雄藩の尊攘運動とは? わかりやすく解説

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雄藩の尊攘運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「雄藩の尊攘運動」の解説

御三家一つ第9代水戸藩主徳川斉昭(おくり名・烈公れっこう))は、同2代徳川光圀(おくり名・義公(ぎこう))以来代々勤皇水戸学哲学してきた家柄で、また正妻皇族吉子女王との間にうまれたのちの江戸幕府第15代最後の)将軍徳川慶喜幼名七郎麿(しちろうまろ))の父だった。佐賀藩士・大隈重信大隈昔日譚』によると、烈公は「天下望み繋いだ水戸藩主で、一代名君称せられ、三百諸侯泰斗仰がれ」、中津藩士・福沢諭吉福翁自伝』によると「そのとき中津人気はどうかといえば学者こぞって水戸ご隠居様、すなわち烈公のことと、越前の春嶽(松平春嶽)さまの話が多い」「学者水戸老公と云い、俗では水戸ご隠居様と云う御三家事だから譜代大名家来(けらい)は大変に崇めて、かりそめにも隠居などと呼びてにする者は一人もない。水戸ご隠居様、水戸老公尊称して、天下一人物のように話していたから、私もそう思っていました」というほど全国尊敬信望集めていた。烈公尊王の志が厚く義公がそうしていたよう、毎正月元旦江戸城登城前に庭上おりたつと遥か天皇のおわす方を拝むのが常だった歴代水戸藩主定府江戸住み常だったが、烈公都会軽薄な風紀社会風潮世の習わし)がこどもの幼い心に伝染するのを恐れ、かつ、付き人雇い扶持服飾代までも都心では子育て無駄な費用がかさむことから、幕府特別にたのんで公子らをくにもと常陸国水戸育てた当時江戸風紀は、化政文化のもとで贅沢や退廃はびこり賄賂(わいろ)が公然とやりとりされる金権政治おこなわれており、武士長く続いた平和になれ柔弱で、財力のある商人こうべを垂れる拝金主義同然の状態だった。慶喜誕生の翌1838(天保9)年、江戸から水戸移される藩校弘道館水戸徳川家水戸家)の公子・同藩士らと質実剛健教育を受け、1847(弘化4)年、10歳時の江戸幕府第12代征夷大将軍徳川家慶から請われ江戸へおもむくと、御三卿一つ一橋徳川家一橋家)の家督相続した烈公慶喜がはたちのころ彼を江戸小石川水戸藩邸に招くと、 おおやけに言い出すことではないが、御身(おんみ)(あなた。慶喜)ももう20歳(はたち)なので万一のため内々申し聴かせておく。われらは三家三卿御三家御三卿)の一つとしておおやけまつりごと助けるべきなのはいうまでもないが、今後朝廷幕府との間でなにごとかが起きてたがいに弓矢を引く事態になるかどうかもはかりがたい。そんな場合、われらはどんな状況いたって朝廷たてまつって、朝廷に向け弓を引くことはあるべきすらない。これは義公以来代々わが家水戸徳川家)に受け継がれてきた家訓絶対に忘れてならない万が一のためさとしておく。――烈公慶喜伝えた。また1851年嘉永4年長州藩士吉田松陰(当時21歳)は日本最大藩校水戸弘道館訪れた際、水戸学者で弘道館初代教授頭取初代学長)の会沢安会沢正志斎)(当時69歳)や同学者・豊田天功らに教えを受け、1854年嘉永七年薩摩藩士・西郷隆盛当時28歳)は水戸学者・同藩士烈公側近藤田東湖当時49歳)から江戸水戸藩邸で尊王論核心とする薫陶受けた。これら水戸学端を発した尊王攘夷尊攘)の旗印のもと、おのおの近代軍備への勢いをつける雄藩水戸藩薩摩藩長州藩ら)だったが、1858年安政5年)から1859年安政6年)にかけ幕府朝廷から大政委任されていると信じ井伊大老は、安政の大獄おこない烈公松陰尊攘派思想弾圧大量粛清した。その反動として1860年3月24日安政7年3月3日)「井伊から廃帝要請され孝明天皇冤罪処罰され主君にあたる烈公無罪人々雪冤しながら日本万人に平和をもたらし公平な国事忠義を示す目的」から、水戸藩薩摩藩脱藩した尊攘急進派一部浪士18名による桜田門外の変起き井伊江戸城桜田門外(今の東京都千代田区霞が関)で暗殺された。 全国信望一手集めていた烈公桜田門外の変同年薨去し、尊攘急進主義者・桜田烈士らによる雪冤復讐劇大老井伊直弼凶刃にたおれると、幕閣実質的な最高指導者2人同時に失った幕府は、その中心にたった老中安藤信正久世広周らのもとで公武合体策により体制立て直すべく、1860(万延元)年11月皇女孝明天皇の妹)和宮親子内親王かずのみや ちかこないしんのう)(当時14歳)を井伊南紀派推していた将軍継嗣徳川家茂当時14歳)と政略婚させるよう朝廷求めた。