捕虜 捕虜の概要

捕虜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/16 15:10 UTC 版)

第一次世界大戦で捕虜となったオーストリア=ハンガリー兵(1915年)。両端にはロシア側警備兵も写っている、
バルジの戦いで捕虜となったアメリカ兵(1944年12月)

第二次世界大戦以前の日本においては、公式には俘虜(ふりょ)と呼ばれた[注釈 2][3]。ただし明治以降、「捕虜」という用語も散見されている。日清・日露戦争以降は「捕虜」の頻度も徐々に上がり、史料名でこそ「俘虜」の方が圧倒的に多かったが、本文中では「俘虜」「捕虜」は併用されていた(最初に「捕虜」が登場するの明治時代の史料は、海軍は明治6年、陸軍は明治7年)[4][5]

なお、古代中国においては、中国に攻め込んできた野蛮人(虜)を捕らえることを捕虜と称した(例:「捕虜将軍」)。

近代国際法確立前

古代エジプトの捕虜を描いた壁画(紀元前13世紀
捕虜を連れたモンゴル騎兵(14世紀

近代国際法が確立する前まで、かつては捕虜は捕らえた国が自由に処分しうるものであった。

捕虜は、それを勢力下に入れた勢力によって随意に扱いを受け、奴隷にされたり殺されたりした。一方、能力を認められた者は厚遇して迎え入れられることもあった。中世ヨーロッパでは相手国や領主に対し捕虜と引き換えに身代金を要求することがよく行われた。ただし李陵前漢の将軍)など敵方から名誉ある扱いを受ける例もあった。これは奴隷でも学のある者が重用されることがあったのと同様の現象と言える。

加えて、捕虜に対して安易に虐待や殺害を行うことは、敵兵に投降の選択を失わせ戦意を向上させてしまう恐れもあることから、その意味でも捕虜に対して相応の扱いをする例はあった。日本の鎌倉時代末期において、前述の事情から助命されるだろうと期待して、赤坂城の反幕府の兵士が幕府に降伏した所、予想に反して全員が殺害されてしまい、それがために同じく反幕府の千早城の兵が激怒し、かえって戦意が高まったという逸話がある。

また、乱戦の中や負傷時に意に反して敵方に捕縛されるケースなどはともかく、自らの意志により投降することは、すなわち敵方に仕えようとする意志表示とみなされた。そのため多くの社会において投降は利敵行為同様の犯罪とされた。

イスラーム

11世紀に活躍したシャーフィイー学派の法学者で、古典イスラーム国法学の祖とされるマーワルディーは、著書『統治の諸規則』(al-Aḥkām al-Sulṭāniyya wa-l-Wilāyāt al-Dīniyya)の「第12章 ファイとガニーマの分配について」においてムスリム軍によって捕虜となった異教徒の兵士の処遇について、法学者の意見が分かれていることを予め説明しており、主要法学派の名祖3人の見解を述べている[6][7][注釈 3]

『統治の諸規則』にみられる各法学派の見解

シャーフィイー学派の名祖シャーフィイーの説では、イマームまたはその代理としてジハードの指揮を任された人物は、異教徒の捕虜の処遇として、1)殺害、2)奴隷化、3)身代金の支払いもしくはムスリムの捕虜との交換による釈放、4)身代金なしで釈放の恩恵を与えるか、4つの選択肢を任意で行える、としている。もしこの時イスラームに改宗した場合、死罪は課せられず、他の3つの選択肢から選ばれる。

マーリク学派の名祖マーリク・イブン・アナスの説では、同じく捕虜の処遇として、1)殺害、2)奴隷化、3)身代金では無くムスリムの捕虜との交換、の3つの内から選ばねばならず、恩赦は認められない、としている。

ハナフィー学派の名祖アブー・ハニーファの説では、殺害するか奴隷にするか2つに1つのみである、といい恩赦も身代金との交換も認められない、としている。

シャーフィイー学派の法学者のマーワルディーは「しかしながら」として、恩赦と身代金に関する『クルアーン』の「それから後は、情けをかけて釈放してやるなり、身代金を取るなりして、戦いがその荷物をしっかり下ろしてしまうまで待つが良い」(第47章 5 [4]節)という文言を引用し、ムハンマドのハディース(言行録)をいくつか引用してマーリクとアブー・ハニーファの論を否定している。

