芸能界入り前から、おニャン子クラブ卒業まで
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「国生さゆり」の記事における「芸能界入り前から、おニャン子クラブ卒業まで」の解説
高校在学中の1984年、第3回ミス・セブンティーンコンテスト(過去最大応募総数18万325人)中国地区代表に選出され全国大会に出場(同コンテストの同期には渡辺美里・工藤静香・渡辺満里奈などがいる)。高校の友達がコンテストに写真を送るから一緒に参加してはどうかと勧めたことが応募のきっかけである。 入賞はできなかったが、大会終了後にCBSソニーから1985年1月2日放送『第14回レコード10社対抗 ’85新春オールスター大運動会』(TBS)に「運動会要員」として出場しないかと声をかけられる。これは陸上短距離走のインターハイ選手であった国生にゼッケンの社名をアピールしてもらいたいという狙いであった。レコード会社対抗運動会には二度出場し、運動神経の良さを売りにしていた石川秀美を追い抜いたこともある。 CBSソニーからは正式にスカウトされたわけではなかったので、高校卒業後は資生堂の美容部員に就職が内定しており、広島のデパートの化粧品売り場に立つ予定だった。しかし、先のCBSソニー担当者による薦めで1985年2月にフジテレビで放送される、深夜番組『オールナイトフジ』の特別番組『オールナイトフジ 女子高生スペシャル』に出演。この特番は同年4月1日から同局で始める新番組『夕やけニャンニャン』のパイロット番組であり、番組の中でアシスタント兼マスコットとして結成される女性アイドルグループ・おニャン子クラブのメンバー選定も含まれていて、CBSソニー担当者からはそのテストを設けられての出演でもあった。何十人にも及ぶ同年代の娘たちが出演していた特番の中で行った“美少女コンテスト”において優勝するなどして、見事その関門をクリア。それにより、地元での就職は取り止めて、芸能界入りするために高校を卒業するのと同時に単身上京した。なお、高校時代を広島県で過ごしたため、デビュー当時は「広島出身」としていた(現在は「鹿児島出身」としている)。所属事務所は、CBSソニー運営のエイプリル・ミュージック(現在のソニー・ミュージックアーティスツ)。そして、おニャン子クラブ会員番号8番として『夕やけニャンニャン』開始とともに芸能界デビューした。 おニャン子クラブの初期メンバーは都会育ちの子が多く、田舎育ちは国生だけであった。また素人集団というおニャン子クラブのイメージだが実際は子役上がりの子も多く、素人の身で芸能界を目指して単身上京した国生はコンプレックスを感じていた。しかしそれだけにやる気は人一倍強く、初期メンバーにはバイト感覚で参加してる者もいたことで仕事に対する熱情にかなりの温度差があり、当初はメンバー内で孤立したという。学生時代は陸上部のキャプテンを務めていたことに加え、『夕やけニャンニャン』開始時には既に学生ではなかったことから、夕方5時放送開始の番組には日中のリハーサルから連日参加し、陸上部のキャプテン時代とリハーサルで得た体験を交えつつ、自発的に歳下の学生メンバーに指導するなど、自然とおニャン子クラブのリーダー格となっていった。『夕やけニャンニャン』放送開始から三ヶ月後の7月、おニャン子クラブはポニーキャニオンから出したデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」でブレイクを果たすも、この当時のおニャン子クラブにおけるパブリックイメージは、「セーラー服を脱がさないで」フロントヴォーカルの4人である新田恵利、中島美春、福永恵規、内海和子に集中していたため、4人の後ろでその他大勢の一員として踊っているだけの国生がおニャン子クラブのメンバーであることは世間一般的にはまだまだ知られてなかった。おニャン子クラブからの第二弾として9月にCBSソニーからソロデビューした河合その子のキャンペーンに同行した以外は特に目立ったソロ活動のない状態が続いた。 この当時について、「ソロで出れるのか、グループで出れるのか、それとも出れないのか、とてもピリピリしていた。」「先にソロデビューを果たしている新田恵利や河合その子を応援したいという気持ちと嫉妬心とが入り混じり、女の子ならではのとても複雑な気持ちで見ていた。」と振り返っている。 混沌とした気持ちの1985年から抜けた翌1986年になってようやく国生にも運が開き、2月1日に、国生さゆりwithおニャン子クラブ(国生のサブボーカルとして、白石麻子・渡辺美奈代がつく)名義のもと『バレンタイン・キッス』でソロデビュー。おニャン子クラブが大ブームだった中で同曲は約30万枚のヒットとなり、現在でもバレンタインシーズンには定番の曲となっている。しかし、おニャン子クラブ関連の曲がオリコン1位が当たり前だった状況の中で最高位2位という結果に甘んじる。新田や河合は1位を獲得しているだけに「二人には負けたくなかった」と、当時の悔しい心境を語っている。また、2017年の別冊宝島のインタビューでは、当時そもそもデビューできると思っていなかったといい、サブボーカルが付いたのも1人では難しいという担当マネージャーの判断による。 ソロデビューに合わせて『夕やけニャンニャン』とおニャン子クラブのスタッフらは、国生を積極的に推すようになり、歌手活動以外にも『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』へのメインゲスト出演や、『月曜ドラマランド』などおニャン子クラブ主体のドラマにも主役格で出演させたことで瞬く間に中心メンバーへと躍り出た。