私は貝になりたい
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『私は貝になりたい』(わたしはかいになりたい)は、ラジオ東京テレビ(KRT→TBS)の「サンヨーテレビ劇場」で1958年10月31日22時 - 23時40分に放送された日本のテレビドラマ。元陸軍中尉・加藤哲太郎の獄中手記「狂える戦犯死刑囚」の遺書部分をもとに創作された橋本忍脚本によるフィクションで、第二次世界大戦中に上官の命令で捕虜を刺殺した理髪店主が戦後B級戦犯として逮捕され処刑されるまでを描く。岡本愛彦演出、フランキー堺主演。第13回文部省芸術祭芸術祭賞[注 1](放送部門)受賞作[注 2]。
注釈
- ^ 2015年現在の大賞。
- ^ 岡本と橋本の2人は、翌1959年に同枠で放送された「いろはにほへと」でも同賞を受賞しており、2年連続で芸術祭賞を受賞することとなった。
- ^ 現在は経営統合してパナソニックホールディングス。
- ^ a b ファーネスは元米陸軍人で、実際に極東国際軍事裁判で重光葵の弁護人になった経験を持つ。
- ^ 川崎隆章著「まぼろしの大阪テレビ - 1000日の空中博覧会 - 」によると、大阪テレビ放送が録画し、同局の東京支社で保管していたVTRを使用して再放送されたという。
- ^ 2014年8月の終戦記念日前後には、2008年版とあわせて放送された。
- ^ 当初は志村郁夫名義で発表したもの。2012年現在は加藤の文集『私は貝になりたい』に収録され再刊、春秋社ISBN 4-393-44161-3
- ^ この裁判で加藤は自分の文章のほかにも、山口水青・竹谷しげる著「壁厚き部屋」(理論社、復刻版は鷺草発行所)や、巣鴨遺書編纂会編「世紀の遺書」(巣鴨遺書編纂会刊行事務所、復刻版は講談社)からの剽窃もあったと主張している。しかし、これらの著者で著作権を主張して名乗り出た者はなく(特に「世紀の遺書」は文字通り処刑された戦犯の遺書である)、版権にも影響していない。なおこの加藤の主張を考慮してか、1994年のドラマ版ではこれらの書籍が制作参考資料としてクレジットされている。
- ^ 「狂える戦犯死刑囚」冒頭に、「以下は、かつて戦犯であった一市民の綴り方である。かならずしも事実に基づいてはいないが、全部がフィクションだと考えてもらってはこまる。このへんのことは、やがて時が解明してくれるだろう」と断り書きがある。また、後年の著作権裁判では、一度は死刑判決を受けた加藤が、執行逃れのために一時的に収容されていた精神病院(米軍361病院、同愛病院)で、同室していた者の言動からヒントを得たと述べている。
- ^ より正確には、いったん死刑判決を受けたが、減刑された二等兵はいる(林博史『BC級戦犯裁判』、岩波書店・岩波新書、2005年、ISBN 978-4004309529)。
- ^ 挨拶に黒澤明を訪ねると「橋本よ……これじゃ、何か大事なものが足りなくて、貝にはなれないんじゃないかな」「私もその通りだと思ったので一生懸命考えた。が、どうしても思いつかなかった」と橋本が振り返るという話が残っている(大庭牧子朝日新聞be“今なお足りない「何か」”2014年7月2日)。
- ^ 橋本忍の述懐によると、映画化に際して東宝の藤本真澄プロデューサーからは「主役はフランキーで動かないが、女房の役は新珠三千代。これだけは崩せないよ」と言われたという(1959年版映画DVD・封入リーフレットに掲載の「秋晴れの運動会」より)。
- ^ この「秋晴れの運動会」によると、「砂の器」や「八甲田山」の製作終了後、橋本プロダクション(1973年、橋本らが設立)で映画化が検討された企画の中に、「私は貝になりたい」のリメイクもあったという。
- ^ なお、SMAP解散後は2008年版は放送されず、2020年の終戦記念日に至っては1958年版のみの放送であった。
- ^ 本来の初監督作品だった『涙そうそう』は、急病で途中降板していた。
- ^ 橋本はいわゆる「黒澤組」のシナリオライターであり、「羅生門」、「七人の侍」などの脚本に参加している。