このとき親子内親王はすでに、烈公一橋派推していた将軍継嗣徳川慶喜烈公の七男。当時23歳)の母方主家筋にあたる有栖川宮熾仁親王当時25歳)と、1851(嘉永4)年7月6歳婚約済みだった。兄の孝明天皇は、親子内親王が既に婚約済みで、まだ幼少でもある事などを理由に、安藤幕閣による政略婚の求め拒絶した一方公家岩倉具視はこの政略婚を朝廷権力回復する足掛かりになると孝明天皇献策した。孝明天皇はこの岩倉意見をいれて、幕府攘夷戦争実行約束するのを条件に、親子内親王家茂婚約をゆるした。 同1860万延元)年6月水戸藩長州藩尊攘派志士らはともに幕政改革目指す成破の盟約丙辰丸の盟約)を長州藩洋式軍艦丙辰丸結んだ茨城県立歴史館調べによると、約定名を連ねたのは水戸側が同藩士西丸帯刀岩間金平薗部源吉、越宗太郎らで、長州側が同藩士桂小五郎松島剛蔵ら、仲介者肥前国草場又三だった。この密約内容は、歴史学者奈良本辰也によると、話し合いの中で時局にあたる態勢として「破壊(破)」と「建設(成)」の議論になったとき、西丸に成破のどちらが難しいかを問うと、が「破」の方がむずかしいと答えたため、西丸は「水戸側に破(むずかしい方)を任せて下さい」と念を押して約束したものだという。 水戸藩尊攘志士ら、下野国宇都宮藩儒学者大橋訥庵やその門下宇都宮藩尊攘志士らは、親子内親王政略婚を主導した安藤を「君臣父子大倫忠孝道徳)を忘れ天皇大御心に背く暴政をおこなっている君側の奸」とみなしながら、「もし天皇への忠義明らかにし、天下死生を共にし、朝廷天朝)を尊び叡慮慰め万民困窮を救う忠臣義士一人現れなければ幕府為に身を投げ出すサムライはいなくなってしまう」と考えるに至った計画事前に発覚し1862年文久2)1月12日大橋捉えられたが、水戸宇都宮志士らは両藩を脱藩すると、江戸城坂下門外で15日襲撃決行し安藤負傷させた(坂下門外の変)。襲撃した浪士6人は幕府から斬首刑にされ、安藤はまもなく老中辞任した。 同1862(文久2)年8月薩摩藩主の父・島久光江戸から帰国中、武蔵国橘樹郡生麦村現・神奈川横浜市鶴見区生麦)にさしかかったとき騎馬横切ったイギリス人4名が大名行列乱したとし、同藩士奈良原喜左衛門商人チャールス・リチャードソン斬りかかると、同藩士海江田信義リチャードソン追いかけとどめをさし殺害、同藩士らは他のイギリス人2名を負傷させた生麦事件起きたイギリス代理公使ジョン・ニール幕府責任者処罰10万ポンド賠償金請求したこのため幕府薩摩藩犯人引き渡し要求したが、薩摩藩浪人岡野新助架空の人物)が犯人が行不明と嘘の届け出で犯人を匿い通そうとした。翌1863(文久3)2月ニール幕府正式な謝罪状の提出賠償金10万ポンド薩摩藩賠償金25000ポンド支払い要求、また犯人処罰要求した5月幕府はこれに応じた薩摩藩飽くまで拒否しつづけたため、7月2日イギリス艦隊鹿児島砲撃加え薩英戦争起きた。 1863(文久3)年5月10日攘夷期日とする朝命朝廷からの命令)を受け長州藩攘夷戦争決行し同日下関海峡通過したアメリカ合衆国商船フランスオランダ軍艦砲撃した四国連合艦隊下関砲撃事件)。同年9月30日文久3年8月18日)、長州藩急進主義的な尊王攘夷尊攘)派が朝廷から排除される八月十八日の政変起き、同第13代藩主毛利慶親その子毛利定広らは朝廷により国許謹慎命じられた。1864(元治元)年2月日米和親条約による自由貿易方針をふたたび放棄する横浜鎖港」が朝廷幕府双方合意されるものの、幕府内の意見対立未だ実行されないままであったそうしたなか同1864(元治元)年3月尊攘急進派水戸藩志士藤田小四郎義勇軍天狗党常陸国筑波山旗揚げし、朝命応じた幕府の「横浜鎖港」と「攘夷戦争決行直接的勅許求め朝廷のあった京都御所向かって進軍始めた天狗党の乱)。長州藩藩政掌握した尊攘急進派志士久坂玄瑞らの間でも、天狗党尊王攘夷の志による行動支援するとともに、ふたたび京都政界乗り込み武力背景自分達の無実朝廷訴えようとする進発論が優勢となった。こうして8月20日元治元年7月18日長州藩大坂夏の陣1615年以来関西地方での交戦にあたり2日間つづく激し戦いで京都市中を戦火により約3万戸焼失させた禁門の変蛤御門の変)を起こした

※この「雄藩の尊攘運動」の解説は、「鳥羽・伏見の戦い」の解説の一部です。
「雄藩の尊攘運動」を含む「鳥羽・伏見の戦い」の記事については、「鳥羽・伏見の戦い」の概要を参照ください。

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