新潟放送
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 09:56 UTC 版)
会社概要
テレビではデータ放送を実施しており、番組表サービス「Gガイド」を配信している。
系列新聞は新潟日報(ラジオのローカルニュースの名称『新潟日報ニュース』)。
また、特定地上基幹放送事業者で唯一の、地方ローカル局としても数少ない株式上場企業である(東証スタンダード市場[注 1]、証券コード9408)。
キャッチフレーズは「走り出せ、夢たち。」で、イメージキャラクターは「ハレッタ」。
2023年(令和5年)6月1日に、民放テレビ局が4局体制の地域では初となる、認定放送持株会社体制へ移行した。これに伴い、株式上場の特定地上基幹放送事業者は消滅することとなる。
事業所所在地
- 本社・支社[2]
- 本社 - 新潟市中央区川岸町3丁目18
- 東京支社 - 東京都港区赤坂2丁目5-8 ヒューリックJP赤坂ビル SPACES赤坂5階
- 大阪支社 - 大阪市西区江戸堀1丁目9-1 肥後橋センタービル2階
- 長岡支社 - 長岡市千歳1丁目3-43 メディアぷらっと1階
- 上越支社 - 上越市木田1丁目2-4 メディアフロント2階
沿革
新潟放送 | |
---|---|
基本情報 | |
英名 | BROADCASTING SYSTEM OF NIIGATA INCORPORATED[5] |
略称 | BSN[1] |
本社 |
〒951-8655[2] 新潟県新潟市中央区川岸町 3丁目18番地[2] |
演奏所 | 本社と同じ |
公式サイト | https://www.ohbsn.com/ |
ラジオ | |
放送対象地域 | 新潟県 |
系列 | JRN、NRN系 |
愛称 | BSNラジオ |
呼出符号 | JODR |
呼出名称 | にいがたほうそう |
開局日 | 1952年12月24日 |
親局 / 出力 | 新潟 1116kHz / 5kW |
主な中継局 |
「#ラジオ周波数」を参照 |
テレビ | |
放送対象地域 | 新潟県 |
ニュース系列 | JNN |
番組供給系列 | TBSテレビネットワーク |
愛称 | BSNテレビ |
呼出符号 | JODR-DTV |
呼出名称 |
にいがたほうそう デジタルテレビジョン |
開局日 | 1958年12月24日 |
リモコンキーID | 6 |
デジタル親局 | 新潟 17ch |
アナログ親局 | 新潟 5ch |
ガイドチャンネル | 5ch |
主な中継局 |
「#デジタルテレビ放送」を参照 |
主なアナログ中継局 |
- 1951年(昭和26年)
- 1952年(昭和27年)
- 4月28日 電波監理委員会へラジオ放送の免許を申請。しかし、書類不備の為却下された。[7]
- 5月23日 電波監理委員会へラジオ放送の免許の申請を再提出(この時、送信所は新潟市河渡だった)。[注 2][7]
- 6月20日 ラジオ放送の免許申請、送信所を綱川原に変更した上で、電波監理委員会へ免許内容変更書類を提出。[7]
- 8月10日 新潟市古町7番町954番地(現・新潟市中央区古町通十字路)の大和新潟店[注 3] 7階映画館跡を演奏所に改造着手。
- 10月14日 株式会社ラジオ新潟(略称 RNK:Radio Niigata K.K.)設立。[8]
- 10月18日 ラジオ放送の予備免許を取得。[8]
- 12月2日 網川原ラジオ送信所が完成[9]。使用送信機は、東芝製SS-1163型1kW送信機1台。
- 12月5日 ラジオ、初の試験電波を15時30分より送信する。[9]
- 第1声は「JODR、JODR、こちらはラジオ新潟でございます。周波数1410kc(キロサイクル)で、ただいま放送を発射いたしております。」。
- 12月16日 民間放送18番目の局として、ラジオ新潟に、ラジオ放送の本免許が交付される(周波数1410kc、出力は昼間1kW、夜間500W)。[9]
- 12月17日 ラジオのサービス放送を開始。[注 4][9]
- 12月24日 ラジオ新潟として全国18番目にラジオ局開局(初代 第1スタジオ、17坪)。ラジオ新潟開局前夜祭『証券クイズ』を新潟市公会堂から生中継。[9]
- 12月25日 ラジオ、5時57分、『皇帝円舞曲』で本放送を開始。[注 5][9]
- 1953年(昭和28年)
- 1954年(昭和29年)9月15日 ラジオ、長岡放送局(JODE)開局。[注 7][13]
- 1955年(昭和30年)10月1日 新潟大火で本社演奏所焼失。これを受け、スタジオを網川原ラジオ送信所に、本社及び営業を新潟市古町8鍋茶屋前にそれぞれ移転する。[注 8][14]
- 1956年(昭和31年)
- 1月1日 ラジオ、彌彦神社事件で報道特別番組「弥彦神社初詣事故速報」を放送。[注 9][14]
- 1月18日 前述の新潟大火で本社演奏所が焼失したのを受け、新たに新潟市川岸町3丁目に新設をする本社・スタジオの起工式を行う。[14]
- 5月24日 川岸町の新本社第1期工事終了。ラジオ演奏所、2代目 第1スタジオ(24坪)を運用開始。
- 5月25日 新本社からの放送開始。[15]
- 6月3日 川岸町の新本社・スタジオの竣工式を行う。[15][16]
- 10月1日 ラジオの周波数が一斉変更(新潟(JODR):1220kHz、直江津(JODO):1560kHz、長岡(JODE):800kHzに各々変更)。更にこの日から、新潟局(JODR)の夜間の出力が、昼間と同じ1kWとなる。[17]
- 11月17日 ラジオ、新潟局(JODR)の送信所を山ニツとする変更申請を、電波管理局へ提出。翌月の12月21日に免許が付与される。[18]
- 12月24日 ラジオ、新潟局(JODR)山ニツ送信所運用開始(東芝製1kW送信機1台。送信球交換で最大3kWの送信が可能)。[19][20]
- 1957年(昭和32年)
- 1958年(昭和33年)
- 12月6日 弥彦山テレビ送信所竣工。[23]
- 12月10日 川岸町新本社第2期工事終了。初代 テレビスタジオ竣工(35坪)、東芝製イメージオルシコンカメラを2台導入。[23]
- 12月13日 地上アナログテレビ試験放送開始。マスター(主調整室)はNEC製。
- 12月21日 テレビ、『私は貝になりたい』(ラジオ東京テレビ、現在のTBSテレビ)をサービス放送する[注 10]。
- 12月22日 アナログテレビ放送の本免許を取得。[23]
- 12月24日 テレビ、『テレビ開局前夜祭』を、すでに導入済のテレビ中継車を使って新潟市公会堂から生中継する。[23]
- 12月25日 テレビ、ラジオ新潟テレビとして地上アナログテレビ本放送開始。同日に、テレビのローカルニュースも開始。[23]
- 1959年(昭和34年)
- 4月10日 テレビ、当時の皇太子御成婚の模様(パレード含む)を、ラジオ東京テレビから生中継ネットを行う。これに伴い、同社からもこの中継のためにKRTに中継応援スタッフやフィルム撮影機材等が出動する。[24]
- 8月1日 テレビ、当時のラジオ東京テレビのニュースネットワークであるJNN (Japan News Network)が発足し、同局も発足当初から加盟する。[25]
