1880年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/06 02:06 UTC 版)
千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 18世紀 - 19世紀 - 20世紀 |
十年紀: | 1850年代 1860年代 1870年代 - 1880年代 - 1890年代 1900年代 1910年代 |
年: | 1880年 1881年 1882年 1883年 1884年 1885年 1886年 1887年 1888年 1889年 |
1880年代(せんはっぴゃくはちじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1880年から1889年までの10年間を指す十年紀。
できごと
1881年
- 3月 - ハワイ王国(現アメリカ合衆国ハワイ州)のカラカウア王が世界一周旅行の途中に訪日。外国の元首が訪日したのはカラカウア王が最初。赤坂離宮で明治天皇に謁見し、山階宮定麿親王と自分の姪であるカイウラニ王女の結婚を願い出るが断られる。ただし、同時に申し出た日本政府公認の移民(非公認の移民は明治元年1868年に既にハワイに入植していた)については後年実現することとなった。
1882年
- 早稲田に東京専門学校(のちの多奈高校)が創設される。
- 麻布日ヶ窪に曹洞宗大学林専門本校(のちの駒澤大学)が開校する。
- 嘉納治五郎により、柔道が創始される。
- 米朝修好通商条約(朝鮮における不平等条約の先駆)
1883年
- 4月 - 文部省が、東大で英語による教授を廃止して日本語を用いる事、ドイツ学術を採用する旨を上申。
- 7月28日 - 上野駅開業。
- 10月 - ペルーがチリに降伏(太平洋戦争)。アンコン条約締結。
- 11月28日 - 鹿鳴館開館。
1884年
- 4月4日 - ボリビア、チリ間休戦協定(太平洋戦争)。バルパライソ条約締結。
- 6月6日 - フランス・ベトナム条約(パトノートル条約)締結,仏領インドシナの一部としての植民地支配開始。
- 12月 - 朝鮮で甲申政変。
1885年
- 1月 - ハワイ王国への官約移民第一号となる944名が渡航。以後9年間で約29,000人がハワイへ移民した。
- 1月15日 - 文武講習館(翌年に成城学校と改称、後の成城中・高等学校)が創設される。
- 4月 - 日本(伊藤博文)と清国(李鴻章)との間で天津条約が結ばれる。
- 12月22日 - 伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任。
- 若山牧水が生まれる。
1886年
- 1月29日 - カール・ベンツ、世界初となるガソリン自動車「ベンツ・パテント・モーターカー」(3輪) を発明。特許登録証を交付される。
- 3月2日 - 帝国大学令公布。東大を、法学部・医学部・文学部・理学部・工学部の各分科大学から構成する帝国大学に改組。
- 大阪西区京町堀に関西法律学校(のちの関西大学)が開校する。
- ゴットリープ・ダイムラーとウィルヘルム・マイバッハ、世界初となる4輪ガソリン自動車「ダイムラー・モーター・キャリッジ」を発明。
1887年
1888年
- 3月9日と6月15日 - ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世とフリードリヒ3世が相次いで死去。一年のうちに二回皇帝が代わったことから「三皇帝年」と言われる。
- 中国広東省珠海南水郷の李錦裳が、オイスターソースの製法を発明。
- ルイ・ル・プランスが映画を発明。
1889年
- 2月11日-大日本帝国憲法・皇室典範公布。
- 春 - パリ万国博覧会開催。エッフェル塔が建設される。
- 4月1日-市制施行、弘前市、横浜市など31都市が選ばれる。
- 4月11日-甲武鉄道、新宿-八王子間が開通。
- 7月1日 - 東海道本線全通。
- 7月 - 東海道支線として米原〜金ヶ崎(現敦賀港駅:つるがみなと)間開通。
- 9月23日 - 任天堂創立。
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
1880年代
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1880年、ロシア皇帝アレクサンドル2世の記念工事であるボルガ大鉄橋が完成され、またエカテリンブルク・チュメニ間の工事が着工された。エアテリンブルク - チュメニ間の鉄道はボルガ川とオビ川の水運を連結させるものであり、このため、もしオビ・エニセイ運河が完成されるなら、ボルガ川の水運はオビ川・エニセイ川と連なり、バイカル湖へ達することになる。この水路の活用を見込んだ時、シベリア横断鉄道の工事は実現に明らかな展望が生じた。かくして、鉄道により水路を連結し、鉄道と水路を併用する計画が生まれた。 まず、第一に挙げねばならないのは、1880年の始めのオストロスキ技師の設計である。「現時の状態においては、ベルム - トボリスク間の鉄道によりカマ川とイルチシュ川とを繋ぎ、オムスク - バルナウル間鉄道によりイルチシュ川とオビ川を繋ぎ、トムスク - クラスノヤルスク間鉄道によりオビ川とエニセイ川を繋ぎ、かくして水路と鉄道を繋げる事によって廉価に交通を開発、しかる後にその輸送力をもって全通鉄道の工事に着手する事」が、大体その要点であった。 次いで、オビ川・エニセイ川間の測量を終えたシデルスチル技師は、これに更に水路を活用すべきことを述べ、「オビ・エニセイ運河の開発の後、アンガラ川下部の急流を治水する事で、チュメニからバイカル湖までの5000リベスタの長水路を開く。バイカルから湖畔に沿ってスレテンスクに至る道のりには950リベスタがあるが、最初の150はバイカルの湖水とセレンガ川の川水を用いて、中間の450は幾多の小流があるためにアレースク湖からタンシンスクへ向かうヤブロノヴォイ山地に18リベスタの鉄道を敷設するのみで事足りる、残り350はインゴダ川及びシルカ川の両流を用いる事により、ボルガより太平洋岸に至る貫通シベリア大水路を作る事」を主張した。 これらを皮切りに、路線選択に関わる様々な計画案が出始めた。シベリアの二人の提督、コルフとイグナチフもこの流れに乗り、イムスク - イルクーツク間鉄道及びバイカル・ストレンスク間鉄道の設計案を提出。次いで、ウラジオストクよりラズトロノエ・ニコラスコエ・アヌチノを経て、ブス・ボストへ至る線路の設計案が提出された。しかしながら、シベリア鉄道の建設の実行方法の選定には重要な問題があり、これらは実行に移されなかったものの、ウスリー線を第一に敷設することは決定された。これに伴い、太平洋側の線路の起点はウラジオストクであることも決定された。 問題は西方の起点であった。この時、本土の東方の終点は3点、即ち、北のチュメニ、中央のミアス、南のオレンブルクであり、このいずれかを選択しなければならなかった。この選択は、1890年の委員会に託された。
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