『新増東国輿地勝覧』(1530)の于山島
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「于山島」の記事における「『新増東国輿地勝覧』(1530)の于山島」の解説
1530年に編纂された『新増東国輿地勝覧』では于山島と鬱陵島を併記し、添付の江原道の地図には于山島を鬱稜島の西に描いている。しかし鬱陵島の西にはその様な島は存在しない。本文にもある通り一説に本来一つの島であるとしていることから、鬱稜島を二島と誤認していたことが分かる。 この文章には「天候が清明であれば山頂の樹木及び山麓の海岸を歴々見ることができる。」という一文がある。韓国では、この一文を竹島(独島)から見た鬱陵島だと主張しており、日本では朝鮮本土から見た鬱陵島であるとする説もある。しかし、どちらも実際には快晴であっても山頂の樹木や山麓の海岸を歴々見ることはできない。そのため、これは過去の『高麗史』や『世宗実録』を参考に、鬱陵島の西にあるとされる鬱陵島から見た于山島の噂をそのまま加筆記載したものと考えられている。「三つの峰が及業(きゅうぎょう)として空を支え、南の峰はやや低い。」「于山と鬱陵は本来一つの島で百里(約40km)四方ある。」の部分は鬱陵島の様子を示しており、また「風が良ければ二日で到達できる」と言う部分では、当時の船で朝鮮本土から鬱陵島まで二日、日本側の資料で竹島(鬱陵島)から松島(現在の竹島)まで一日かかるので、于山島・鬱陵島は朝鮮本土から行く鬱陵島と考えられる。現在の竹島を于山島とする説では、距離だけでなく添付の地図の位置や大きさも全く違い、その可能性は極めて低い。 1760年代に編纂された『輿地図書』では、「欝陵島 一羽陵 島在府東南海中 三峯岌業掌空 南峯稍卑 風日清明則峯頭樹木山根沙渚歴々可見」と新増東国輿地勝覧とほぼ同じ記述内容をもって「鬱稜島」の説明としている。なお、1690年代に起きた鬱陵島(当時の日本ではこの島を竹島と呼んでいた)をめぐる日本と朝鮮との領有問題(竹島一件)の生じた時には、当時の朝鮮はこの一文を理由に鬱陵島は古来より朝鮮本土から見えていたので朝鮮領だと主張している。 原文 『新増東国輿地勝覧』巻之四十五 蔚珍縣于山島 欝陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空 南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 欝陵 本一島 地方百里 翻訳 『新増東国輿地勝覧』巻之四十五 蔚珍縣于山島 鬱陵島時に武陵、或いは羽陵とも呼ばれ、二島は県の真東の海中に在る。三つの峰が及業(きゅうぎょう)として空を支え、南の峰はやや低い。 天候が清明であれば山頂の樹木及び山麓の海岸を歴々見ることができる。風が良ければ二日で到達できる。一説に于山と鬱陵は本来一つの島で百里(約40km)四方ある。
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