『新唐書』新羅伝・『三国史記』列伝における評価
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『新唐書』巻220・新羅伝では、張保皐と鄭年とが元々知己であったこと、ともに唐で武寧軍少将となったことを伝える。張保皐が先に新羅に帰って高い官位(清海鎮大使)を得た後に、職を去って餓え凍えていた鄭年が張保皐を頼っていったときに暖かくこれを迎えたこと、歓迎の宴の最中に閔哀王が殺されて国都が混乱していることを聞くや、張保皐が鄭年に兵5千を与えて「あなた(鄭年)でなくては、この禍難を収めることはできないだろう」といい、反乱者を討たせて新王を立てたこと、新王によって張保皐は宰相に取り立てられたこと、代わりに鄭年が清海鎮大使を継いだこと、を記している。さらに続けて、杜牧が張保皐・鄭年の交わりを安禄山の乱における郭汾陽(郭子儀)・李臨淮(李光弼)の交わりに見立てて仁義の人であると賞賛したことを伝え、『新唐書』の列伝を編纂した宋祁の評として、国難の時期に義の心を持って国家の憂患を第一に考えた人として晋国の祁奚、唐代の郭汾陽・張保皐を挙げ、「どうして東方の蛮国に優れた人物がいないということがあろうか」と称えている(原文:嗟乎、不以怨毒相槊、而先国家之憂、晋有祁奚、唐有汾陽・保皐、孰謂夷無人哉。)。 『三国史記』の編者の金富軾は、新羅の伝記(新羅本紀に基づく記事、上記)とは食い違っていることを明記したうえで、『新唐書』新羅伝の記述をほぼ引用した形で巻44・張保皐伝を記しており、張保皐の評価を支持している。また、巻43・金庾信伝下においても、新羅の三国統一を果たした金庾信の功績を図抜けたものとしながらも、乙支文徳の知略と張保皐の武勇とをともに顕彰している。
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