韓国における渤海研究
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「渤海 (国)」の記事における「韓国における渤海研究」の解説
韓国の学界では大祚栄は高句麗人であるという認識で共通しているが、韓圭哲(慶星大学)は松花江地域の靺鞨のリーダーとみなし、宋基豪(ソウル大学、朝鮮語: 송기호、英語: Song Ki-ho)は高句麗に同化した靺鞨と合理的に解釈しており、いくつかの情況上大祚栄は靺鞨人であり、高句麗に入国後、乞乞仲象から大祚栄に至るプロセスを経て、高句麗化過程が進行したものであり、従って、大祚栄を靺鞨系高句麗人と解釈するのが妥当であり、このことが大祚栄が高句麗への帰属意識を有する素地となり、後に渤海を建国する基底となり、大祚栄はもともと粟末靺鞨人であり後に高句麗に編入された、純粋な靺鞨人ではなく、純粋な高句麗人でもなく、区別をつけがたい中性的存在であり、高句麗への帰属意識を有する靺鞨系高句麗人と述べている。また、宋基豪は以下の主張をしている。 ひとことで「渤海は高句麗的であった」というのが教科書をはじめ、われわれの歴史書における渤海史叙述の態度だ。渤海は高句麗遺民が建て、彼らが政権の枢軸をなし、渤海文化も高句麗文化を継承したというのである。今まで何気なく聞いてきたこの言葉をよく注意してみると、どこか異常だ。新羅や高麗の文化に言及するときは、その文化自体の特性を叙述するのに、渤海だけは高句麗的であるなどと、二百余年間、王朝を維持しながら、どうして高句麗的な生だけを生きてきたといえるだろうか。これをめぐって講義時間に、もし渤海人たちがこの言葉を聞いたら、泣いてしまうだろうと冗談を言ったりもした。渤海人たちは、彼ら自身の文化と生を営み、その中に高句麗的なものであれ、靺鞨的なものであれ、あるいは、またちがう要素なども入っていたというのが正しいのでないか。しかしながら、研究者たちの間ですら、渤海文化にそのような固有の文化が宿っていたという事実がいまだに認識されていない。今ではすでに常識になっているように、渤海は多数の種族で構成された国家で、渤海領土は現在、多数の国家に分かれている。渤海をありのままに解釈するには、それほどに複雑な変数が介在している。中国では中国史として、ロシアではロシア史として、韓国では韓国史として主張していながら、中国とロシアでは靺鞨住民の視覚から解釈するのに反して、韓国では高句麗遺民の視覚から接近している。しかし韓国ではすべてのものが高句麗的だという説明にならざるをえない。中国とロシアの態度が正しくないように、われわれの態度もまた、あまりに民族主義的な視覚を固持しているのである。このような我田引水的な態度からぬけだして渤海史を眺めてみるとき、はたしてその実態はどうなるだろうか。渤海は高句麗遺民と靺鞨族が主軸をなしたのであれば、高句麗の延長線で眺めることもできるが、多数を占めている靺鞨族の歴史からも眺めうる余地は十分にある。靺鞨族は後に女真族となったが、今は満州族と呼ばれているのであるから、かれらの祖先の歴史でもある。(中略)私がアメリカに滞在したときも韓国の歴史学はあまりに民族主義的だという話をしばしば聞いた。これに共感した面もあったが、その一方で、われわれの措置がそうするしかないという事情を理解させなければならない。アメリカの学生にナショナリズムといって浮かんでくるのはなにかと聞いてみたら、ファシズムだという答えが返ってきた。第二次世界大戦で体験したように、民族主義は強者の攻撃的な武器に使用された。それが西欧的な民族主義の観念だ。しかし、われわれの民族主義はふたつの強大国のはざまにある小国として、最小限の生存のための防御的性格をおびたものであって、その性格はまったくちがう。われわれの教科書はあまりに民族主義的だと批判し、渤海史の叙述もそうであるといいつつ、その一方で、民族主義を擁護する発言をしてしまい、すっかり矛盾した格好になってしまった。偏狭な民族主義史観を克服しなければならないのは当然であるが、西欧の観念に追従して民族主義をあたかも犯罪のように扱うような態度もやはり排撃しなければならない。われわれは今、このような両極の間を無事に通過しなければならない危険な航海路に立たされているのである。 — 宋基豪、民族主義史観と渤海、歴史批評58 金東宇(朝鮮語: 김동우、国立春川博物館(英語版))は、三韓統一は、私たちの民族最初の統一であり、私たちの民族が一つの共同体を形成し、民族文化の基礎を用意した歴史的に大きな意義を持つと評価されてきたが、この過程で唐という外勢に介入され、高句麗の全領土を継承できなかったことは、その限界として指摘されており、新羅が三韓統一して30年後に高句麗遺民を中心とする渤海建国はこれらの限界を補完するものであると述べている。 李鍾旭(朝鮮語: 이종욱、西江大学)は、渤海には高句麗人が多数暮らし、渤海は高句麗の伝統を受け継ぎ、さらに粟末靺鞨人である大祚栄は高句麗に将軍として勤務したことがあるので新しい王国を建国する情報と力があったが、そのような渤海に住むようになった高句麗人は、朝鮮・韓国人を形成した源流からはかけ離れた韓国との連続性がない集団だと批判した。また、李鍾旭は「渤海を新羅とともに南北国時代として朝鮮史に組み込んだのは、いくつかの面で時代的な産物であり、一つの世紀的な喜劇と考えられる」として、「渤海は中国史でもなく、朝鮮史でもない、靺鞨族の歴史である」と主張している。 李孝珩(朝鮮語: 이효형、釜山大学)は、渤海は朝鮮史であるという韓国人の論理に欠陥がないかを省察する必要があり、「沿海州で渤海王城に比肩されるほどの規模の城跡が発掘された」という報道とともに、「渤海が高句麗を継承したことを証明する城跡を発掘したところ、中国の東北工程に対抗する決定的な遺跡である」という報道や研究者のコメントがあったが、果たして妥当か疑問であり、この城跡の遺跡・遺物が高句麗文化の特色を持っており、渤海の領域や渤海と高句麗の継承関係を検証するうえで意義を持つのは事実であるが、渤海王城というより、地方官庁の建物と推定するのが事実に近く、さらに、これをすぐに東北工程に結び付けるのも望ましくなく、韓国人は、東北工程に過剰に敏感に反応しすぎているという批判の声にも耳を傾ける必要があると述べている。 尹世哲(英語: Yun Sei-chul、朝鮮語: 윤세철、ソウル大学)は、渤海を朝鮮史に編入することを再考しなければならないという見解を明らかにしている。 朴チョルヒ(朝鮮語: 박철희、京仁教育大学)は、韓国の歴史教科書は過度に民族主義的に叙述されており、「高句麗と渤海が多民族国家だったという事実が抜け落ちている。高句麗の領土拡大は異民族との併合過程であり、渤海は高句麗の遺民と靺鞨族が一緒に立てた国家だが、これについての言及が全く無い」「渤海は高句麗遺民と靺鞨族が共にたてた国家だというのが歴史常識だ。しかし国史を扱う小学校社会教科書には靺鞨族に対する内容は全くない。渤海は高句麗との連続線上だけで扱われている」と批判している。 金翰奎(朝鮮語: 김한규、西江大学)は、渤海は中国の国家でもなく、朝鮮の国家でもなく、遼東で出現・成長し、遼東を支配した遼東の国という第3の歴史共同体の歴史であると主張している。この主張に対して、現在遼東という歴史共同体が存在しないため、遼東史の成立に疑問を呈する意見もあり、「学問的に創作された仮想の歴史」という批判もあるが、遼東史は現在は存在しなくても、過去には厳然と存在したと再反論している。 송영현(西江大学)は、「『三国遺事』は、渤海は靺鞨の別種としており、つまり『三国遺事』は渤海を靺鞨の別種とみており、これは『三国遺事』を記述した一然が渤海を靺鞨とみていることを意味している。中国人は高句麗を東夷伝で扱い、靺鞨及び渤海は北狄伝で扱っており、当時の中国人は渤海と高句麗を同一視していないことをを意味する。そして『三国遺事』も大祚栄は粟末靺鞨の酋長であることを明らかにしている。従って、高句麗の建国勢力は高句麗遺民だけではなく、靺鞨族になる。…『謝不許北国居上表』の内容からすると、少なくとも新羅人である崔致遠は渤海人を同民族だと考えていなかったように思われる。つまり、渤海は高句麗だったかも知れないが、新羅人は渤海人と歴史共同体意識を共有していない」と述べている。 金基興(朝鮮語: 김기흥、英語: Kim, Kiheung、建国大学)は、近年の韓国の歴史学界では、大祚栄を「粟末靺鞨系高句麗人」と見る見解が提示されており、大祚栄の出自を純粋な高句麗人と積極的に主張していないのが実情であると述べている。 