マーワルディーが述べる戦争捕虜に対する4種類の扱い

マーワルディーが述べる戦争捕虜の処遇としては、預言者ムハンマドが624年バドルの戦いで身代金を受け取り、ついで味方の捕虜ひとりに対して敵の捕虜ふたりと交換した例を引く。また、改宗を拒んでいる捕虜については、イマームはシャーフィイーのあげた4つの選択肢のうちひとつを選んでも彼らの処遇について丁寧に調べて決定を再度熟慮することを促している。

  1. 捕虜のなかで「力があって害をなすことが甚だしいと分かった者、イスラームへの改宗の見込みが全くない者、その人物を殺害することが敵の人民を弱体化させることが分かった者」は、殺害すべきだが、それ以上の見せしめのを科すべきではない、とする。
  2. 「捕虜のなかで丈夫そうな者、働く能力のある者、裏切りや悪行などの点で安心できる者」はムスリムの助けとするため、奴隷とすべきであるという。
  3. 「イスラームに改宗の見込みがある者、自分の部族の人々によく慕われていて恩赦を与えれば本人がイスラームに改宗するか部族の人々をイスラームへの改宗に導けそうな人物」などは、恩赦を与えて釈放すべきであるとする。
  4. 財産を所有し、ムスリムにとって必要な物品を保有する捕虜の場合、身代金を徴収して釈放すべきであるという。このような裕福な捕虜が属す部族に、ムスリムの捕虜が捕らえられている場合、男女に拘わらず、身代金は受け取らずにその捕虜と引換えにムスリムの捕虜を取り戻すべきであるという。

イマームは最大限に慎重さをもって以上の4つの選択肢を選ぶべきである、とマーワルディーは述べる。しかし、「多神教徒の捕虜のなかでも、害をなすことが大きく、悪意が強い故に殺すことが認められた者でも、イマームは恩赦を与えて釈放することができる」と述べている。

婦女子の捕虜に対する取扱い

女性や子供の捕虜の場合、ムハンマドの慣行に従い死刑は免除される。また奴隷にされたときも母子が離されることはない。ただし、これはハナフィー学派の場合であり、シャーフィイー学派によれば、「啓典の民」以外の異教徒なら女子供であろうと殺してよいとしている[10]

また、女性の捕虜が兵士たちの「戦利品」として分配され、分配を受けた兵士はその女性を強姦して自分のものとする権利が与えられることもあった。これについてはスンナ派のハディース集『真正集』(ブハーリー著)に記述があり、そこでは預言者ムハンマド在世中のイエメンへの遠征の際アリーが他の兵士の取り分であった女性を横取りして強姦したため、自分の権利を侵害された兵士がムハンマドに直訴し、逆に諭されている[11]

また戦争捕虜となった女性のなかには奴隷化される人も少なくなかったが、その場合、男性の性的欲求を処理する「道具」(性的奴隷)となることもあり、イスラーム世界の上流階級のハレムの人員の供給源となった[12]

成人男性の民間人捕虜への取り扱い

現代の戦時国際法は、「実際に戦闘に従事した捕虜であっても、正当な理由があり、裁判などの正当な手続きを踏まなければ死刑に処してはならない」と定めている。しかし、イスラーム戦争法では、「戦闘にまったく従事していない民間人の捕虜であっても、健康な成人男性である場合は戦闘員の捕虜と同様に扱われ、裁判なしでも司令官の一存で死刑に処することが認められる」とされている。なお、司令官の側に処刑が義務付けられているわけではない。2004年のイラク日本人青年殺害事件で、人質となった日本人青年を殺害したイスラーム武装組織の行動もこの論理を踏まえたものとされ、イスラーム専門家である中田考は「イスラーム法上、殺害は合法である」と述べた[13]

南北戦争

南北戦争の初期においては相互の捕虜交換が完了するまで武器をとらぬ旨の宣誓を行えば捕虜は仮釈放され、書類上の捕虜交換後に再び軍務に復帰できた。しかし後に南軍における北軍側の黒人兵の惨殺事件の後、北軍は黒人捕虜の扱いを白人のそれと同等とするよう要求し、南軍と政府がそれを拒否したため捕虜交換制度は終焉を迎え、双方で捕虜収容所の建設が始まった。

保護

近代国際法が確立されるにつれ、捕虜は保護されるべきものであると考えられるようになった。そのため、1899年の陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(ハーグ陸戦条約)以降、各種条約によって明文を以て保護されるようになった。

