南蛮
「南蛮」とは、もともとは東南アジアの地域や諸国を指した表現であり、転じて、東南アジアを経由して伝来した品物や、渡来した西欧人を指す意味でも用いられた表現である。
もともと「南蛮」は、古代中国の王朝が東南アジアの異民族に対して「南方の蛮族」という意味を込めて用いた蔑称である。中華王朝の外にいた異民族は方角ごとに「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ばれ、総称して「四夷(しい)」とも呼ばれた。中国における「南蛮」の考え方は日本にも伝来し、日本でも東南アジア地域を「南蛮」と呼ぶようになった。ただし「野蛮」というような蔑称の意味合いは次第に薄れ、むしろ、物珍しい異国のものというポジティブな意味合いを中心とする表現になった。
16世紀(室町時代末期)以降、東南アジアに植民地を持っていたスペインやポルトガルの船が日本との交易を求めて来航するようになった。こうした船は「南蛮船」と呼ばれ、スペイン人やポルトガル人は「南蛮人」と呼ばれた。そうして始められた交易は「南蛮貿易」と呼ばれた。この頃伝わった料理は「南蛮料理」と呼ばれた。東南アジア産の文物や、東南アジアを経由して伝わった西欧の文物は、「南蛮渡来の品」と呼ばれた。
「南蛮漬け」とは
「南蛮漬け」とは、アジやサケなどの魚や肉を油で揚げ、それをネギなどの香味野菜や唐辛子の入った甘酢タレ(南蛮酢)に漬けた料理のことである。さっぱりとした味わいが特徴で、食欲をそそる。数時間かけてじっくりと味を染み込ませるとさらに美味くなる。「南蛮酢」とは
「南蛮酢」とは、主に「南蛮漬け」に用いられる甘酸っぱい合わせ酢のことである。出汁に砂糖、酢、唐辛子やネギなどが合わせられている。南蛮漬けのタレ以外にも、チキン南蛮、あるいは甘酸っぱい風味を活かしてカニ玉や天津飯に使っても美味い。「南蛮味噌」とは
「南蛮味噌」とは、青唐辛子を味噌、みりん、酒、砂糖などと一緒に炒め煮したものである。東北地方を中心に古くから食べられてきた。炊き立てのごはんと一緒に食べたり、レタスや胡瓜などの生野菜に付けたりと色々な料理に使える万能調味料である。「南蛮」を含むその他の用語の解説
「南蛮貿易」とは
「南蛮貿易」とは、16世紀後半から17世紀にかけてポルトガルやスペインの貿易船と日本との間で行われた交易のことである。主に長崎や平戸を門戸として貿易が行われた。南蛮貿易において、日本は主に銀を輸出し、生糸・鉄砲、火薬、時計などを輸入していた。「南蛮料理」とは
「南蛮料理」とは、16世紀後半以降にポルトガル人やスペイン人とともに伝来した料理の総称である。油で調理したり、ネギや唐辛子を香味野菜として活用したり、といった調理法は、当時の日本にとっては珍しかった。「チキン南蛮」とは
「チキン南蛮」とは、鶏のから揚げを南蛮酢に浸した料理である。タルタルソースを上からかけて食べるのが定番。淡白な鶏肉に濃厚なタルタルソースがからんで美味い。「チキン南蛮」は、南蛮渡来の南蛮料理というわけではなく、昭和の頃に宮崎県で考案された料理である。
「南蛮エビ」とは
「南蛮エビ」は「甘エビ」の別名である。佐渡市、新潟市、糸魚川市が主な産地として知られている。甘くとろけるような味わいが特徴で美味い。なん‐ばん【南蛮】
読み方:なんばん
1 古代中国人が、インドシナをはじめとする南海の諸民族を卑しんで呼んだ語。南夷。→西戎(せいじゅう) →東夷(とうい) →北狄(ほくてき)
2 日本で室町末期から江戸時代にかけて、ベトナム・タイ・フィリピンなど、東南アジア方面をさしていった語。
3 東南アジアに植民地をもつポルトガル・スペインをいった語。→紅毛(こうもう)
4 名詞の上に付いて2・3から渡来したものであること、またそのように異国風であること、などの意を表す。「—絵」
5 歌舞伎・舞踊・操り人形などの演技で、右手と右足、左手と左足を一緒に前に出すしぐさ。なんば。なんば振り。
6 「南蛮煮」の略。また、ネギを入れて煮たうどんやそばをいい、具によって「鴨(かも)南蛮」「カレー南蛮」などがある。
7 「南蛮黍(きび)」の略。
8 「南蛮辛子(がらし)」の略。
南蛮
南蛮
南蛮(なんばん)
南蛮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/18 04:13 UTC 版)

