雄藩の尊攘運動
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御三家の一つ第9代水戸藩主・徳川斉昭(おくり名・烈公(れっこう))は、同2代徳川光圀(おくり名・義公(ぎこう))以来代々勤皇の水戸学を哲学してきた家柄で、また正妻の皇族・吉子女王との間にうまれたのちの江戸幕府第15代(最後の)将軍徳川慶喜(幼名・七郎麿(しちろうまろ))の父だった。佐賀藩士・大隈重信『大隈伯昔日譚』によると、烈公は「天下の望みを繋いだ水戸の藩主で、一代の名君と称せられ、三百諸侯の泰斗と仰がれ」、中津藩士・福沢諭吉『福翁自伝』によると「そのとき、中津の人気はどうかといえば、学者はこぞって水戸のご隠居様、すなわち烈公のことと、越前の春嶽(松平春嶽)さまの話が多い」「学者は水戸の老公と云い、俗では水戸のご隠居様と云う。御三家の事だから譜代大名の家来(けらい)は大変に崇めて、かりそめにも隠居などと呼びすてにする者は一人もない。水戸のご隠居様、水戸の老公と尊称して、天下一の人物のように話していたから、私もそう思っていました」というほど全国の尊敬や信望を集めていた。烈公は尊王の志が厚く、義公がそうしていたよう、毎正月元旦に江戸城登城前に庭上におりたつと遥か天皇のおわす方を拝むのが常だった。歴代水戸藩主は定府で江戸住みが常だったが、烈公は都会の軽薄な風紀(社会風潮、世の習わし)がこどもの幼い心に伝染するのを恐れ、かつ、付き人の雇い扶持や服飾代までも都心では子育てに無駄な費用がかさむことから、幕府へ特別にたのんで、公子らをくにもとの常陸国水戸で育てた。当時の江戸の風紀は、化政文化のもとで贅沢や退廃がはびこり、賄賂(わいろ)が公然とやりとりされる金権政治がおこなわれており、武士は長く続いた平和になれ柔弱で、財力のある商人にこうべを垂れる拝金主義同然の状態だった。慶喜は誕生の翌1838(天保9)年、江戸から水戸へ移されると藩校・弘道館で水戸徳川家(水戸家)の公子・同藩士らと質実剛健な教育を受け、1847(弘化4)年、10歳で時の江戸幕府第12代征夷大将軍・徳川家慶から請われて江戸へおもむくと、御三卿の一つ一橋徳川家(一橋家)の家督を相続した。烈公は慶喜がはたちのころ彼を江戸・小石川の水戸藩邸に招くと、 おおやけに言い出すことではないが、御身(おんみ)(あなた。慶喜)ももう20歳(はたち)なので万一のため内々に申し聴かせておく。われらは三家三卿(御三家・御三卿)の一つとして、おおやけのまつりごとを助けるべきなのはいうまでもないが、今後、朝廷と幕府との間でなにごとかが起きて、たがいに弓矢を引く事態になるかどうかもはかりがたい。そんな場合、われらはどんな状況にいたっても朝廷をたてまつって、朝廷に向け弓を引くことはあるべきですらない。これは義公以来、代々わが家(水戸徳川家)に受け継がれてきた家訓、絶対に忘れてはならない。万が一のためさとしておく。――烈公 と慶喜へ伝えた。また1851年(嘉永4年)長州藩士・吉田松陰(当時21歳)は日本最大の藩校・水戸弘道館を訪れた際、水戸学者で弘道館初代教授頭取(初代学長)の会沢安(会沢正志斎)(当時69歳)や同学者・豊田天功らに教えを受け、1854年(嘉永七年)薩摩藩士・西郷隆盛(当時28歳)は水戸学者・同藩士で烈公の側近・藤田東湖(当時49歳)から江戸の水戸藩邸で尊王論を核心とする薫陶を受けた。これら水戸学に端を発した尊王攘夷(尊攘)の旗印のもと、おのおの近代軍備への勢いをつける雄藩(水戸藩、薩摩藩、長州藩ら)だったが、1858年(安政5年)から1859年(安政6年)にかけ幕府は朝廷から大政委任されていると信じる井伊大老は、安政の大獄をおこない烈公や松陰ら尊攘派を思想弾圧・大量粛清した。その反動として1860年3月24日(安政7年3月3日)「井伊から廃帝を要請された孝明天皇や冤罪で処罰された主君にあたる烈公ら無罪の人々を雪冤しながら、日本の万人に平和をもたらし公平な国事へ忠義を示す目的」から、水戸藩と薩摩藩を脱藩した尊攘急進派一部浪士ら18名による桜田門外の変が起き、井伊は江戸城の桜田門外(今の東京都千代田区霞が関)で暗殺された。 全国の信望を一手に集めていた烈公が桜田門外の変と同年に薨去し、尊攘急進主義者・桜田烈士らによる雪冤の復讐劇で大老・井伊直弼も凶刃にたおれると、幕閣の実質的な最高指導者を2人同時に失った幕府は、その中心にたった老中・安藤信正と久世広周らのもとで公武合体策により体制を立て直すべく、1860(万延元)年11月、皇女(孝明天皇の妹)和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)(当時14歳)を井伊ら南紀派が推していた将軍継嗣・徳川家茂(当時14歳)と政略婚させるよう朝廷へ求めた。