それによって近代的軍隊においては、任務を果たすための努力を尽くした上で、万策尽きた際に捕虜になることは違法な行為ではないものとされる。 理念的には、封建的な軍制や傭兵の時代から、近代市民兵の時代へと移行し、個人の権利保護が重要になったからである。

それだけでなく、捕虜になることを全て違法とすることが、軍事的なデメリットをもたらすことも少なくない。

  1. 違法として禁じた所で、生命の危機において捕虜になることを全て阻止することは事実上不可能である。
  2. 捕虜になることを認めれば、戦略的価値を無くした戦線、形勢逆転の可能性の無くなった戦線をあえて見捨てるという選択肢が可能となり、純軍事的にもメリットが大きい。捕虜になることを認めない場合は、それが不可能になるため、戦略に影響しない僅かな兵を救出するために多くの装備や人員を割く必要が出てくる。仮にそれだけの犠牲を払っても、救出が成功する保証もない。
  3. 捕虜になることさえ認めずに見捨てることは、実質死を命ずると同義であって人道的非難を免れず、自軍兵の戦意を削ぐおそれがある。(三国志において、公孫瓚は敵中に取り残された配下を見殺しにした結果、兵は戦意を失い敗北したとされる)
  4. 帰国すれば捕虜になった罪で処罰が待っている捕虜たちは、敵国に取り入らざるを得なくなり、過剰な対敵協力を招く恐れがある(独ソ戦においてソ連は、赤軍将兵に対してドイツ軍に降伏して捕虜になることを禁じた国防人民委員令第270号ロシア語版英語版を発令したが、その結果捕虜になったソ連兵は祖国に帰っても反逆者として扱われることになったため、ドイツ軍の補助部隊である東方軍団ドイツ語版ロシア解放軍に身を投じるものが続出した。司令官アンドレイ・ウラソフもその一人)。

他方で、捕虜を受け入れる側も、捕虜を保護しないことにはデメリットがあり、捕虜を保護することが考えられるようになった。

  1. 捕虜を虐待・殺害したことが敵軍に発覚した場合、敗北が決定的になった場合であっても、敵兵は投降の選択を失う。その結果として戦闘が無意味に継続され、対処するために装備や人員を割かなければならず、無駄な損害が増大する。
  2. 捕虜になった自軍の兵に対しても、報復として虐待や殺害が行われる危険性が高まる。
  3. 国際的な人道上の問題となりかねず、関係者が後に戦争犯罪者として処罰されたり、中立国や同盟国まで含めた外交上の非難を呼ぶ恐れがある。
  4. 国内世論からも人道的非難を受け、戦争の円滑な遂行に支障を来たす可能性がある。(ベトナム戦争では、米軍の非人道的行為がアメリカ国内世論の反発を呼び、戦争継続に重大な影響を与えている)

もっとも、上記はあくまで万策尽きて戦闘継続ができなくなった際の問題であり、自ら進んで敵軍に向け逃げ去り捕虜になることは「奔敵」(敵前逃亡)とされ厳罰を受けることが通常である。また正当な事由でやむなく捕虜になった後も、軍機情報の供与といった積極的な対敵協力を行うことは軍法に反することが一般的である。

1949年8月12日のジュネーヴ条約4規程及び1977年の第一追加議定書によって、戦時における軍隊の傷病者、捕虜、民間人、外国人の身分、取扱いなどが定められている。第3条約「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」により、ハーグ陸戦条約の捕虜規定で保護される当事国の正規の軍隊構成員とその一部をなす民兵隊・義勇隊に加え、当該国の「その他の」民兵隊、義勇隊(組織的抵抗運動を含む)の構成員で、一定の条件(a, 指揮者の存在、b, 特殊標章の装着、c, 公然たる武器の携行、d, 戦争の法規の遵守)を満たすものにも捕虜資格を認めた。

1977年の第一追加議定書ではさらに民族解放戦争等のゲリラ戦を考慮し資格の拡大をはかった。旧来の正規兵、不正規兵(条件付捕虜資格者)の区別を排除し、責任ある指揮者の下にある「すべての組織された軍隊、集団および団体」を一律に紛争当事国の軍隊とし、かつこの構成員として敵対行為に参加する者で、その者が敵の権力内に陥ったときは捕虜となることを新たに定めたのである。