南蛮(なんばん)あるいは蛮(ばん)は、四夷のひとつであり、中国大陸を制した朝廷が南方の帰順しない異民族に対して用いた蔑称である。
日本でも当初は同様の意味で用いられていたが、15世紀にヨーロッパ人との南蛮貿易が始まって以降は、主にヨーロッパや東南アジア・スペインやポルトガルの文物や人物を指す語となった。
中国
本来「蛮」とは、中原で都市文明を営んでいた漢民族が、服を着ておらず、採集を主とする南方の未開民族に対して用いた呼称であったが、やがて中華思想における四夷のひとつとなり、中国大陸を制した国が南西方面の帰順しない異民族に対する呼称となった。「蛮」という漢字は、部首に「虫」を用いて、人ではないことを示した悪字である。現在でも、「野蛮」「蛮族」「蛮行」などの熟語が、粗野であるという意味を込めて用いられている。
クビライによって南宋が滅ぼされると、漢人が逆に南蛮人と呼ばれるようになった[1]。
異民族支配の時期でも「南蛮」という蔑称の概念を継続したように、先進文明として相対する蔑称である。
後漢時代
「後漢書」の「列伝 南蛮・西南夷」の中で南蛮に該当するのは槃瓠神話で「槃瓠の子孫は栄え蛮夷と称した。今日の長沙・武陵蛮がこれ当たる。」と記述。南蛮地域は長江中下流域の楚・呉・越が該当する。今日のヤオ族・シェ族に始祖伝説として盤瓠神話が伝わる。南蛮の西には西南夷が暮らし該当するのは竹王伝説・哀牢伝説がそれで夜郎夷・哀牢夷という西南夷の一部族だと。夜郎夷は貴州省、哀牢夷は雲南省にそれぞれ存在していた事が伝わる。
三国時代
諸葛亮の南中平定(南蛮平定)について、『華陽国志』[2]や『三国志演義』で言及された南蛮は、雲南の彝族である。ただし、正史『三国志』の該当箇所には、南蛮という表現はない[3]。
元代
13世紀、元が南宋を征服して中国全土を支配すると、モンゴル人は遼や金の遺民である華北の住民を「漢人」、南宋の遺民である江南の住民を「南家」と呼び、キタイ人(遼・金の遺民)は南シナの住民を「蛮子」の蔑称で呼んだ。モンゴル人や色目人と比べて、漢人や南人は公職への登用が限定されていた。マルコ・ポーロの『東方見聞録』では、中国北部のことを「キタイ」、中国南部のことを「チーン」と呼んでいる。
日本

「南蛮」の語は『日本書紀』巻九にあるが、中国の華夷的地理観を受け継いだ観念的なものだった[4]。
時代が下り、16世紀半ばにはポルトガル人やイスパニア人を指して南蛮人と呼ぶようになった[4](ただしこれより前の1412年に若狭国小浜に漂着したインドネシアパレンバン付近の船も「南蛮船」と称されることがある[4])。1543年に種子島に中国船が漂着した際に船にはポルトガル人が便乗しており(鉄砲伝来)、『鉄炮記』によるとこの船に乗っていた五峰という明の人物が「西南蛮種之賈胡也」と村人に書き示したことが由来になっているという[4]。これらの諸国と日本との南蛮貿易が始まると、貿易によってもたらされた文物を「南蛮」「南蛮渡来」などと呼ぶようになった。
西洋人と日本人で礼儀作法が大きく異なっていたことで野蛮視されていたところもあり、土足であがったり唾を吐く行為、黒人奴隷を引き連れているといった点に加え、手づかみで食べる、肉食好き、椅子に座るといったことも奇異に思われていた。西洋人側も日本人を「ネグロ」と呼んでいた[5]。
南蛮料理
「南蛮」の語は、今日の日本語においても長ネギや唐辛子を使った料理にその名をとどめている。「南蛮料理」という表現は、16世紀にポルトガル人が鉄砲とともに種子島にやってきた頃から、様々な料理関係の書物や料亭のメニューに現れていた。それらに描かれる料理の意味は、キリスト教宣教師らにより南蛮の国ポルトガルから伝わった料理としての南蛮料理と[6][7]、後世にオランダの影響を受けた紅毛料理や、中華料理の影響、さらにはヨーロッパ人が船でたどったマカオやマラッカやインドの料理の影響までを含む、幅広い西洋料理の意味で使われてきた場合の両方がある[8]。
南蛮料理が現れる最も古い記録には、17世紀後期のものとみられる『南蛮料理書』がある[9][10]。また主に長崎に伝わるしっぽくと呼ばれる卓上で食べる家庭での接客料理にも南蛮料理は取り込まれていった[11]。