- 10月1日 ラジオ、新潟局(JODR)の昼間の出力が3kWに増力する(夜間は1kWのまま)。[26]
- 12月1日 ラジオ、新潟局(JODR)の出力が昼夜共に常時3kWとなる。[26]
- 12月14日 新潟港での北朝鮮帰還第1船の模様を、テレビ・ラジオの両方にて生中継する。テレビではJNN報道特番として、JNN系列18局に同時生中継を行う(制作には、自局を含めJNN7局が協力して行った)。[27]
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)
- 1月23日 昭和38年1月豪雪。全社非常態勢を取る。[34]
- 4月1日 ラジオ、小林百貨店(のちの新潟三越)1階のウィンドウ内(現在の正面玄関位置)にサテライトスタジオを開設(1968年4月29日まで)。[34]
- 5月9日 ラジオ、直江津局(JODO)の出力が1kWとなる。[35]
- 6月27日 新潟市の老舗ホテル、ホテルイタリア軒を買収。同社の傘下に収める。[36]
- 11月8日 BSN高田会館竣工。これに伴い、高田サテライトスタジオ開設され、直江津放送局(当時)(JODO)でのローカル放送を開始。[注 15][37]
- 12月1日 ラジオ、長岡局(JODE)の周波数が1060kHzに変更。[38]
- 1964年(昭和39年)
- 1965年(昭和40年)
- 1966年(昭和41年)
- 1967年(昭和42年)
- 1968年(昭和43年)
- 4月1日 テレビ放送のマスター(主調整室)更新。NEC製のマスターAPSの稼動を開始する。[注 19][54]
- 9月28日 ラジオ、『中央競馬中継』新潟競馬場から放送開始(場内外の放送も含む)。テレビも翌日の日曜日から開始。[55]
- 10月3日 テレビ、前月の30日からカラー化したTBSからの同時ネット番組「JNNニュースコープ」にて、新潟県にて初のカラー取材(「小千谷の錦鯉」)が放送される。[55]
- 12月1日 テレビ、カラースライド・フライング・スポット装置始動。カラースライドを使ったCMを開始。[注 20][56]
- 12月16日 テレビ、NST新潟総合テレビの開局により、テレビはTBSテレビのほぼフルネットとなる。これに伴い、フジテレビ、日本テレビ、NETテレビ(現:テレビ朝日)の各系列のほとんどの番組が移行する(翌年4月まで)。
- 1969年(昭和44年)
- 1970年(昭和45年)
- 1月1日 ラジオ、新春生放送、『BSNラジオでおめでとう』(0時30分〜5時)放送開始。[58]
- 5月12日 BSN長岡会館が竣工(長岡市殿町1丁目)[59]。これに伴い、長岡支社及び長岡ラジオ放送局(JODE)のマスター及びスタジオが同会館内に移転する。
- 6月1日 テレビ、ローカルテレビニュースをカラー化。[59]
- 8月30日 テレビ、大型カラー中継車導入。[60]
- 9月20日 テレビ、『中央競馬 BSN杯レース中継』(新潟競馬場からの生放送)にて、前述の大型カラー中継車を使った初の中継を行う。[61]
- 10月5日 テレビ、ゴールデンタイムのテレビ番組が完全カラー化される。[61]
- 10月10日 ラジオ、局初のラジオワイド番組『ハロー!!ジャンボサタデー』放送開始。初代司会は井口ひろし(タレント)。[61]
- 12月31日 ラジオ『オールナイト・ハッピー・パーティー』スタジオ生放送。[62]
- 1971年(昭和46年)
- 1972年(昭和47年)10月2日 テレビ、本社屋上に情報カメラ設置。[67]
- 1973年(昭和48年)
- 1974年(昭和49年)
- 1975年(昭和50年)
- 1976年(昭和51年)
- 3月6日 TBSテレビ『8時だョ!全員集合』を新潟県民会館から生中継。番組の制作及び技術協力を行う。少年少女合唱隊のコーナーで志村けんが東村山音頭を初披露。[75]
- 6月1日 ラジオ、文化放送・ニッポン放送系のNRNにも加盟。[76][注 25]
- これに伴い、ラジオの深夜放送にて、今までTBSラジオからネットしていた『パックインミュージック』『歌うヘッドライト』に代わり、ニッポン放送からの『オールナイトニッポン』(第1部・第2部)のネット受け放送を開始。[76]
- 11月26日 山ニツラジオ送信所 空中線事故により難聴取地域が発生[77]。その後、1977年(昭和52年)4月に、これに関する空中線修理を完了する。
- 1977年(昭和52年)
- 1978年(昭和53年)
- 4月 BSNラジオの歌『いつもあなたと』を発表(作詞:外山真理(当時ラジオCM部員)、作曲:小倉靖)。[81]
- 5月28日 テレビ、日立製作所製の1インチVTRを導入。[82]
- 11月23日 ラジオ、ITU国際電気通信連合の取り決め(それまでの10kHz刻みの周波数から、9kHz刻みの周波数に変更)に従い、午前5時、周波数が上越局(JODO)以外[注 26]、 一斉に変更される(新潟局(JODR):1120kHz→1116kHz、長岡局(JODE):1060kHz→1062kHz、塩沢中継局:1560kHz→1485kHz)。[83]
- 12月21日 山ニツラジオ送信所の局舎、送信設備を一新する(5kW送信機1台、予備機)。[83]
- 1979年(昭和54年)
- 1980年(昭和55年)
- 1981年(昭和56年)
- 1982年(昭和57年)
- 1983年(昭和58年)10月1日 テレビ、新潟テレビ21(NT21→UX)開局により、残っていたテレビ朝日系列の番組が移行[注 32]。テレビ東京系列や全国独立放送協議会加盟局(いわゆる独立放送局)などの番販ネットを除いて、TBSの完全系列局になった。
- 1984年(昭和59年)4月7日 テレビ『土曜はヨイショ!!』放送開始[95]。後に同局のローカルテレビの看板番組となる。
- 1985年(昭和60年)12月1日 緊急警報放送システム EWS運用開始。[96]
- 1987年(昭和62年)
- 1989年(平成元年)
- 1992年(平成4年)
- 1993年(平成5年)10月4日 ラジオの深夜放送にて、約17年半ぶりに、TBSラジオ『歌うヘッドライト』のネット受け放送が再開される(これに伴い、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』第2部のネットは打ち切りとなる)
- 1994年(平成6年)テレビ放送、終夜放送(天気予報フィラー)を開始。
- 1997年(平成9年)10月1日 テレビ文字多重放送開始。
- 1999年(平成11年)2月1日 テレビ放送にて、日本の地方テレビ局としては初めて、ビットキャストによるデータ多重放送「BSNデータパレード」を開始する[注 36]。
- 2000年(平成12年)1月 テレビ、JRA主催の日曜競馬中継(当時は「スーパー競馬」)が制作局フジテレビの系列局NST新潟総合テレビに移行したのを最後に、テレビ東京系列以外の他系列番組が姿を消す。
- 2004年(平成16年)
- 2005年(平成17年)
- 3月 ラジオマスターを更新(NEC製)。
- これに伴い、番組・CMの録音、編集、マスター搬入をオープンリールテープからMOに完全移行する。