なおテロリスト等は国際法上交戦者とはされず、捕虜にはなり得ない。最近では軍隊とテロリスト等が交戦する非対称戦争が注目されている。むやみに捕縛者を犯罪者扱いすれば国内外からの非難を浴びかねないこともあり人道的見地から捕虜に準じた扱いをとるケースが増えている。

交戦者資格を持たない文民は第4条約で保護されているが、積極的に戦闘行為を行い捕縛・拘束された場合は、捕虜ではなく通常の刑法犯として扱われるのが原則である。 裁判は現地部隊で行われる略式裁判(特別軍事法廷)も含まれ、しばしばその場で処刑される。

第3条約は、捕虜の抑留は原則として「捕虜収容所」(俘虜収容所)において行うことを予定している。

ジュネーヴ条約は次の4つの条約および二つの追加議定書から構成されている。

第1条約
「戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。
第2条約
「海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。
第3条約
「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。
第4条約
「戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」。
第1追加議定書
「1949年8月12日のジュネーヴ諸条約の国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(議定書I)」
第2追加議定書
「1949年8月12日のジュネーヴ諸条約の非国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(議定書II)」

捕虜の義務

捕虜は、尋問を受けた場合には、自らの氏名、階級、生年月日及び識別番号等を答えなければならない(第三条約第17条第1項)。原則としてこれ以外の自軍や自己に関する情報を伝える義務は無い。

捕虜は、抑留国の軍隊に適用される法律、規則及び命令に服さなければならない。抑留国は、その法律、規則及び命令に対する捕虜の違反行為について司法上又は懲戒上の措置を執ることができる(第三条約第82条)。

将校及びそれに相当する者の収容所又は混合収容所では、捕虜中の先任将校がその収容所の捕虜代表となる(第三条約第79条第2項)。将校が収容されている場所を除くすべての場所においては、捕虜の互選で選ばれた者が捕虜代表者となる(同条第1項)。捕虜代表は、捕虜の肉体的、精神的及び知的福祉のために貢献しなければならない(第三条約第80条第1項)。

将校を除く捕虜は、抑留国のすべての将校に対し、敬礼をし、及び自国の軍隊で適用する規則に定める敬意の表示をしなければならない(第三条約第39条第2項)。捕虜たる将校は、抑留国の上級の将校に対してのみ敬礼するものとする。ただし、収容所長に対しては、その階級のいかんを問わず、敬礼をしなければならない(同条第3項)。

捕虜の処遇と虐待

近代の国際法では、捕虜に対して危害を加えることは戦争犯罪とされるに至った。1899年のハーグ陸戦条約では、「俘虜は人道をもって取り扱うこと」(第4条)とされ、日露戦争、第一次世界大戦で日本側は捕虜の処遇は人道的見地がかなり配慮されていた。ハーグ陸戦条約で認められた労働(賃金労働)も日露戦争ではほとんどなされなかった[14]

しかし、その後は捕虜を虐殺する事件も決して少なくなかった。捕虜を保護し、それを知らしめることにより早期の降伏を促すことのメリットは上記で述べた通りであるが、現実には捕虜を適正に扱うにも食糧や医薬品の提供などの負担が必要であり、補給の途絶や不足が生じた場合にはその余裕がなくなる。よって捕虜の虐待は、そういった余裕の無い場合に頻発した。

第二次次世界大戦中の枢軸国側の捕虜虐待は、戦後に連合国によって戦争犯罪として裁かれ、なかには充分な審理を受けられないまま処刑された例も少なくない。それに対して、連合国側の行った捕虜虐待の大半は全く責任を問われないまま終わってしまった(ドイツ人への報復など)。更には、ソ連によるポーランド軍将校の大量虐殺を枢軸国側の捕虜殺害に転嫁した例すら存在した(カティンの森事件)。 西部戦線では、マルメディ虐殺事件などが知られている。

また捕虜には、ジュネーヴ諸条約の規定を越える情報を提供する義務は無いため、必要な情報を得るために拷問などの虐待が行われるケースがある。近年ではイラク戦争において、アメリカ軍による捕虜虐待事件(アブグレイブ刑務所における捕虜虐待)が起きている。