このとき親子内親王はすでに、烈公ら一橋派が推していた将軍継嗣・徳川慶喜(烈公の七男。当時23歳)の母方の主家筋にあたる有栖川宮熾仁親王(当時25歳)と、1851(嘉永4)年7月、6歳で婚約済みだった。兄の孝明天皇は、親子内親王が既に婚約済みで、まだ幼少でもある事などを理由に、安藤ら幕閣による政略婚の求めを拒絶した。一方、公家・岩倉具視はこの政略婚を朝廷の権力を回復する足掛かりになると孝明天皇へ献策した。孝明天皇はこの岩倉の意見をいれて、幕府が攘夷戦争の実行を約束するのを条件に、親子内親王と家茂の婚約をゆるした。 同1860(万延元)年6月、水戸藩と長州藩の尊攘派志士らはともに幕政改革を目指す成破の盟約(丙辰丸の盟約)を長州藩の洋式軍艦丙辰丸で結んだ。茨城県立歴史館の調べによると、約定に名を連ねたのは水戸側が同藩士・西丸帯刀、岩間金平、薗部源吉、越宗太郎らで、長州側が同藩士・桂小五郎、松島剛蔵ら、仲介者は肥前国の草場又三だった。この密約の内容は、歴史学者・奈良本辰也によると、話し合いの中で時局にあたる態勢として「破壊(破)」と「建設(成)」の議論になったとき、西丸が桂に成破のどちらが難しいかを問うと、桂が「破」の方がむずかしいと答えたため、西丸は「水戸側に破(むずかしい方)を任せて下さい」と念を押して約束したものだという。 水戸藩の尊攘志士ら、下野国宇都宮藩の儒学者・大橋訥庵やその門下の宇都宮藩尊攘志士らは、親子内親王の政略婚を主導した安藤を「君臣・父子の大倫(忠孝道徳)を忘れ、天皇の大御心に背く暴政をおこなっている君側の奸」とみなしながら、「もし天皇への忠義を明らかにし、天下と死生を共にし、朝廷(天朝)を尊び、叡慮を慰め、万民の困窮を救う忠臣の義士が一人も現れなければ、幕府の為に身を投げ出すサムライはいなくなってしまう」と考えるに至った。計画が事前に発覚し1862年(文久2)1月12日大橋は捉えられたが、水戸と宇都宮の志士らは両藩を脱藩すると、江戸城の坂下門外で15日に襲撃を決行し、安藤を負傷させた(坂下門外の変)。襲撃した浪士6人は幕府から斬首刑にされ、安藤はまもなく老中を辞任した。 同1862(文久2)年8月、薩摩藩主の父・島津久光が江戸から帰国中、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)にさしかかったとき騎馬で横切ったイギリス人4名が大名行列を乱したとし、同藩士・奈良原喜左衛門が商人・チャールス・リチャードソンに斬りかかると、同藩士・海江田信義がリチャードソンを追いかけとどめをさし殺害、同藩士らは他のイギリス人2名を負傷させた生麦事件が起きた。イギリス代理公使ジョン・ニールは幕府へ責任者処罰と10万ポンドの賠償金を請求した。このため幕府は薩摩藩へ犯人の引き渡しを要求したが、薩摩藩は浪人・岡野新助(架空の人物)が犯人だが行方不明と嘘の届け出で、犯人を匿い通そうとした。翌1863(文久3)2月、ニールは幕府へ正式な謝罪状の提出と賠償金10万ポンド、薩摩藩へ賠償金2万5000ポンドの支払いを要求、また犯人処罰を要求した。5月幕府はこれに応じたが薩摩藩は飽くまで拒否しつづけたため、7月2日イギリス艦隊が鹿児島に砲撃を加え薩英戦争が起きた。 1863(文久3)年5月10日を攘夷期日とする朝命(朝廷からの命令)を受け長州藩は攘夷戦争を決行し、同日、下関海峡を通過したアメリカ合衆国商船、フランスとオランダの軍艦を砲撃した(四国連合艦隊下関砲撃事件)。同年9月30日(文久3年8月18日)、長州藩の急進主義的な尊王攘夷(尊攘)派が朝廷から排除される八月十八日の政変が起き、同第13代藩主・毛利慶親とその子・毛利定広らは朝廷により国許へ謹慎を命じられた。1864(元治元)年2月日米和親条約による自由貿易方針をふたたび放棄する「横浜鎖港」が朝廷・幕府の双方で合意されるものの、幕府内の意見対立で未だ実行されないままであった。そうしたなか同1864(元治元)年3月に尊攘急進派の水戸藩志士・藤田小四郎が義勇軍・天狗党を常陸国筑波山で旗揚げし、朝命に応じた幕府の「横浜鎖港」と「攘夷戦争」決行の直接的勅許を求め、朝廷のあった京都御所へ向かって進軍を始めた(天狗党の乱)。長州藩の藩政を掌握した尊攘急進派志士・久坂玄瑞らの間でも、天狗党の尊王攘夷の志による行動を支援するとともに、ふたたび京都政界に乗り込み、武力を背景に自分達の無実を朝廷に訴えようとする進発論が優勢となった。こうして8月20日(元治元年7月18日)長州藩は大坂夏の陣(1615年)以来の関西地方での交戦にあたり、2日間つづく激しい戦いで京都市中を戦火により約3万戸焼失させた禁門の変(蛤御門の変)を起こした。
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