歌川広重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/09 02:52 UTC 版)
広重の襲名者たち
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『名所江戸百景』中の二代目広重作品。左が「赤坂桐畑雨中夕けい」、右は「びくにはし雪中」。 |
- 二代目(1826年(文政9年) - 1869年(明治2年)[8])
- 二代目広重も初代広重と同じく父は定火消同心だった[8]。藤懸静也[9]によると、二代目廣重は広重の門人で俗称を森田鎮平と云い、号を重宣という。初代の養女お辰(16歳)と結婚したが、のち慶応元年(1865年)妻22歳の時、離縁となっている。その後、しばしば横浜に出向いて絵を売り込み、外国貿易が次第に盛んになっている時期「茶箱廣重」の名で外国人に知られた。また、「喜齋立祥」の画号を用いて制作したがその中で、花を主題にした一種の景色画、『三十六花撰』の出来栄えがよく、版元の求めに応じ、大錦判の竪繪に作った。なお、『名所江戸百景』のなかの「赤坂桐畑雨中夕けい」で秀逸な絵を残しており、初代の「赤坂桐畑」よりも構図、色彩ともに評価が高い。
- 三代目(1842年(天保13年) - 1894年(明治27年)[8])
- 初代広重の門下[8]。俗称は後藤寅吉である。離縁後のお辰を妻とした。号は一笑齋。
- 四代目(菊池貴一郎、1849年(嘉永2年) - 1925年(大正14年)[8])
- 二代目広重の門下[8]。三代目夫人の八重子と清水晴風らが相談して、四代目広重を襲名させた。菊地家は安藤家と親しかったためである。最初は版画を制作し、武者絵などを多く書いたが、後に書家となった。貴一郎は浮世絵に関する著作を出版している[10]。
- 五代目(菊池寅三、1890年(明治23年) - 1968年(昭和43年)[8])
- 四代目(菊池貴一郎)の息子が継いでいる。
注釈
出典
- ^ 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年、49頁。ISBN 978-4-09-626607-6。
- ^ 歌川広重伝」『浮世絵師歌川列伝』「
- ^ 白石(1993)
- ^ 関根(1899)
- ^ 田辺昌子監『カラー版徹底図解 浮世絵』新星出版社、2011年、ISBN 978-4-405-10701-4、p.40
- ^ 北斎・広重の浮世絵に見るジャパンブルー 〜渋沢栄一の生きた時代〜 アダチ版画研究所
- ^ 永田生慈 「広重の動静と作品 問題点を中心として」『生誕200周年記念 特別展 歌川広重展』図録所収、1996年
- ^ a b c d e f g 白井和雄. “江戸時代の消防事情5”. 一般財団法人 消防防災科学センター. 2020年8月6日閲覧。
- ^ 藤懸(1924)
- ^ 菊地(1965)
- ^ 文化遺産オンライン・作品一覧より広重「月に雁」
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