- 4月30日 アナログ・テレビに於けるビットキャストによるデータ放送「BSNデータパレード」を終了する[注 37]。
- 6月10日 地上デジタルテレビ放送の予備免許を取得(NHK新潟放送局、他の民放テレビ3局も同時に取得)[注 38]。
- 9月5日
- 10月1日 地上デジタルテレビ放送の試験電波発射(弥彦送信所のみ。初めは出力30Wから。送信機は東芝製)。
- 10月25日 午前4時30分、地上デジタルテレビ放送の試験放送開始(局舎タワーのハイビジョンお天気カメラの映像のライブ放送も含む)。
- 11月1日 地上デジタルテレビ放送の出力が3kWになる。
- 12月12日 地上デジタルテレビ放送のデータ試験放送開始(県内初)。
- 3月 ラジオマスターを更新(NEC製)。
- 2006年(平成18年)
- 2007年(平成19年)
- 2008年(平成20年)
- 4月1日 緊急地震速報の運用開始。
- これに伴いラジオでは、NHK新潟放送局、BSN新潟放送、エフエムラジオ新潟、新潟県民エフエム放送のアナウンサー及びナビゲーター共演による「緊急地震速報 新潟県ラジオ4局からのお知らせ」のCMを放送する。
- 11月15日 長岡支社が同市千歳1丁目3番43号の「メディアぷらっと」内に移転する。
- これに伴い、同支社内からのハイビジョンの映像素材の伝送が可能になり、更に、同支社にて一部の報道に於いてのハイビジョン取材を始める。
- 12月頃 本社報道センターでの報道番組のハイビジョン取材を始める[注 40]。
- 12月23日 テレビ、BSNテレビ開局50周年記念番組として『発見! 発掘! 新潟とテレビの50年』が放送された。
- 4月1日 緊急地震速報の運用開始。
- 2009年(平成21年)
- 4月7日 ラジオ、平日放送を午前3時から4時まで放送休止(放送終了アナウンスの後、1時間フィラー)となる[注 41]。
- 4月中旬 本社にてテレビのハイビジョンSNG・FPU中継システムを自社導入、稼動開始[注 42]。同システム導入より、ローカルテレビ中継でのハイビジョン運用を開始する[注 43]。
- 7月7日 ラジオ、HARD OFF ECOスタジアム新潟のこけら落とし試合である、セ・リーグ公式戦「広島東洋カープ対阪神タイガース」の試合を、オープニングセレモニーから試合終了まで放送した(放送時間は17時45分 - 21時54分)。中国放送の制作でJRN全国ネットにて実況生中継を行い、その際の技術協力も行った。
- 9月6日 テレビ、HARD OFF ECOスタジアム新潟のセ・リーグ公式戦「横浜ベイスターズ対中日ドラゴンズ」の試合のローカルテレビ生中継(同局の本格的単発中継番組)において、初のハイビジョン生中継放送を行う。
- 2011年(平成23年)
- 7月24日 正午、地上アナログテレビ放送が終了。23時59分には、同電波が完全に停波する。停波直前には、当時の現行クロージング映像が下部に「JODR-TV アナログ放送を終了します」の字幕が表示されながら放送された。アナウンスは近藤丈靖アナウンサーの声で「JODR-TV。ご覧のBSNアナログテレビ放送は、まもなく完全に電波を停止します。今後は、デジタル放送で、BSNの番組をお楽しみ下さい。」というものだった。
- 10月初旬頃 テレビ、TBSテレビ系列以外(テレビ東京等)からのハイビジョン・デジタル・ネット回線の受け入れ体制が整う。これに伴い、テレビ東京の番組『ウイニング競馬』のBSNテレビでの放送が漸くハイビジョン化される。
- 2012年(平成24年)
- 2013年(平成25年)
- 5月1日 ラジオ、『ミュージックナビ〜昨日と今日との交差点〜』のネット開始によりラジオが土曜日、日曜日の深夜を除き24時間放送に戻る。
- 8月 1966年(昭和41年)に建てられ県内最古のテレビスタジオが残されていた旧局舎の解体完了。
- 本社 事業局(企画事業部、コンテンツ事業部)が川岸町から万代のメディアシップの13階に移転。
- BSNウェーブ(旧・新潟放送興業)も同階に入居している。
- 2014年(平成26年)
- 1月14日 自社傘下のホテルイタリア軒の売上低迷による経営悪化に伴い、同ホテルを、NSGホールディングスに同年4月1日付で売却することで合意。同日付で、同社に売却譲渡した。
- 5月1日 テレビ、フィラー時間帯に「TBSニュースバード(現在のTBS NEWS)」を開始。
- 11月4日 ラジオ部門が、「radiko.jpプレミアム」(エリアフリー聴取)に参加。これに伴い、同サービスを通じて、新潟県外でも有料にて、ラジオの放送を始める(日本国内のみ)。
- 2015年(平成27年)
- 2017年(平成29年)
- 6月29日 同局元アナウンサーである佐藤隆夫が同局代表取締役社長に就任。竹石松次社長は代表権のある会長になる。
- 2020年(令和2年)
- 3月30日 ラジオ、深夜放送にて、26年半ぶりにニッポン放送の制作『オールナイトニッポン0(ZERO)』(月)〜(金)『上柳昌彦 あさぼらけ』(月)〜(木)のネット受け放送が再開される。(これに伴い、TBSラジオの『Fine!!』のネットは打ち切り)
- 2021年(令和3年)
- 10月3日 ラジオ、2009年4月から続けてきた土曜深夜の放送休止枠(「深夜音楽」)に、「福山雅治と荘口彰久の「地底人ラジオ」」が入ったことにより、土曜深夜時間帯が12年半ぶりに常時放送となる。(「深夜音楽」は、同年9月26日深夜の分をもって終了。)
- 2022年(令和4年)
- 2023年(令和5年)
- 1月 局内のテレビスタジオのサブを更新(池上通信機製 4K対応)[106]。
- 6月1日 放送法などの手続や総務大臣の認可などを経て認定放送持株会社に移行することとし、現在の新潟放送は「株式会社BSNメディアホールディングス」に社名変更。全国で12社目、大都市圏以外でかつ民放テレビ局が4局体制の地域では初めて認定放送持株会社体制へ移行した。また「株式会社新潟放送分割準備会社」に、現在の新潟放送が持っている放送事業を吸収分割形式により承継した上で、同日付で「株式会社新潟放送」(2代目法人)に社名を変更した。新会社ではテレビ放送事業とラジオ放送事業を分割せず、従来のラ・テ兼営体制を継続する[107]。当初は4月1日に移行を予定[注 44]していたが、総務省からの許認可が3月時点で得られていないため、移行日を変更していた[108]。
- 2024年(令和6年)
災害当時の放送体制
1955年新潟大火当時の放送態勢
- 1955年(昭和30年)9月30日 台風22号が夜半に佐渡沖を通過する恐れが出たため、定時放送終了後もフィラーを流しながら30分刻みで台風情報を伝えると同時に停電に備え、電源が安定している網川原送信所にアナウンサーが待機する。理由は、当時、ラジオ新潟本社の自家発電装置は古い自動車エンジンを使用していたため、停電が長引くと装置が不安定となり使えなかったからである。
- 1955年(昭和30年)10月1日1時36分 停電。網川原送信所へ台風関連の原稿が送られ放送が続けられる。
- 2時50分 新潟市医学町二番町、新潟県教育庁の木造庁舎から出火。強風に煽られ東中通、西堀通を延焼。