- ^ 19:00 - 21:30に「キリンチャレンジカップ2012」(日本×ベネズエラ戦)が編成されたため、通常より30分遅れの21:30開始となった。
- ^ 翌年の『第60回NHK紅白歌合戦』も続投。
出典
- ^ 講談社 編『TVグラフィティ : 1953年〜1970年ブラウン管のスター・ヒーロー・名場面1700』講談社、1978年4月3日、167頁。NDLJP:12275878/87。
- ^ 志賀信夫『テレビヒット番組のひみつ : 「ジェスチャー」から「おしん」まで』日本放送出版協会、1984年8月1日、55 - 57頁。NDLJP:12275392/31。
- ^ 引田惣弥「全記録 テレビ視聴率50年戦争-そのとき一億人が感動した」講談社、2004年、37頁。ISBN 4062122227
- ^ a b c d 2002年1月発行「TBS50年史」
- ^ NHKクロニクル「テレビ放送開始30周年記念番組 ドキュメンタリー ブラウン管の一万日 - テレビは何を映してきたか - 」 - NHKアーカイブス
- ^ 2009年度興収10億円以上番組(日本映画製作者連盟 2010年1月発表)
- ^ 2008年11月6日深夜(11月7日午前)放送のTBS『エンタの味方!』より
- ^ 1994年10月11日付『朝日新聞』(東京本社管内)夕刊19面の記事などより
- ^ 本年度『紅白歌合戦』司会に中居正広&仲間由紀恵が正式決定,ORICON NEWS,2008年11月24日
- ^ 『スポーツニッポン』2008年11月25日
- ^ 合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』
- ^ 飯塚浩二編集『あれから七年―学徒戦犯の獄中からの手紙』ASIN B000JBBGZS
- ^ 1956年10月31日公開、松竹映画
- ^ 椎野八束編集『別冊歴史読本特別増刊 未公開史料 戦争裁判処刑者一千 勝者は敗者をいかに裁いたか』
- ^ 茶園義男編集 ISBN 9784820556565
- 1 私は貝になりたいとは
- 2 私は貝になりたいの概要
- 3 スタッフ
- 4 裁判
- 5 脚注
私は貝になりたい
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1952年、サンフランシスコ平和条約が公布されて以降、巣鴨プリズンでは進駐軍の警戒がゆるむようになった(翌年正式に日本に返還され、東京拘置所と改称)。これに乗じて、哲太郎は岩波書店の「世界」に密かに投稿し、同誌10月号に「私達は再軍備の引換え切符ではない」が「一戦犯者」名義で掲載された。哲太郎は、吉田茂内閣が再軍備や憲法改正への不満をそらすため、戦犯釈放と抱き合わせにしようとしていると批判した。この内容に笹川良一らが怒り、筆者の犯人捜しを行った。しかし岩波書店は筆者を漏らさず、また服役中の戦犯に哲太郎の投稿への支持者も多かったため、やがて沙汰やみとなった。当時の戦犯は、再軍備派と護憲派に割れていた(内海愛子は後者を「平和グループ」と呼んでいる)。後者に属した飯田進の回想によると、笹川の「これはあなたたち戦犯者の釈放運動に水をさすものだ」という意見が伝えられると、「中身がわからなくちゃ、その善悪の決めようが無いじゃないか」と意見する者がいたため、巣鴨プリズン全棟で「私達は再軍備の引換え切符ではない」が読み上げられ、内容の可否を問うことになった。その結果、「多少えげつない表現はあるが、論理的には筋が通っている。あながち間違ったことを書いてはいない。笹川も案外ケツの穴が小さいな」ということで一件落着したという。 1953年2月、『あれから七年――学徒戦犯の獄中からの手紙』(飯塚浩二編、光文社)に「志村郁夫」「戸塚良夫」名義で寄稿した。当時、哲太郎は服役中であり、寄稿者はいずれもペンネームだった。志村郁夫名義で書いた『狂える戦犯死刑囚』では、後に放映されるドラマ『私は貝になりたい』の原作となる遺書が書かれていた。