また、国際的な戦争においては、捕虜と管理する敵国の将兵の間に文化の違いがあるケースがあり、これにより将兵に虐待の意図がなくとも、捕虜にとっては虐待をされたと解されてしまうケースも考えられる。有名な逸話としては、第二次世界大戦中、日本の捕虜収容所で捕虜にゴボウを食べさせた結果「木の根を食べさせた」として捕虜虐待として処罰されたとする事例がある。真偽には疑問がもたれているが、NHK大河ドラマ山河燃ゆ』でも紹介された有名な話であり、捕虜の管理における一つのリスク要因を示している。また捕虜に医療行為としてを行ったことが虐待とされ、笹川良一は誤解を解くために奔走したと自著に記している。またイギリス軍では、ドイツ軍の捕虜の健康のために食事メニューにマーマイトを支給したが、これがあえて粗末な食事を供する虐待と誤解されたという逸話もある。


注釈

  1. ^ 捕虜の定義は、1907年のハーグ陸戦条約附属規則では第1条〜第3条、1929年の俘虜の待遇に関する条約では第1条、1949年のジュネーヴ第3条約では第4条にある。
  2. ^ 例:ハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)では、prisonniers de guerre(フランス語)の訳語に「俘虜」[2]を用いている。
  3. ^ マーワルディーによると、多神教徒から来る財として戦利品であるファイロシア語版(fay‘)[8]ガニーマアラビア語版(ghanīma)[9]について述べている。ファイはウマイヤ朝カリフウマル2世によってムスリム全体のために保有される征服地の土地として分配不可能な不動産を指し、ガニーマは分配可能な動産を指す。マーワルディーは、うち、ガニーマの種類として、戦争捕虜、敵方の婦女子の捕虜、不動産および動産の4つを上げている。
  4. ^ 姫路収容所については、公式史料には現れていない施設が近年新たに見つかっている。[1]

参照

  1. ^ 1949年のジュネーヴ第3条約 第4条A(1)
  2. ^ 俘虜』 - コトバンク
  3. ^ ただし日露戦争期から「捕虜」という用語が軍史料で使われることもあり、俘虜と捕虜の比率は変化している。
  4. ^ 甲5套大日記 裁判所伺 水夫末松善藏外1名処分の件”. www.jacar.archives.go.jp. 2022年8月31日閲覧。
  5. ^ 石川1等軍医正 賊の捕虜になった者の殺害に関する通知の通報”. www.jacar.archives.go.jp. 2022年8月31日閲覧。
  6. ^ マーワルディー『統治の諸規則』(2006)pp.312-
  7. ^ 『イスラム世界』27・28号, 社団法人日本イスラム協会, 1287.3. p.43-66.
  8. ^ ファイ』 - コトバンク
  9. ^ ガニーマ』 - コトバンク
  10. ^ マーワルディー『統治の諸規則』(2006)pp.324-325
  11. ^ ブハーリー『真正集』遠征の書、第61章2節。
  12. ^ アハメド(2000)pp.123-125
  13. ^ 東京新聞』特報2004年11月1日付
  14. ^ a b c d 才神時雄 『松山収容所』中央公論社、1969年。 
  15. ^ 「陸軍大臣ヨリ 松山及丸亀二俘虜収容所設置ノ旨通知」(明治37年2月12日)『俘虜ニ関スル書類綴』大本営陸軍副官部、防衛研究所所蔵。
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  18. ^ 宮脇昇 (2012). “日露戦争の捕虜収容所をめぐる競合規範の間隙」”. 『政策科学』 19巻4号. 
  19. ^ 例えば、喜多義人「日本はロシア捕虜をいかに扱ったか--捕虜収容所の生活と待遇」『正論』(通号 391) (臨増) [2004.12] ,pp.282~293は、厚遇論である。
  20. ^ Kupchinskīĭ, F. P. (Shōwa 63 [1988]). Matsuyama Horyo Shūyōjo nikki : Roshia shōkō no mita Meiji Nihon. Tōkyō: Chūō Kōronsha. ISBN 4-12-001686-2. OCLC 20252101. https://www.worldcat.org/oclc/20252101 
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  34. ^ [2] 捕虜は1904年9-10月に松山に収容された後、1905年に善通寺収容所に転送された。善通寺収容所で撮影された写真が後世に残っている。徳島の写真家と元ロシア兵捕虜のひ孫 100年の時経て交流 県内収容時の写真が縁 | BUSINESS LIVE (shikoku-np.co.jp)
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