『新唐書「杜甫傳」』における略歴とは? わかりやすく解説

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『新唐書「杜甫傳」』における略歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 23:11 UTC 版)

杜甫」の記事における「『新唐書「杜甫傳」』における略歴」の解説

新唐書杜甫傳」』によれば、 [原文] 甫字子美、少貧、自振、客吳越齊趙間。李邕奇其材、先往見。舉進士中第、困長安天寶十三載、玄宗朝獻太清宮、饗廟及郊、甫奏賦三篇。帝奇、使待制集賢院、命宰相文章、河西尉、拜、改右衛率府冑曹參軍。數上賦頌、因高稱道、且言、先臣恕預來、承儒守官十一世、迨審言、文章中宗時。臣賴緒業、七歲屬辭、且四十年、然衣體、常寄食人、竊恐轉死溝壑、伏惟天子哀憐。若令執先臣故事、拔泥塗久辱、則臣述作。雖足鼓吹六經、至沈鬱頓挫隨時敏給、揚雄皋可企及也。有臣如此、陛下其忍棄。會祿山亂、天子入蜀、甫避走三川肅宗立、鄜州羸服欲奔行在、為賊所得至德二年、亡走鳳翔上謁、拜右拾遺。與房琯為布衣交、琯時敗陳濤斜、又客董廷、罷宰相。甫上疏言、罪細、宜免大臣。帝怒、詔三司雑問。宰相張鎬曰、甫若抵罪、絕言者路。帝、乃解。甫謝且稱、琯宰相子、少樹立醇儒、有大臣體。時論許琯才堪公輔、陛下果委而相。觀其深念主憂、義形色。然性失于簡、酷嗜鼓琴。廷托琯門下、貧疾昏老、依倚為非。琯愛惜人情、一至玷汙。臣歎其功名未就、志氣挫衄。覬陛下棄細錄大。所冒死稱述。涉近訐激、違忤聖心陛下赦臣百死、再賜骸骨天下幸、非臣獨蒙。然帝是甚省錄。時所在寇奪、甫家寓鄜、彌年艱窶、孺弱至餓死。因許甫往省視。從還京師、出為華州司功參軍。關輔饑、輒棄官去、客秦州負薪給。流落劍南、結廬成都西郭。召補京兆曹參軍、至。會嚴武節度南東西川、往依焉。武再帥劍南、表為參謀檢校工部員外郎。武世舊、待甫甚善、親入其家。甫見、或時巾。而性褊躁傲誕、嘗醉登武床、瞪視曰、嚴挺之、乃有此兒。武亦暴猛、外若為忤、中銜之。一日、殺甫及梓州刺史章彝、集吏門。武將出、冠鉤簾三。左右白其母、奔救得止。獨殺彝。武卒、崔旰等亂、甫往來夔間。大曆中、出瞿唐、下江陵、泝沅溯、以登衡山。因客耒陽、游岳祠、大水遽至、涉旬得食。縣令具舟迎、乃得還。令嘗饋牛炙白酒大醉一昔卒。年五十九。甫曠放檢、好論天下大事、高而切。少與李白齊名、時號李杜。嘗從白及高適汴州。酒酣登吹台、慷慨懷古、人測也。數嘗寇亂、挺節無所汙、為歌詩傷時橈弱、情忘君、人憐其忠云。贊曰、唐興、詩人承陳隋風流、浮靡相矜。至宋之問沈佺期等、研揣聲音、浮切差、而號律詩、競相襲沿。逮開元間、稍裁以雅正、然恃者質反、好麗者壯違、人得一概、皆名所長。至甫、渾涵汪茫、千匯萬狀、兼古今而有之。它人足、甫乃厭餘。殘膏賸馥、沾丐後人多矣。故元稹謂、詩人來、未有如子美者。甫又善陳時事、律切精深、至千言少衰、世號詩史昌黎韓愈文章許可、至歌詩獨推曰、李杜文章在、光焰萬丈長。誠可信云。 [書き下し] 甫、字は子美、少きとき貧しくして、自ら振るわず呉越斉趙の間に客たり。李邕其の材を奇とし、先ず往いてを見る。進士挙げらるるも、第に中たらず、長安に困しむ。天寶13載、玄宗太清宮に朝献し、廟及び郊に饗せしとき、甫は賦3篇を奏す。帝はを奇として、集賢院に待制たらしめ、宰相命じて文章試みしむ。河西の尉に擢でられしも、拜せず、右衛率府冑曹参軍に改めらるる。數しば賦頌を上り因りて高く稱道し、且つ言う、「先臣なる恕・預以来、儒を承け官を守ること十一世、審言に迨びて、文章を以て中宗時に顕はる。臣は緒業に賴り、七歳り辭を屬し、且に四十年ならんとす、然れども衣は體をはず、常に人に寄食す、竊か溝壑に轉死せんことを恐る伏して惟う天子の之を哀憐したまわんことを。