1990年代
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1990年代(せんきゅうひゃくきゅうじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1990年から1999年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた1990年代について記載する。
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- ^ ラリイ・ニーヴン『ノウンスペース・シリーズ 太陽系辺境空域』早川書房、1979年、63-76,86,148,363頁。ISBN 978-4-15-010348-4。
1990年代(死去まで)
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「フランク・ザッパ」の記事における「1990年代(死去まで)」の解説
1990年、ザッパは死因となった前立腺癌と診断された。癌は10年ほど前から進行しており、発見された時点ではほぼ手遅れの状態であった。共和党のロナルド・レーガンに強く反対していたザッパは、1980年代末から1990年代初頭にかけて大統領選挙への出馬を検討して会見まで行ったが、癌が発症して闘病生活を送らざるを得なかったため断念した。 1991年、1988年ツアーを収録したアルバム群の最後を飾る『メイク・ア・ジャズ・ノイズ』を発表。翌年には「You Can't Do That On Stage Anymore」シリーズ最終作である『Vol.6』、マザーズのライヴ・ドキュメンタリーアルバムである『プレイグラウンド・サイコティクス』、『アヘッド・オブ・ゼア・タイム』をリリースした。 1992年の、最晩年の活動であるアンサンブル・モデルンとの共演は殊に重要である。LSOやブーレーズとの共演でも決して満足しなかったザッパは、自分の音楽に情熱的に取り組むアンサンブル・モデルンの姿勢にいたく感銘を受け、自らに残された寿命を十分に認識しつつ、全精力をこのプロジェクトに傾けた。1992年9月のライブ録音は『イエロー・シャーク』として結実するが、同時にザッパの遺作となった。なお、主にリハーサル・テイクを収録した『Everything Is Healing Nicely』が死後の1999年、リリースされた。 1993年12月4日、前立腺癌のため52歳で死去。
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1990年代(平成2-平成11年)
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「在日ブラジル人」の記事における「1990年代(平成2-平成11年)」の解説
1990年(平成2年)、ブラジルの国債がデフォルトし、ハイパーインフレが起こった。一方、日本では1990年(平成2年)に出入国管理及び難民認定法が改正され、就業活動に制限のない定住者資格が創設されて日系3世に対して付与されるようになった。1990年(平成2年)の在日ブラジル人は5万6429人だったが1995年(平成7年)までに17万6440人に急増し、ニューカマーの一角を占めた。一方、刑法犯も1990年(平成2年)の70件(9位)・53人(9位)から1503件(3位)・318人(4位)に急増した。また生活習慣や言語の違いから、愛知県豊田市の保見団地では日本人住民との間で軋轢が生じた。また人口の増加と比べて国際結婚は比較的に少なく、1995年(平成7年)に日本人男性と結婚したブラジル人女性は579人、ブラジル人男性と結婚した日本人女性は162人だった。
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1990年代(スパイス・ガールズの時代)
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「ガール・グループ」の記事における「1990年代(スパイス・ガールズの時代)」の解説
スパイスガールズ1996年、ガール・グループのシーンをそれまで支配していた米国勢に代わって、女王国であってダイアナ元皇太子妃(没)が常に女性の注目を集める中であり、その一方で、女性首相を誕生させたとする英国にあって、スパイス・ガールズが英米両国で、「ワナビー」、「2 Become 1」、「Spice Up Your Life」など9枚のナンバー1シングルを出した。チケット完売のコンサート、ファッション広告、マーチャンダイズ、主演映画と、スパイス・ガールズは1960年代のビートルズ以来、最も商業的に成功したイギリスのグループとなった。彼女たちは、1990年代において最も売れたポップ・グループであり、現代の音楽の歴史において最も売れた女性グループのひとつである。 彼女たちの最初のアルバム『スパイス』は女性グループのアルバムとしては史上最大の売り上げを達成し、世界中で2300万枚とも、2800万枚ともいわれる売り上げを達成した。スパイス・ガールズは、総計で8000万枚以上のレコードを世界中で売った。『タイムズ』紙やBBCニュースの報道や、伝記作家デヴィッド・シンクレア (David Sinclair)は、彼女たちを史上最も成功したガール・グループだと述べている。 同時期の他のガールグループ同時期の他のガール・グループには、スパイス・ガールズとはスタイルが違うライバルとして売り出されたイギリス/カナダのオール・セインツ、アイルランドのビー・ウィッチドやエターナルなどがあり、いずれも1990年代に世界的な成功を収め、2人組のシャンプーは本国よりも日本でヒットした。また、スウェーデン/デンマーク勢からはスマイル.dkやミー・アンド・マイが日本で人気を得た。
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1990年代(メタリックハードコア)
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「メタルコア」の記事における「1990年代(メタリックハードコア)」の解説
1984年から1995年にかけて新しいタイプのハードコアバンドが現れた。代表的なバンドにはHogan's Heroes,、Merauder、オール・アウト・ウォー(英語版)、Integrity、バイオハザード、フーズ(英語版)、アース・クライシス、コンヴァージ、シャイ・ハルード、Starkweather、Judge、Strife、Rorschach、ヴィジョン・オブ・ディスオーダー(英語版)、ヘイトブリードなどがいる。 Hogan's Heroesは主にGovernment Issue、バッド・ブレインズ、ミスフィッツといったハードコアバンドや、NWOBHMの要素、Venomのようなバンドから影響を受けていた。IntegrityはG.I.S.M.、スレイヤー、Septic Death、Samhain、モーターヘッド、ジョイ・ディヴィジョンらから主に影響を受けた。Earth Crisis、Converge、Hatebreedらはハードコア・パンクやデスメタルの影響が大きい。Earth Crisisのアルバム『Destroy the Machines』はこのシーンにおいて特に重要な作品である。バイオハザード、コウアレス(英語版)、Overcastらも重要な役割を果たした。