これは、自分の経験や、また一時収容されていた精神病院(精神病と診断されれば、死刑は執行されなかった)に一緒に入院していた人物の言動を元に、赤木曹長という架空の人物に仮託したものである。赤木は俘虜虐待の罪で処刑されたという設定であり、これは哲太郎がそうなり得た存在だった。 1958年4月、残りの刑を免除され哲太郎は出所。同年10月31日、12月21日の二度にわたり、ラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)にてドラマ『私は貝になりたい』が放映された。この作品中で主人公が書いた遺書の内容が(一部変えられていたものの)『狂える戦犯死刑囚』のものと酷似していたが、哲太郎の元には何の連絡もなかった。哲太郎は同ドラマの脚本を執筆した橋本忍に、自分の原作権を認め、今後の再放送や映画化に際しては、光文社刊『あれから七年』を原作としてクレジットに入れるよう要求した。しかし橋本は「週刊朝日」に引用された件の遺書を利用したもので、ニュースを材料として自分が創作したものだとこれを拒否。さらに「このまゝ沈黙して呉れるなら十万円を出します。それは私のポケットマネーであって原作料ではない」と発言した。哲太郎は、橋本のこの言動を、自分を強請たかりの類いと侮辱したものと感じた。 1959年1月23日、志村郁夫は自分であると名乗り出て、社団法人日本著作権協議会仲裁委員会を通じ、橋本とラジオ東京テレビは著作権法違反であると申立て、さらに版権を主張した。ただ、「週刊朝日」については、実際の遺書と勘違いしていたと落ち度を認めたため、それ以上の追及はしなかった。その結果、まず東宝との間に、以下のタイトルを入れることで映画化の契約を結んだ。 原作 物語、構成 橋本忍 題名、遺書 加藤哲太郎 一方、橋本とラジオ東京テレビは最初はこの条件を受け入れなかったが、東宝が哲太郎と契約を結んだことで、橋本は著作権協議会に同じ条件の仲裁を受諾するという受諾書を提出した。また、この頃哲太郎は結核を患っており、心身の疲労もあって仲裁斡旋の取り下げも考え始めていた。ところが、12月26日にラジオ東京テレビはクレジットの修正をせずまたも再放送を行ったので、ついに哲太郎は橋本と@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ラジオ東京テレビへの刑事告訴状[要検証 – ノート]を東京地検に提出したが、地検は取り上げなかった。 1960年11月、東京放送(ラジオ東京テレビより改称)と和解し、東宝との契約に準じた申し合わせを行った。このため現在では上記のようにクレジットされるようになっている。この他、山口水青・竹谷しげる著『壁厚き部屋』(理論社、復刻版は鷺草発行所)、巣鴨遺書編纂会編『世紀の遺書』(巣鴨遺書編纂会刊行事務所、復刻版は講談社)からの剽窃もあったと哲太郎は主張した。しかし、剽窃があったとされる記事の筆者で名乗り出たものはなく(特に、『世紀の遺書』は文字通り処刑された戦犯の遺書であるため)、そのため契約には影響していない。 『私は貝になりたい』はその後ドラマ(1994年)と映画(2008年)で哲太郎没後に一度ずつリメイクされている。1994年のドラマリメイク版でもクレジットは踏襲され、2008年の映画リメイク版では、「遺書・原作・題名 加藤哲太郎」となり、出典となった『狂える戦犯死刑囚』も初めて明記された。
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「私は貝になりたい」の例文・使い方・用例・文例
- 私は貝になりたい。
固有名詞の分類
映画作品 | HEAVEN−6−BOX 哄笑の世界 私は貝になりたい 晩春 非情の男 |
TBSのスペシャルドラマ | 寺内貫太郎一家 南くんの恋人 私は貝になりたい 狩矢警部シリーズ 私ってへん? |
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