韓圭哲(朝鮮語: 한규철、慶星大学)は大祚栄を粟末靺鞨とみなし、粟末靺鞨を松花江付近に住んでいた高句麗地方住民と定義して、大祚栄を粟末靺鞨系高句麗人としている。 李基白(朝鮮語版)(朝鮮語: 이기백、西江大学)と李基東(朝鮮語: 이기동、東国学校)は大祚栄を「夫余系高句麗人」としている。 渤海を朝鮮の歴史に編入することを望む韓国人の意見を反映し、韓国の歴史教科書は改訂する毎に渤海史の比重を高めており、2002年の第7次国定教科書改訂『国史』では、統一新羅が南国、渤海が北国と述べられている。これは、既往の研究成果から導き出された結論ではなく、尖鋭な歴史論争の反対給付としてである(東北工程への対応)。 韓国の歴史教科書に記載されている「渤海は朝鮮の歴史である」という根拠は以下である。 渤海の建国者である大祚栄は高句麗の別種である。 新羅が渤海を「北国」あるいは「北朝」と称した事実から、渤海も新羅を「南国」あるいは「南朝」と称したと推定でき、新羅と渤海は相互に「南北国」あるいは「南北朝」という概念を有しており、新羅と渤海は南北に分裂しているが、それは異常な状態であるため、最終的に統一されるべき同族であるという認識を内包していたと解釈できる。 渤海滅亡後、10万人程度の渤海遺民が高麗王朝に帰属した背景には、高麗王朝が渤海人を血族と認識していたからである。 渤海の墓制、住居跡、都城跡、出土遺物は高句麗との継承関係を明確に示しており、渤海は高句麗継承国であると認められる。 韓国の歴史教科書に記載されている「渤海は朝鮮の歴史である」という根拠の問題点として、송영현(西江大学)、金翰奎(朝鮮語: 김한규、西江大学)、李鍾旭(朝鮮語: 이종욱、西江大学)は以下を指摘されている。 「渤海は朝鮮の歴史である」とする根拠の前提である大祚栄を含む渤海支配層は高句麗人であるという血統的理由を鑑みると、燕人である衛満が統治した古朝鮮は、中国の歴史に編入せねばならず、渤海を獲得することと引き換えに、古朝鮮を中国に差し出す結果を招くという大きな落とし穴がある。 新羅が渤海を「北国」と称したとする根拠である崔致遠の『謝不許北国居上表』を命名したのは崔致遠ではなく、『謝不許北国居上表』を文集に入れて整理した後代人(『東文選(朝鮮語版)』の撰者など)である。『三国史記』新羅本紀·元聖王「(六年)三月。以一吉飡伯魚使北國。」、『三国史記』新羅本紀·憲徳王「(四年)秋九月。遣級飡崇正使北國。」という記事も『三国史記』を編纂した高麗王朝人の国際認識であり、新羅人の国際認識ではない。 渤海を朝鮮の歴史或いは中国の歴史とみるのではなく、遼東地域の歴史とみなす必要がある。近代以前、遼東地域が「中国の一部」とみなされていないという事実は、新羅が渤海を同じ歴史共同体とみなしてないように、中国も遼東地域を同じ歴史共同体として認識していないという意味となり、遼東地域において誕生·消滅した国家は、中国及び朝鮮の概念に含まれないため、中国の歴史及び朝鮮の歴史ではなく、遼東地域を独自の歴史共同体とする観点からみると、渤海はこの範疇で議論されなければならない。 渤海は朝鮮の歴史の一部であるが、朝鮮の歴史における正統性である統一新羅と渤海を対等とみなして並列するのは妥当ではない。こうした見解を初めて提起したのは李氏朝鮮の実学者である安鼎福(朝鮮語版)の『東史綱目(朝鮮語版)』であり、そこには「渤海は我が国の歴史に記録するには当たらない。しかし渤海は高句麗の故地に興ったものであり、かつ我が国と境域を接していた。その意義はまことに密接である」とあり、こうした観点は柳得恭(朝鮮語版)の『渤海考』にもみられ、「高麗は南方新羅の旧領はすべて領有したが、北方の渤海の旧領はほとんど領有できず、女真や契丹のものとなってしまった。この時に当たって高麗がすべきことは、早急に渤海の歴史を編修することであり、これを以て女真および契丹と交渉して渤海の旧領返還を求めたならば、いとも簡単に、土門以北・鴨緑江以西を領有できたであろう」とある。
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