- 3時05分 最大瞬間風速33.6mを記録(新潟気象台)。
- 3時10分 本社スタジオの当直者に火事の情報が入る。
- 3時15分 「県庁脇、交番付近から火災発生」の一報を網川原送信所から放送、フィラーを止め火災のニュースが繰り返される。アナウンサーがデンスケを肩に下げ火災現場に向かう。放送や消防車のサイレンで火災を知った社員がスタジオに集合する。火災情報の原稿を本社から送信所へ送り、そこから放送していては情報が追い付かないと判断し、大和デパート新潟店地下に設置してある自家発電装置の始動を試みる。
- 「教育庁全焼」、「北村知事、自衛隊新発田駐屯地に出動を要請」、「東中通に延焼、新潟日報(当時、新潟日報社は同地にあった)も危険」の情報を網川原送信所から放送する。
- 3時30分 自家発電装置が始動する。「新潟日報はラジオ新潟に避難開始」、「大黒屋旅館に延焼」の情報が本社スタジオから放送される。梁取清助調整部長らが強風と火の粉が舞う中、大和新潟店7階演奏所屋上にマイクロフォンを設置する。
- 4時15分 丹羽国夫アナウンサーが屋上のマイクロフォンから市中心部の火災の様子を実況開始。丹羽アナウンサーの実況と共に、走り回る消防車のサイレンがラジオから流れ続ける。
- 4時35分 「小林デパート(前記、大和デパートのほぼ斜め向かいに位置する。のちの新潟三越)から火が出ました。では・・・実況を・・・この辺で打ち切る事にします。危険ですからこの辺で実況を打ち切ります。」と、20分間の実況放送を中止し、集合した社員達は午前中に放送された番組の収録テープや十数枚のLPレコード盤、CM原稿と2,3個の機材を持ち出し避難する[111]。
- 4時36分 「JODR、こちらはラジオ新潟です。本社スタジオは火災のため放送不能となりましたが、引き続いて、ここ送信所から火災情報をお送り致します…」の第一声で網川原送信所より放送を再開。
- 4時50分 大和新潟店と屋上のラジオ新潟に引火、全焼。
- 夜が開け、網川原送信所に全社員が集合。送信所のテラスに毛布で囲まれた臨時スタジオが作られる。長岡放送局と直江津放送局から必要な放送機材を集める。
- 10時00分 放送機材整備のため一時間放送を休止する。
- 11時00分 平日番組に復旧する。
- 夕方過ぎ、信越放送、ラジオ東京(現・TBSラジオ)、ラジオ東北(現・秋田放送)から可搬型録音機、録音テープ、マイクロフォン、ミキサー、レコード盤、文具などの応援物資が到着する(以後、全国の民放局から応援物資が届けられる)[注 45]。
- 新潟大火の実況放送の全ては長岡放送局で録音されており、その日のうちに長岡放送局から網川原送信所へライン送出され、無事だった新潟-東京間の専用回線でラジオ東京へ送られ全国放送された。
- ラジオ新潟の仮本部は坂口献吉社長自邸に設けられ、その後、火災から免れた古町八番町の元料亭に移動する。編成制作、技術は網川原送信所に設けられた。
新潟地震当時の放送体制
1964年(昭和39年)6月16日 13:01に発生した新潟地震発生後の番組編成、活動状況は下記の通り。
- 13時01分 ラジオ『歌で歩む50年』、テレビ『いつか青空』を放送中に地震発生、新潟市で震度6を記録する。川岸町本社は停電と、本社-送信所間の地下埋設放送線が断線したためラジオ、テレビは放送不能になる。局舎に隣接する北陸瓦斯のガスタンク2基がガス漏れにより爆発の危険が出たため全社員に避難命令が出るが、数十分後に解除される[112]。
- 14時15分 テレビ放送再開。スタジオのカメラを屋上へ設置し、炎上する昭和石油からの2つの黒煙や落下した昭和大橋などを放送する。
- 14時33分 屋上のカメラから信濃川を逆流する180cmの津波を放送すると同時に2インチVTRにも収録する。
- 15時05分 ラジオ、山ニツ送信所から放送再開。大和デパート新潟店で中元取材中、地震に遭遇した報道部の藤田実記者は徒歩で山ニツ送信所へ向かい、昭和大橋の被害、昭和石油の火災、津波、国鉄が不通などの情報を放送する。
- ラジオ再開後、テレビはラジオ音声を流し始める。
- 15時25分 本社→県警察本部(新光町)→警察庁(霞が関)→東京支社(当時は銀座にあった)経由でTBSラジオへ支援要請。
- 16時01分 ラジオ、県庁に設置された県災害対策本部から災害情報や尋ね人の放送を開始(本社スタジオは放送不能のため、新潟県庁に駐車したラジオカーから送信したFM波を直接山ニツ送信所で受信し放送する)。
- 17時15分 見舞い文に改められたラジオCM放送再開。
- 20時00分 ライフライン、公的情報、災害状況、尋ね人、新潟を訪れている修学旅行生の安否情報などを終夜放送する。
- 20時14分 川岸町本社 - 電電公社新潟電話局(現・NTT東日本新潟支店)間の電電公社の中継回線を仮復旧。『クイズ・クイズ・クイズ』のネット受けを途中から開始。
- 深夜、テレビは放送休止
- 1964年(昭和39年)6月17日 16日の応援要請を受けて、秋田放送と東京放送(TBS)から総勢57人のスタッフ、テレビ中継車と電源車、放送復旧機材等が新潟に到着。
- 18時00分 川岸町本社スタジオからラジオ放送を再開(本社 - 山ニツ送信所間をTBSが持参したFM広帯域一対向によって仮復旧)。特集『29時間後の新潟市から』を放送。
- 22時30分 ラジオ、尋ね人を約5,000人などを伝えた災害放送を終了。
この放送中に新潟市災害対策本部からの要請で県内の化学製品工場の関係者あてに化学消防車を昭和石油火災現場に派遣してほしい趣旨の救援放送を実施。ラジオを聞いていた関係者により当日深夜化学消防車が応援に駆け付けた。
新潟県中越地震当時の放送体制
2004年(平成16年)10月23日 17:56に発生した新潟県中越地震発生直後の番組編成状況は下記の通り。
- 17時56分 地震発生後、字幕(地震情報)での対応
- 18時00分 『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』を通常通り定刻開始。
- 18時15分頃 上記番組を中断し、地震関連の放送開始。
- これ以降、翌日午前0時頃まで予定の番組を変更し、さらに、TV-CMを全面カットして、TBSテレビ発のJNN報道特別番組を含め、BSN独自編成で地震の詳報を伝え続けた。
- TBSラジオでは、24日午前0時から午前4時までの間、『JUNK』と『B-JUNK』を中止し県内向け生放送を「報道特別番組」として同時放送した。
注釈
- ^ 旧JASDAQ市場。
- ^ しかしこの申請後、河渡に送信所を設置することで難航し、その後競馬場、綱川原、清五郎、中木戸、飛行場付近等に変転したものの、最終的には翌月(6月)の12日に、綱川原に送信所を設置することで決着し、後日、内容変更書類を提出することにした。
- ^ 2010年6月に閉店し、跡地は「新潟プラザビル」に変わっている。
- ^ 時間は、11時~15時と17時~21時の1日8時間で、ニュース、音楽等を流していた。
- ^ この時の放送時間は、毎日朝6時から夜10時半までで、途中朝10時、午後3時からそれぞれ1時間休止があった。
- ^ 前月(11月)の26日に本免許を取得(周波数:1460kHz、出力:100W)。11月29日には、直江津小学校にて、同放送局の開局式典が行われた。