若し先臣の故事執り泥塗の久辱より抜かしめたまえば、則ち臣の述作は、六經鼓吹する足らずと雖も沈鬱にして頓挫し隨時に敏給する至っては、揚雄皋にも企て及ぶべし。臣の此くの如くなるもの有るに、陛下其れ之を棄つることを忍びたもうや」と。安禄山の亂會い天子の蜀に入るや、甫は避けて三川に走る。粛宗の立つや、鄜州より羸服して行在に奔らんと欲し、賊の得る所と為る至徳二年、亡げて鳳翔走り上謁して右拾遺拜す。房琯と布衣の交わり為す。琯は時に陳濤斜に敗れ、又た客の董廷のことを以て宰相を罷めさせらる。甫は上疏して言う、「罪の細なれば、宜し大臣免ずべからず」と。帝は怒りて、三司に詔して雑問せしむ。宰相張鎬の曰はく、「甫の若し罪に抵たらば、言う者の路を絶たん」と。帝、乃ち解く。甫は謝して且つ稱す、琯は宰相の子にして、少くして自ら樹立し醇儒為り大臣の體あり。時論も琯の才の公輔に堪うるを許す。陛下果たし委ねて之を相としたもう其の深く主の憂い念い、義の色に形るるを観たまいしならん。然れども性は簡に失し、鼓を琴するを酷嗜す。廷は琯の門下に托し、貧疾昏老して、依倚して非を為す。琯は人情愛惜して、一に玷汚に至りしなり。臣は其の功名未だ就らざるに、志氣の挫衄せしことを嘆く。覬う陛下の細を棄てて大を録したまわんことを。死を冒して稱述する所以なり。近く訐激に渉り、聖心に違忤しまつるも、陛下の臣の百死を赦したまい、再び骸骨を賜わらば、天下幸いにして、臣の獨り蒙るのみに非ざらん」と。然れども帝は是より甚だしくは省録せず時に所在寇奪あり、甫の家は鄜に寓す、年を彌りて艱窶し、孺弱は餓死に至る。因りて甫の自ら往きて省視するを許す。從い京師還り、出だされて華州司功参軍為る。關輔饑う、輒ち官を棄てて去り秦州に客たり。負いを采りて自ら給す。剣南に流落し、廬を成都西郭に結ぶ。召されて京兆曹参軍に補せられしも、至らず。會たま嚴武の剣南東西川節度たるや、往いて焉に依る。武の再び剣南に帥たるや、表して参謀検校工部員外郎と為す。武は世よの舊を以て、甫の待つこと甚だ善く親しく其の家に入る。甫は之を見ゆるに、或いは時に巾せず。而して性は褊躁傲誕、嘗て醉いて武の床に登り、瞪視して曰はく、「嚴挺之乃ち此の兒あり」と。武も亦た暴猛なり、外は忤うことを為さざるが若くなるも、中には之を銜む一日、甫及び梓州刺史章彝を殺さんと欲し、吏を門に集む。武の將に出でんとするに、冠の簾に鉤すること三たびなり。左右のもの其の白し、奔り救いて止むること得たり獨り彝を殺せしのみ。武の卒するや、崔旰等亂す、甫は夔の間に往来す。大暦中、瞿唐を出で江陵下り、沅溯を泝り、以て衡山登る因りて耒陽に客たらんとして、岳祠い遊ぶに、大水遽かに至り、旬に渉りて食を得ず縣令舟を具えて之を迎え乃ち還ることを得たり。令嘗て牛炙と白酒を饋るに、大い醉い一昔にして卒す。年五十九。甫は曠放にして自ら檢せず好んで天下の大事を論ずるも、高にして切ならず。少くして李白と名を斉しくし、時に李杜と號ばる。嘗て白及高適從い汴州に過ぎる。酒酣にして吹台に登り慷慨して古を懐う、人の測るし。數しば寇亂を嘗むるも、節を挺して汚す所なく、歌詩を為り時の橈弱を傷み、情は君を忘れず、人は其の忠を憐むと云う贊して曰う、唐の興りて、詩人は陳隋の風流承け、浮靡をば相い矜る。宋之問沈佺期等に至り聲音を研揣し、浮切差わず、而して律詩と號び、競いて相い襲沿す。開元の間に逮び、稍く裁するに雅正を以てす。然れども恃む者は質の反し、麗を好む者は壮の違い、人は一概得れば、皆自ら長ずる所と名づく。甫に至りては、渾涵汪茫、千匯萬状古今兼ねて之を有す。它人は足らざるも、甫は乃ち餘す。殘膏賸馥は、後人を沾丐すること多し故に元稹謂う、「詩人ありて以來未だ子美の如き者はあらず」と。