鹵獲した外国機などはエンジンの油漏れを起こすことは滅多になく、しかし日本機は油漏れなどの故障が常態化していた。 なお、陸軍へ引き渡す前の川崎での試験飛行では軽量状態であるためそれほど悪いものではなく、引き渡し後武装をはじめとする艤装で重量が増加したことがエンジンに負担をかけトラブルの多発の原因の一つになったようで、ある時期からは艤装に相当するバラストを積載した状態で試験飛行を行っていた。また1944年の晩秋頃にはバラストではなく、実際の艤装をほどこした「全装備」状態でテストを行うことが常態化していた。なお陸軍側の受領テストでは担当であった佐々木康軍曹(最終階級)は200機ほどの受領時テストを担当したが、至極快調と言い得るものは一割にも満たなかったと回想している。 その他材料、工作、点火プラグなどの部品はもとより、当時の日本は電線までもビニール被覆などではなく、糸や紙を巻いて絶縁したもので湿気に弱く漏電も頻発した。さらに戦争後期には熟練工が減少し、動員学徒や女子挺身隊が採用されて生産作業に当たった。このような質的な労働力の低下と無理な増産も部品の劣質化につながった。整備に関し、手鏡を芸術的に扱わねば点検できない箇所などもあり、1943年の暮れには航空審査部飛行実験部長今川一策大佐は、三式戦闘機の空冷エンジンへの換装を進言した。 ラバウルまで三式戦闘機を空輸した飛行第78戦隊(後述)は1943年5月18日「キ61の実用状況」で18項目にわたり各種の故障を報告しているが、その内訳は4月13日から5月10日までに冷却器修理61回、G型冷却器修理98回、E型冷却器修理43回である。特にオイルクーラーの油漏れがひどく、40分から50分の空戦で空になる、などといった記述が見られ、作動油800リットルを使い尽くしたともされる。第78戦隊と68戦隊はその後ニューギニアに進出するが、発動機の不調は続いた。現地の第4航空軍が1943年10月に中央に提出した意見報告書では、三式戦闘機の稼働率の低さを嘆き、空冷エンジンを装備する二式単座戦闘機鍾馗の配備を求めるほどだった。飛行第56戦隊では訓練時に事故が続発したことから「殺人機」と呼ばれた。 1944年10月からのフィリピン決戦では多くの航空機が空輸されたが、九州・沖縄・台湾と飛行した一式戦闘機の落伍率が4%であったのに対して、三式戦闘機は13%にのぼった。空冷エンジンの不調の例としては誉 (エンジン) を搭載した最新鋭機・四式戦闘機の脱落率が20%である。この時期にはハ40の生産と整備の技術が進歩しており、正規の潤滑油でなくヒマシ油で稼働させる様なこともできたらしい。油漏れは多いが、確実な整備をすれば十分に扱えるとの証言もあり、特に故障が多い印象はないとするパイロットもいる。また、1944年7月頃のデータによれば、十分な整備環境があれば70%程度の稼働率が維持されていた。この時点での二式単座戦闘機および四式戦闘機の稼働率は6割から9割とされている。 しかし帝都・東京防空を任務とする飛行第244戦隊の戦隊長であった小林照彦少佐は、故障の多いエンジンではあるものの、内地での戦闘であったため、修理もエンジンの交換も容易であったと回想している。しかしそれでも、1945年1月3日の迎撃戦では、当日一回目の出撃こそ40機全機が行えたものの、二回目には25 - 26機、三回目にはたった3機しか出撃できなかった。なおこの日の飛燕の損害は8機にすぎず、すなわち残りは全て故障という情けなさであった。同じく第244戦隊第1中隊長生野文介大尉は、第244戦隊は整備員も慣れているし部品もどんどん供給されるため十分に性能を発揮できたとする。また同様に第244戦隊に所属していた前述の竹田五郎大尉も、「オイル漏れとか、故障が多いとか評判は悪かったが自分の乗機についての不都合は感じなかった」と証言している。ただし同じく調布に展開する第18戦隊では1944年春頃には、50機中稼動機は5機と言った日もあった、との証言もある。一方、航空審査部実行試験部(以下、航空審査部)でも1944年、粗製化の傾向はあるものの十分な整備を行えば動作に支障はなく、問題は整備力の低さであると判断している。 上記のように本土もしくは審査部ではある程度の整備が行えたものの、最前線や実戦部隊での整備・運用は過酷な作業であった。さらに撤退の際、時間をかけて液冷エンジンに習熟した整備兵を最前線に残置したことも、稼働率を下げた要因の一つである。さらに日本の整備マニュアルは欧米のものに比較して難解で、当時必ずしも学力が高いとは言えず自動車などの機械類にも馴染みのなかった一般的な新任整備兵にとって少々荷が重かったとの指摘もある。また本機は日本陸軍では一式戦闘機、四式戦闘機、九七式戦闘機に次ぐ3000機以上が生産されたのであるが、軍事評論家の中には発動機に以上のような大きな問題を抱えつつもそれをこれだけの機数生産し続けねばならなかったところに当時の日本陸軍航空の苦悩が見て取れると評するものもいる。 1944年には油漏れに対する生産工程レベルでの抜本的改造が講じられた。この処置で一時的に生産量が落ちており、エンジン無しの機体が工場に並ぶことが多くなった。これについては#二型(キ61-II改)で後述する。
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