- ^ 同月13日に本免許を取得(周波数:1220kHz、出力:100W)し、この日(13日)の15時55分より、サービス放送を開始している。開局日の15日には、長岡市公民館で開局式が行われた。
- ^ 大和新潟店7階の演奏所が完成からわずか3年足らずで焼失する。しかし、引火する寸前まで大和屋上から火災の実況生中継を行い、実況スタッフが避難した直後より網川原ラジオ送信所から行った臨時放送と合わせ、各方面から高く評価された。この日から新社屋が機能するまでの約8ヶ月間、送信所内の仮設アナブースからの番組と県内各所からの公開番組で放送をカバーする。
- ^ 二年参りで混雑する弥彦神社で深夜0時過ぎ、参拝客が将棋倒しになり死傷者201人の大惨事が発生。ラジオ新潟の社員2人が現場に居合わせたため早期取材体制に入る。放送開始時間を30分繰り上げ4時30分から放送開始。この日に予定していた正月特番を急遽報道番組に変更する。
- ^ 当時のラジオ東京(KRT)テレビ等で放送された当番組が第13回芸術祭大賞を受賞したため、ビデオテープで収録していた本放送をこの日に全国にマイクロネットで記念再放送したもの。同番組は現在、TBSテレビの番組における最古の番組資料でもあり、またビデオテープでもある。
- ^ ちなみにこのタイプの英文社名は、BSNの他にはこの3か月後に株式会社ラジオ山陰(RSB)から社名変更した株式会社山陰放送(BSS:〜 of San-in)だけである。
- ^ 1960年11月29日に、株式会社ラジオ東京がTBS(株式会社東京放送)に社名を変更した流れを受けたものであるといわれている。また、この頃より旧ロゴ(1992年(平成4年)3月末まで用いられたもの)の使用を開始した。
- ^ NEC製の放送用VTR(型番:TT-1)を2台購入。このVTRの値段は当時で、1台2490万円だった。
- ^ 最初の稼働は、この日の「武田ロマン劇場」(日本テレビ制作)のVTR送りによる遅れネット放送だった。
- ^ これを記念した特別番組として、「リクエスト合戦」を放送。
- ^ 尚、番組編成上、同局のカラー放送開始は翌々日の10月3日となった。
- ^ 同局のカラー放送第1弾は、日本テレビからのネットで、米映画ドラマ『カート・ライト兄弟』だった(同日20時からの55分番組)。同局のカラー放送開始当初、レギュラーのカラー番組は同番組の他に、日本テレビの『私のクイズ』、TBSテレビのカラーアニメ『トムとジェリー」の計3番組だけだった。新潟日報 1964年10月9日 オリンピック特集特別紙面 P.8 BSN新潟放送のテレビオリンピック放送広告に記載(新潟日報マイクロフィルム版にて閲覧)
- ^ 初めはテストケースで行われた。番組内容は記録映画『若人の祭典』だった。
- ^ 後に音声多重化等の改造工事等も行ったが、新館局舎移転になる前日の1987年(昭和62年)4月5日まで使用された。
- ^ 同年の4月からNHKがカラー契約を開始したことや、同局の「第11回テレビスポットコンクール」の開始が同日だったこと、更に同年の11月29日にNST新潟総合テレビがサービス放送を開始したこと(同局の開局は翌月の16日)が影響している。
- ^ カラー化に伴いテレビスタジオには、東芝製カラープランビコンカメラ3台が配置される。
- ^ ただし、番組の前半部分は『ミュージックポスト』放送開始以降、新潟放送局周辺以外の地域(上越・中越地方)でも放送していた。
- ^ それまでは朝日系をTBSテレビ系列の局が、毎日系をNET系の局がネット受けしていた。
- ^ ただし、朝日放送テレビの一部の番組(NST新潟総合テレビの番組枠の都合で放送できない番組、一部の一本買いの番組等)は、1983年9月30日の新潟テレビ21開局前日まで放送された。
- ^ 但し、NRN公式サイトでは昭和45年加盟となっている。
- ^ JODO上越放送局の1530kHzは、9kHzごとの所定の周波数であったため、変更する必要がなかった。
- ^ ちなみに初めの同放送は、朝6時57分の『天気予報』のステレオ放送で、同日放送開始前のテストパターンの音楽もステレオ放送だった。
- ^ 移行した主な番組は、「笑点」、「グランド劇場」、「健康増進時代」。
- ^ 16時からの55分番組。ステレオ放送だったものの、同日の新聞のテレビ番組欄には同番組のステレオ番組の表記がなかった。
- ^ その後は、ENGを使ったビデオ取材に1本化される。
- ^ この時は、番組の演出上、シンガーソングライターの泰葉がピアノを弾きながら歌っている最中(楽曲は『水色のワンピース』)に切り替えられた。また、この変更の瞬間を収録したテープを送ってプレゼントを当てる懸賞キャンペーンも行われた。
- ^ 「あまから問答」等が移行。
- ^ 第1ラジオスタジオ内の吸音素材にはラジオスタジオでは日本初、特殊セラミックパネルを壁一面(副調整室のある壁面のみ張られていない)に張る工法を採用し、完成後は多くの放送、音響に関わる関係者が見学に訪れた。またこの頃は、セラミックパネルの効果を活かした生演奏企画が番組内で多く行われた。
- ^ スタジオには、東芝製カラーCCDカメラが3台導入される。音声はステレオ対応。このスタジオ運用開始に伴い、ローカル番組『土曜はヨイショ!!』がステレオ放送になる。
- ^ ローカル番組でも、『土曜はヨイショ!!』等のテレビスタジオの番組にて同放送が行われた。
- ^ JNNでは、TBSテレビ、毎日放送に次いで3局目であった。
- ^ 同放送が、後に開始される地上デジタルテレビ放送におけるデータ放送に変わることによる処置である。
- ^ この日は新潟県を含む全国のNHKの地方局13局と、全国の地方民放40局が同時に予備免許を取得した。インプレス社AV Watch 2005年6月9日付記事
- ^ スタジオカメラはテレビ放送開始以来東芝製であったが、ハイビジョン放送の開始に伴い初めてソニー製(品番:HDC-900)になる。
- ^ 報道取材に於けるハイビジョン取材の開始は、JNN系列では最も遅い方だった。
- ^ a b 局の経済的事情により4時を起点とする23時間放送となる。番組表では、午前3時から4時のフィラーの時間は『深夜音楽』という番組タイトルになっているが、毎日同じクラシック音楽(J.S.バッハ作曲 『ブランデンブルク協奏曲』第4 - 6番)と途中2回(同曲第5・6番の冒頭後直ぐ)IDが読まれるだけである。この処置に伴い、以前同時間帯でTBSラジオからネットしていた『JUNK ZERO』と『MIXUP』の2番組が打ち切りとなる。同日時点で信越放送(SBC)でも同じ処置が採られていた(SBCのそれはフィラー音楽がなく、停波を伴う休止枠だった)が、2009年秋よりネット受けを再開。現在は全国で唯一ネット受けをしていない。なお、2013年度(同4月6日深夜=4月7日から)は、土曜深夜(日曜未明)の『深夜音楽』の時間が3時-5時に拡大されるため、日曜日付けの実質的な放送は5時開始となる。
- ^ 自前でのローカルテレビ中継でのハイビジョン化は、県内民放では最も遅かった。いずれも報道等の簡易中継用である。
- ^ 但し、スポーツ等の大規模な中継番組は、引き続き自前のSD画質の大型中継車を使って行っている。