甫は又た善く時事陳ぶるに、律切の精深にして、千言に至るも少し衰えず世に詩士と號ばる。昌黎韓愈文章に於いて許可を慎むも、歌詩に至りて獨り推して曰く、「李杜文章在りて光焰萬丈長し」と。誠に信ずべし云う。 [現代語訳] 杜甫、字は子美、青年時代は貧乏で、うだつがあがらず呉・越と斉・趙に放浪生活送った李邕がその才能非凡とし、自分から出かけて面会求めたことがある進士挙げられたが及第せず、長安で生活に苦しんだ天宝13載、玄宗太清宮の御用係りとりたて宰相命じて文章試験させた。河西県尉官抜擢されたが拝命せず、改めて右衛率府の冑曹参軍に任命された。杜甫はしばしば賦頌を奉り、それによって誇って言うには、「わが先祖杜恕杜預以来儒者の家としての伝統継ぎ仕官の家としての本文守り続けること11代、杜審言至って文学をもって中宗皇帝のみ代に世に知られるようになりました。臣は先祖偉業継いで7歳より詩文作り始め40年にもなろうとしてます。しかしながら身につける着物とてなく、常に人に寄食しているようなしまつであり、あげくにはみぞに転げ落ちてのたれ死にするのではないかと、ひそかに恐れております伏して願わくは天子憐れみをたまわんことを。もし幸いわが先祖の名誉を思い出したまい、臣を泥土久しき辱しめより引き上げたうならば、臣の著述するところ六経世におしひろめるまではゆかなくとも、重々しく抑揚にとみ、時宣に応じて筆先きが敏であるという点に至っては、古の揚雄皋にも比肩しうるでありましょうかくのごとき臣がありますのに、なぜ陛下はうち棄てたままにおかれたもうのですか」と。安禄山の乱遭遇し玄宗が蜀に落ち延びたとき、杜甫賊軍避けて三川県逃れたが、粛宗即位聞き鄜州より返送して霊武行在所かけつけようとして、賊軍捕虜となった至徳2年、賊中より脱出して鳳翔にのがれ、天子拝謁して、右拾遺授けられた。房琯とは仕官前からの交際があったが、琯は陳濤斜の戦い敗北し、又た食客の董廷のことに連座して宰相罷免された。杜甫は琯のために上奏文を奉っていうのに、「瑣細な罪により、大臣罷免してはなりません」と。粛宗激怒し命じて三司合同杜甫取り調べさせたが、宰相の張鎬が、「甫がもし処罰されるようなことがあれば、以後諫言をなすものの道を絶つことになるでありましょう」と弁護したことにより、帝ははじめてその気持ちをほぐすに至った世論もまた琯の才能補佐職責たえうることを認めておりました陛下はその期待通りに琯に宰相の職をおゆだねになられたわけでありましょうしかしながら琯が陛下憂いたもうところに深くその思いをよせ、正義の心のその顔色あらわれているのをご覧なられたことでありましょうしかしながら琯はその性格余りにも抜けたことがあり、かつ琴を鳴らすことを過度に好むところがありました。ために琯の門下に身を託していた董廷なるものが、貧乏と病気のためにすっかりぼけてのことではありますが、琯の威勢たのんでよからぬことしでかす至ったようなしだいでありますまことに琯は人情にひかれて、つまづく至ったものといましょう。臣は琯がその功名をまだとげぬうちに、志気挫折してしまったことを歎くものであります願わくは陛下には、琯の小さなとがを棄てて、その大いなる功を取り上げていただきたいものです。臣が死を冒して申し述べましたのは実にそのためでありますぶしつけきわまることばに足をふみこみ聖主のみ心にたがいさからいたてまつりましたが、陛下が臣の百死に値する罪を許したまい、臣に休職を腸りましたことは、天下人びとの幸福であり、その幸福は臣がひとりこうむるばかりではないでありましょう」と。しかしながら帝はこののち余り杜甫をおひき立てなられるようことはなかった。その時に至る処に賊軍略奪があり、杜甫家族鄜州住んでいたが、1年にもわたって生活に困窮し幼児餓死するまでに至った。