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1990年代(第四世代)
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「スケートボード」の記事における「1990年代(第四世代)」の解説
ヒールフリップ・スライド・マニュアルなどのプレイスタイルを主体とし、文字どおり街頭の建造物を使用したストリートスタイルが発展する。デッキ裏面には時代の流行音楽を反映し、ハードコアパンクやオルタナティブロック、ヒップホップ調のグラフィックがあしらわれた。また、有名企業の商標をパロディしたものも流行した。 ボード デッキの寸法は(幅187.5×縦800mm (7.5"×32"))程に収斂されて行く。ボードを水平回転させるトリックが発達したため、どちらが前後になっても問題ないようにノーズとテールは同じ形になり、トリックの成功率を上げるためコンケーブも強めになる。トリックの多様化でボード全面を使う為、デッキ表側全面にテープが貼られる。ウィールの直径は50〜56mm。 逆にそういった主流からはずれ、サーファーやスノーボーダー向けに意図的なスライドやボードの傾斜を意識した特殊なボードも開発されてゆく(下記ギャラリー参照)。 ロングスケートボード(en:Longboard)。長さや形状は様々。 フローボード(en:Flowboard)。深いバンクが可能。 競技・環境 スケートボードの宣伝がさらに活発になり、ビデオマガジンが発売された。また、スケートボードやシューズのブランドがスポンサーとなり、プロスケートボーダー4〜6名のチームによる活動を始めた。
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1990年代 (Jenoptik)
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「イエナオプティック」の記事における「1990年代 (Jenoptik)」の解説
1990年9月 - ベルリンの壁崩壊後、東西ドイツが再度一つになり、VEB Carl Zeiss Jena も西側諸国への輸出で使用していたロゴ "Jenoptik" を入れた Jenoptik Carl Zeiss Jena に社名変更。 10月 - ドイツ再統一が正式に決定。 1991年6月 - Lothar Späth がCEOになる。 10月 - Jenoptik Carl Zeiss Jena の事業で、顕微鏡と一部の精密光学機器を(旧西ドイツの)Carl Zeiss に移管。残された事業(オプトエレクトロニクス、システム設計、精密機器)は、新たにJenoptik GmbHを設立しそちらへ移管。Jenoptik GmbH では10200人の雇用を確保。 12月 - 16000人を解雇。残りは待機となる。 1992年 - 翌年の1993年までの間に、市中心部にあった戦前のカール・ツァイス、戦後の旧東ドイツカール・ツァイスの本社工場はイェーナ南部 Jena-Göschwitz に移転。イエナオプティック本社ビル以外の跡地には、エルンスト・アッベ広場 (Ernst-Abbe-Platz) を囲むようにフリードリヒ・シラー大学イェーナ(法学部、学生食堂、他)、ショッピングセンター (Goethe-Galerie)、ホテル (Steigenberger Esplanade)、オフィスビルが入居する。 1994年 - 旧西ドイツの MEISSNER + WURST (現:M+W Group)を買収。その後2005年に売却。 1996年 - 有限会社 (GmbH) から株式会社 (AG) へ変更。日本においても、レーザ輸入商社・カンタムエレクトロニクス(現:カンタム・ウシカタ)経由で半導体レーザの販売 (現在の医療・産業機器事業) を始める。 1997年 - 旧西ドイツの ESW GmbH を買収。現在の防衛事業の大部分を占めることになる。 1998年 – フランクフルト証券取引所に上場。 1999年 - 旧西ドイツの Robot Foto und Electronic GmH を買収。現在の交通管理システム事業 (Traffic Solutions) の一部となる。
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「1990年代」の例文・使い方・用例・文例
- 1990年代の初頭に
- 1990年代後半の若者の間の流行
- 「地球に優しい」ということばは1990年代に使われるようになった
- 彼は1990年代の10年間で最もアルバムが売れたアーティストである。
- 1990年代、またそれ以降に影響力がある
- ファッション・デザイナーは、1990年代に女性の見た目を男性化した
- 韻を踏む歌詞が伴奏に歌われる、1980年代と1990年代のアフリカ系アメリカ人の音楽のジャンル
- 過激派パレスチナ人スンニ派グループで、1990年代前半にレバノンで活動し、サラーフィ主義を主張する
- 1990年代初頭にエクアドルで形成された小さいが暴力的なテロ組織
- 1980年代後半から1990年代前半にかけて,福島県と新潟県の3つの原子力発電所で点検が行われた時に,東京電力が,検査員によって発見された29件の損傷を隠した疑いがある。
- 1990年代の2件のサリンガス事件を含む13の犯罪で指示をしたとして起訴されている。
- 1990年代,「ミュージック・ボックス」や「デイドリーム」などの彼女のアルバムは世界中で1億1000万枚以上を売り上げた。
- 1990年代中頃(ごろ),企業が次々と携帯電話やPHSの事業に参入し,携帯電話とPHSの売り上げが急増した。
- クロアチアが紛争中だった1990年代には危機遺産リストに登録されていた。
- 向(むか)井(い)千(ち)秋(あき)さんは1990年代に2度宇宙任務に就いた。
- 1990年代初め,南アフリカ政府はついにアパルトヘイトを撤廃し,1994年にはマンデラ氏が同国初の黒人大統領になった。
- 1990年代,無償の義務教育が公立の小中学校で始まりました。
- 中山選手と三浦知(かず)良(よし)選手は1990年代に日本代表でとても活躍した。
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