- ^ 九州朝日放送株式会社(KBCグループホールディングス株式会社)と同日に移行予定であった。
- ^ 火災の翌々日、秋田放送からもお見舞いの社員2人が送信所を訪れトランク2つ分の各種電気工具コード等を持参し寄贈した。秋田放送技術部長の指示によるもので火災で何もかも亡くしたのだから工具なんかなくて困っているだろうと自社のストック品を提供してくれたため何もなくて困っていた技術系社員は感激したという。
- ^ リクエストランキングデータがTBSテレビ製作『ザ・ベストテン』のラジオ総合ベスト10のBSNのデータとして毎週提供されていた。(1978年-1985年頃まで)
- ^ 1985年頃より、『BSNサテライト・ヒットパレード』から『ザ・ベストテン』のラジオ総合ベスト10のBSNのデータとして毎週提供されていた。
- ^ 新潟本局からのみ放送(他の親局では非放送)。
- ^ a b 2019年3月25日放送回をもって放送を一時休止。2020年9月時点の 番組ページ では終了と記載。
- ^ 不定期ながら土曜 16:00 - 17:00の枠で再放送あり。
- ^ 『土曜ランチTV なじラテ。』の中の1コーナーを編集して再放送。
- ^ カメラマンが魅せた新潟の風景(深夜から早朝にかけてのフィラー番組(過去には「TBS NEWS」休止時または開始前の時間調整として放送)で、県内の四季の風景映像を放送している。ただし、新潟本社演奏所あるいは弥彦送信所において停波を伴う大規模工事を行う場合はこの限りではない。)なお、県内の民放4局での通常時での終夜放送を初めて行った局でもある(1994年よりお天気フィラーを実施。)
- ^ 土曜のみ時差ネット。
- ^ CBCテレビでは48分番組として放送されているが、当局では30分編集版が放送されている。
- ^ テレビドラマ版はテレビ新潟放送網で放送。
- ^ スポーツ中継等で短縮もしくは休止の場合あり。
- ^ 『ノブナガ』で放送された企画の一つである『地名しりとり』コーナーを再編集した番組。
- ^ アニメ版はNST新潟総合テレビで放送。
- ^ レギュラー放送第2期はテレビ新潟で放送。
- ^ 『ウルトラマン クロニクルZ ヒーローズオデッセイ』以前は県内未放送。
- ^ スポンサーのJRAの都合で、日曜日の競馬中継を1999年12月まで放送していた。
- ^ 1981年3月までNNSに加盟していたNST新潟総合テレビは当大会の中継には不参加。(他にNNSに加盟しながら当大会の中継に参加しなかった局はKTSである。)
- ^ NST新潟総合テレビの競馬中継が7月の『FNSの日』や10月第2日曜の『F1日本グランプリ』等で放送休止された時に放送。
- ^ 『ラブライブ!スーパースター!!』はNHKEテレ・新潟で放送。
- ^ 1970年代半ばには既に設置されていた。同カメラは1985年に完成された現在の新潟県庁舎(新潟市中央区新光町)の工事状況の映像をこまめに保存しており、その模様は、2008年12月23日の「発見! 発掘! 新潟とテレビの50年」にて放送された。2005年10月には既にハイビジョン化されており、サイマル試験放送前のデジタルテレビ放送の試験電波でも、このカメラで撮った生の映像がハイビジョンで放送されていたことがある。
- ^ BS日本(BS日テレ。日本テレビ系BS放送局)もこの影響でドメインが「bs-n.co.jp」となっており、新潟放送や該当の他社と紛らわしくなっていた(2008年にBSデジタルリモコンキーID「4」を意味する「BS4」を略称としたことで「bs4.jp」に変更)。
出典
- ^ a b c 株式会社新潟放送 定款 第1章第1条2項
- ^ a b c d e f g h i “BSN新潟放送|会社概要”. 新潟放送. 2023年6月10日閲覧。
- ^ a b c d e f 日本民間放送連盟『日本民間放送年鑑2023』コーケン出版、2023年11月30日、333頁。
- ^ 株式会社新潟放送 定款 第7章第42条
- ^ a b c 株式会社新潟放送 定款 第1章第1条
- ^ a b c 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、565頁。
- ^ a b c 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、564頁。
- ^ a b 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、563頁。
- ^ a b c d e f 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、562頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、560頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、56、559頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、558~9頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、556頁。
- ^ a b c 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、553頁。
- ^ a b 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、552頁。
- ^ 新潟日報2017年12月4日付テレビ欄の下部広告(P.28)に記載。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、551頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、550~1頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送15年のあゆみ』新潟放送、1967年10月15日、622頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、550頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、549頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、547頁。
- ^ a b c d e 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、543頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、542頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、541頁。