そのために杜甫家族見舞うことをお許しなられた皇帝に従って長安帰ったが、転出し華州の司功参軍となった。ときに近畿一帯にききんがあり、杜甫はかってに官を棄てて去り秦州旅寓して、たきぎに負いささぐり拾って自活した。ついでに剣南に放浪して、仮り住居成都西郭こしらえた召されて京兆の功曹参軍に任ざられたが、赴かなかった。たまたま厳武が剣南東川・西川節度使として赴任して来たので、杜甫は武をたずねてその庇護受けた。再び剣南節度使としてもどって来るに及び、武の上奏によって杜甫は剣南節度参謀検校工部員外郎の官を得た。武は父の代からのつきあいにより、はなはだ厚く杜甫待遇し親しく杜甫の家を訪問したが、時には杜甫は武に会うのに、ずきんをかぶらぬままのこともあった。しかも杜甫生まれつき怒りっぽくてごうまんであり、あるとき酒に酔って武の寝台上がり、武をにらみつけていうには、「厳挺之どのにまさかこんな息子があろうとは」と。武もまた乱暴ものであった。武は外面ではさからわぬもののごとくであったが、心中にはこのことを根に持ったのだったある日、武は杜甫と章彝を殺そうとし、部下をその門に集めた。武が出かけようとしたとき、冠が三どすだれの留め金ひっかかった。そばのものが武の母に報らせたので、母は杜甫救いかけつけ思いとどまらせることができた。武はひとり彝を殺したけだった厳武がなくなるなと、崔旰らが反乱起こしたため、杜甫梓州夔州との間をさまよい歩いた大暦年間、瞿唐峡を出て江陵下り、そこより沅江湘江さかのぼって衡山に登った。そのついでに耒陽行き、岳祠に出かけたとき、にわかに洪水見舞われ10日間も食べ物が手に入らなかった。耒陽県令が舟を準備して迎え来てくれたので、やっと耒陽帰ることができた。県令があるとき杜甫のために牛のあぶり肉とどぶろくとを贈り届けてくれたことがあるが、杜甫はその酒を飲みすぎ一晩亡くなった。年59歳杜甫はきまま勝手で、みずからを律するところがなく、好んで天下の大事を議論したが、その意見高遠すぎて現実的でなかった。若くして李白とその名声ひとしくして、時の人李杜とよんだ。あるとき李白高適に従って汴州に立ちよったとき、酒の酔い回ったころ吹台に登り、古を懐って意気たからかであったが、そのとき胸のうち凡俗にはかり知ることのできぬものがあったであろう。また杜甫はしばし戦乱経験したが、節操守って身を汚すことをなく、詩を作って時勢衰弱悲しみ、その心はつねに君主忘れることがなかったので、人々はそのまごころ感動したのである。賛にいう、唐の初め詩人たちは陳・隋の遺風継承して内容のない美しさ誇りあっていたが、宋之問沈佺期らに至って音律がみがきたたえられ平仄ととのえられるようになった。そして人々はそれを律詩呼び競ってそれにしたがいならっていたが、開元年間及んで、ようやく雅正をねらいとして詩を作るようになったしかしながら華美を誇るものは実質伴わず美麗を好むものは勇壮さが失われ人々はその一端得れば、皆それをみずからすぐれるところとして誇っていたが、杜甫至って、つつみこんで広々とし、さまざまの変化富み古今の詩を兼ね合わせて、それらを一身所有したのである。他の詩人たちは不十分であったが。杜甫こそはあり余るものであったいえよう杜甫大いなる余沢が、後世詩人たちに恵を与えたところは多大である。故に元稹はいう、「詩経詩人このかた、いまだ子美のごときものはない」と。杜甫はまたよく時事述べたが、調子良くて対句がうまく、千言費やしても少しも緩むところがない。世に詩史呼ばれている。昌黎公の韓愈は、文章においてはなかなか人を認めなかったが、歌詩に至って独り推挙していうのに、「李杜文章のありて、光焰萬丈長し」と。その評言まことに信頼してよいといえよう

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