唐辛子は別名を「南蛮辛子」という。南蛮煮は肉や魚をネギや唐辛子と煮た料理である。南蛮漬けはマリネやエスカベッシュが原型と考えられている。カレー南蛮には唐辛子の入ったカレー粉とネギが使用されている。文政13年(1830年)に出版された古今の文献を引用して江戸の風俗習慣を考証した『嬉遊笑覧』には鴨南蛮が取り上げられており、「又葱(ねぎ)を入るゝを南蛮と云ひ、鴨を加へてかもなんばんと呼ぶ。昔より異風なるものを南蛮と云ふによれり」と記されている[12]。
「南蛮」を名称に含む料理
脚注
- ^ 島崎晋『中国人の考え方が2時間でわかる本』PHP研究所、2011年。ISBN 978-4569795980。
- ^ wikt:zh:華陽國志/卷四
- ^ wikt:zh:三國志/卷35
- ^ a b c d 中村質「「南蛮」から「紅毛」へ」『史学論叢』第20巻、別府大学史学研究会、1990年2月、21-36頁、CRID 1050001337844792576、ISSN 03868923、NAID 120002812553、2024年6月18日閲覧。
- ^ 坂西友秀「鎖国前後における日本人の西洋人観・黒人観の心理-歴史的背景」『埼玉大学紀要. 教育学部. 教育科学』第51巻第2号、埼玉大学教育学部、73-95頁、CRID 1390290699790984064、doi:10.24561/00017309、ISSN 0387-9321。
- ^ 『南蛮から来た食文化』, p. 5.
- ^ 『南蛮料理のルーツを求めて』, p. 8,59.
- ^ 『南蛮料理のルーツを求めて』.
- ^ 『南蛮から来た食文化』, p. 132.
- ^ 『南蛮料理のルーツを求めて』, p. 45.
- ^ 『南蛮料理のルーツを求めて』, p. 52以降.
- ^ 鴨南蛮 麺類雑学辞典
参考文献
- 江後迪子『南蛮から来た食文化』弦書房、2004年。ISBN 978-4902116250。国立国会図書館書誌ID:000007512972 。
- 片寄眞木子『南蛮料理のルーツを求めて』平凡社、1999年。ISBN 978-4582824292。国立国会図書館書誌ID:000002901554 。
関連項目
南蛮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 03:06 UTC 版)
ルイス・フロイス 南蛮人の宣教師、「十字軍」とは異なる南蛮であり総大将と目されている男。「フハハハハハハ!!」という高笑いが印象的。 「十字軍」に代わって杉谷善住坊に上杉輝虎暗殺を指示した他、将軍・足利義輝に「十字軍」の計画を事前に伝えていた。 その為足利義輝から「異国の友」と信頼されていたが、敵役の松永久秀とも通じており彼に永禄の変を起こさせた。その後あえて京を追放させてもらい、堺で布教活動に専念信長が上洛した際に二条城の修築現場で対面する。 永禄の変への関与を認める事で身の安全を確保(将軍の挿げ替えを行なったフロイスを斬ることは、織田が自らを否定する事になるので手が出せなかった)、織田諸将の結束を促す。 元亀元年(1570年)までには足利義昭を利用して朝倉を、詳細は明らかでないが浅井長政を味方に付けている。浅井・朝倉による挟撃による織田殲滅を画策した。
※この「南蛮」の解説は、「戦国八咫烏」の解説の一部です。
「南蛮」を含む「戦国八咫烏」の記事については、「戦国八咫烏」の概要を参照ください。
「南蛮」の例文・使い方・用例・文例
- 南蛮鉄
- 南蛮人がかぶる,中央が高く尖った縁つきの帽子
- 南蛮人の帽子に似せた当世兜の鉢
- 南蛮絵という,桃山時代に西洋から渡来した絵画
- 南蛮渡来の菓子
- 南蛮の船
- 南蛮漬けという,魚などを油で揚げ醤油などを混ぜた酢に漬けた料理
- 南蛮人の風俗を描いた屏風
- 南蛮文学という文学
- 南蛮渡来の物
- 南蛮焼きという陶器
- 南蛮人のやり方
- 南蛮流という,医術の流派
- 南蛮流という,砲術の流派
- 葱南蛮という,ゆでたそばやうどんに,油揚げと葱を入れてかけ汁をかけた料理
- 鴨南蛮という料理
- 南蛮煮という,ネギと肉を煮た料理
- 南蛮錐という,らせん形の木工ぎり
南蛮と同じ種類の言葉
- >> 「南蛮」を含む用語の索引
- 南蛮のページへのリンク