- ^ a b 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、540頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、540頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、535頁。
- ^ a b 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、76、534頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、533頁。
- ^ a b c 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、528頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送15年のあゆみ』新潟放送、1967年10月15日、452頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送15年のあゆみ』新潟放送、1967年10月15日、608頁。
- ^ a b c 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、527頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、526頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、525頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、524頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、523頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、522頁。
- ^ a b 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、521頁。
- ^ 新潟日報の同日付の新聞の番組欄に記載。同新聞の2017年12月4日付テレビ欄の下部広告(P.28)にも記載されている。
- ^ a b c >新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、519頁。
- ^ 新潟日報 1964年10月3日朝刊 P.8 テレビ欄(新潟日報マイクロフィルム版にて閲覧)
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、517頁。
- ^ a b 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、516頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、515頁。
- ^ 新潟放送社史編纂委員会 編集『新潟放送十五年のあゆみ』新潟放送、1967年、416頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、512頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、509頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、508頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、504頁。
- ^ 『新潟放送十五年のあゆみ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、502頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、500頁。
- ^ a b 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、498頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、496~7頁。
- ^ a b 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、495頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、491頁。
- ^ a b 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、489頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、488頁。
- ^ a b c 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、487頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、486頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、485頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、484頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、482頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、481頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、476頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、472頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、470頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、468頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、467頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、466頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、465頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、463頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、459頁。
- ^ a b 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、458頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、455頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、453頁。
- ^ 新潟日報 2017年12月4日付朝刊 P.28 テレビ欄の下部広告に記載。放送時間は、平日の18時から30分間。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、451頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、146、448頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、447頁。
- ^ a b 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、444頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、443頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、441頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、438頁。
- ^ a b 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、434頁。
- ^ 新潟日報 1980年11月29日朝刊 P.24 テレビ欄 及び P.5 BSN新潟放送広告「BSNテレビで、きょう開始 音声多重放送」(新潟日報マイクロフィルム版にて閲覧)
- ^ a b 新潟日報 1980年11月29日朝刊 P.5 BSN新潟放送広告「BSNテレビで、きょう開始 音声多重放送」(新潟日報マイクロフィルム版にて閲覧)
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、430頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、427頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、426頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、424頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、423頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、413頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、402頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、395頁。
- ^ 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、394頁。
- ^ a b c d 新潟放送『新潟放送40年のあゆみ』新潟放送、1992年10月15日、378頁。
- ^ 導入された際の模様がKowaのウェブサイトに掲載されている [1]。
- ^ 総務省信越総合通信局報道資料 平成18年3月23日付
- ^ 株式会社新潟放送の災害対策用FM補完中継局に予備免許(報道資料2015年7月15日)(総務省信越総合通信局)
- ^ BSNにFM補完中継局の予備免許交付 - BSN会社情報(2015年7月15日)
- ^ 株式会社新潟放送の災害対策用FM補完中継局に免許を付与(報道資料2015年10月20日)(総務省信越総合通信局)
- ^ a b c BSNラジオ FM補完放送について
- ^ a b 池上通信機ニューストピックス2022年8月24日付「株式会社新潟放送様から、ニュースサブシステム、テレビサブシステムをあわせて受注」(2023年3月11日閲覧)
- ^ [2]
- ^ 新潟放送(BSN)、持株会社移行を6月1日に変更,新潟日報デジタルプラス,2023年3月19日
- ^ a b c Press Release 『「長岡AMラジオ送信所」・「柏崎AMラジオ送信所」の 運用休止につきまして』(BSN新潟放送サイト 2023年11月1日付)(2023年11月7日閲覧)
- ^ 本田賢一、三浦馨、石田征広 (2024年1月27日). “ラジオ離れとコスト増で民放ラジオのFM転換進む 東日本3局が一部AM送信所を休止”. 産経新聞. 2024年1月27日閲覧。
- ^ 『新潟放送十五年のあゆみ』(1967年10月15日、新潟放送社史編纂委員会発行)p125
- ^ 『新潟放送四十年のあゆみ』(1992年10月15日、新潟放送発行)87pより。なおウィキペディアの記述では最大震度が5
- ^ 東京ポッド許可局(TBSラジオ)ネット開始のため。
- ^ a b c BSN放送エリア -BSN新潟放送
- ^ 新潟放送新潟放送局・無線局免許状 - 総務省
- ^ “BSN高田FM94.8MHz 開局!(予定) - BSN新潟放送|ラジオ”. 2020年11月30日閲覧。
- ^ a b ◆予備施設・バックアップ施設を確保している例 - 内閣官房
- ^ BSN新潟放送公式チャンネル (5 November 2022). ハレッタのうた「雨のち晴れBoy」. YouTube. 2024年4月20日閲覧。
- ^ 第4回火曜会・ラジオスピリッツ受賞作品
- ^ 新潟放送弥彦山テレビ送信所・無線局免許状 - 総務省
- ^ 新潟放送四十年史編纂委員会編『新潟放送四十年のあゆみ』、1992年10月、420頁
- ^ 『ザテレビジョン長野・新潟版』1994年3月30日、12月21日、1995年1月11日、18日発売分掲載の番組表
- ^ 北國新聞縮刷版 1974年9月および10月分より。
- ^ 『戦国鍋TV 〜なんとなく歴史が学べる映像〜』は新潟テレビ21で放送。
- ^ 2024年3月5日付け新潟日報の新潟放送人事異動記事に掲載。
- ^ a b 2013年1月(日付は不明)の新潟日報の新潟放送の人事異動記事に明記されている。
- ^ 大倉修吾さん急死 ラジオで追悼コーナー特設「天国でゆっくりして…」 - スポニチアネックス、2016年7月23日配信、2016年10月26日閲覧
- ^ 2016年10月29日放送のNHK Eテレ『全日本ソフトテニス選手権』の実況担当者として記載あり(週刊ザテレビジョン北海道・青森版2016年11月4日号 p45及び週刊TVガイド北海道版2016年11月4日号 p53で確認、いずれも2016年10月26日閲覧)
- ^ NHKウィークリーステラ1998年ウィークリーステラ全国アナウンサーキャスター名鑑6月12日号 全国アナウンサー/キャスター名鑑
- ^ http://texfarm.com/works/entry-199.html TEX FORM INC,ホームページ
- ^ 松本 [@matsushin1978] (2021年8月26日). "BSN新潟放送のキャラ、熊っぽいほうが「タネマキスキー」、植木鉢のほうが「はぐっくま」なの、見た目の印象とキャラの名前が逆じゃないですか…?". X(旧Twitter)より2022年12月15日閲覧。
固有名詞の分類
- 新潟放送のページへのリンク