さらに、カネボウ秋のキャンペーンガールに選ばれるなどの活躍をみせた。この頃から「芯の強さ・気の強さ」を前面に出すようになり、おニャン子クラブのリーダーとしてのイメージも定着してゆく。国生の親衛隊はつなぎ姿の若者が多かった。 リーダーとして後輩の指導にも積極的に関わっていたが、ソロデビュー以降は「年下のメンバーの子たちの中に、自分から入ってはいかなかった」という。<国生が挙げる仲の良かったメンバーは福永恵規、樹原亜紀、名越美香、城之内早苗など、自身が「おとな組」と称する面々(新田との確執に関して「仕事に撤せられない人は嫌いです」と、暗におニャン子内に派閥が存在していることを認める発言をしているが、樹原や名越は芸能界での成功を目指していたわけではなかった。)。特に同い年で、同じく就職を取り止めておニャン子入りした福永のことは「東京に来てはじめてできた友達」と表現している。 バイクの免許を取得し、同年10月から約一か月掛けて北アメリカ大陸を横断する企画を実行。その様子は『夕やけニャンニャン』内で逐一報告された。完走を遂げた際には「(交通)事故を起こすと芸能活動ができなくなるので、もうバイクには乗れません」と、涙ながらに発言。ビデオソフト「HELLO!アメリカ」(2004年にDVDソフト化)、写真集「EAGLE」などの形で商品化された。 1987年3月、『夕やけニャンニャン』およびおニャン子クラブを卒業。卒業当日、「おニャン子の想い出を缶詰に入れ、冷蔵庫に入れて保存しておきたいですっ!」と述べた が、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}後にこの時のVTRを観たタモリから「缶詰に入れたら、何も冷蔵庫に入れる必要はないじゃないか」という突っ込みを入れられる[要出典]。 卒業時、『夕やけニャンニャン』とおニャン子クラブのブームは峠を過ぎていたが、ソロとしての国生さゆりはアイドル絶頂期にあり、卒業直後には初主演映画『いとしのエリー』が劇場公開。三浦友和と共演できたことは嬉しかったといい、山口百恵と三浦友和が出演していたアーモンドチョコレートの販促用下敷きを「今でも実家で大切にしてます」と話した思い出を後に語っている。また同年5月に『キスより簡単』で連続ドラマ初主演を果たすなど、卒業後もその活動の勢いは続いた。 そして、同年8月の『夕やけニャンニャン』番組終了時まで他の卒業したメンバーらと幾度もゲスト出演し、おニャン子クラブの解散コンサートにも出演するなど、実質的には最後まで関わっていた。 歌手活動はシングル『恋は遠くから』を最後に退いている。当時のチーフマネージャーの「俺の目が黒いうちは、二度と歌わせない」という意向からだった。歌手を続けたかった国生は話し合いを求めたが通らなかった。== 2002年、おニャン子クラブの再結成に参加。シングル「ショーミキゲン」では、おニャン子クラブの楽曲ではじめてフロントボーカルを担当した。 2003年8月に中学時代の同級生だった一般人男性と離婚。その後、1年間ほどのブランクを経て再び同棲する関係になっていたことが2007年6月になって報道されたが、2008年8月になって再び同棲が解消されていると報道された。 2007年2月13日にテレビ朝日系列で放送された『ロンドンハーツ』ではドッキリ企画として番組内のライブで21年ぶりに「バレンタイン・キッス」をデビュー当時の衣装とポニーテールの髪型で再現。ライブ当日での急遽出演依頼であったため、感涙していたと同時にもう少しレッスン時間が欲しかったと伝えていた。「バレンタイン・キッス 2007」と銘打った新録音バージョンをインターネット配信で発表した。 1980年代のアイドルの中で、中森明菜、小泉今日子、斉藤由貴に影響を受けていた。特に斉藤に関してはカルピスのCMで、セーラー服に赤いストールを巻いて雪の中にいるというシーンが綺麗に見え、デビュー前であった国生は非常に感銘を受けたという。 中学入学後はバレーボール部に入ったが、バレーの選手としては背が低かったことと、陸上部の先生から誘われたことで、中学1年の2学期から陸上部に転じ、以後は陸上競技に打ち込む。100メートルのベストタイムは12秒8。「12.8秒。これが私の青春です」と1987年3月のおニャン子クラブの卒業式の記念プロモにて自らが語るほどであった。また1986年2月、TBS系『ザ・ベストテン』において(デビュー曲『バレンタイン・キッス』がランクインした時)司会の小西博之 と100メートル走の競走という企画があった。 タレントでは勝俣州和や星田英利、ココリコの遠藤章造、ダイノジの大地洋輔などがファンだったと告白している。星田の証言によると、おニャン子クラブ時代の親衛隊のメンバーは、暴走族やヤクザ風の人間といった、いわゆる「気合の入った方達」ばかりだったとのこと。 前述の通り、高校を卒業しおニャン子メンバーになる前は、資生堂の美容部員での就職が決定していた。しかしおニャン子メンバーになった後に、資生堂の競合他社であるカネボウの1986年秋のキャンペーンガールとしての話があった時、国生は「(カネボウに)選出していただいたのは光栄だが、資生堂に何か申し訳ない気持ちは多少有ります」と語っていた。 最近では女優業のほかに、NHK-BS2の番組『アニメ夜話』に3回にわたって出演した(『BSアニメ夜話スペシャル とことん!あしたのジョー』を含めると4回)。『ルパン三世 カリオストロの城』の回では唐沢俊一と討論した。 好きなアニメ監督は宮崎駿、押井守、ウォルト・ディズニーなど。『アニメギガ・スペシャル とことん!押井守』にも出演した。最も好きな押井守作品は『Avalon』である。 趣味はゴルフ。「週刊ゴルフダイジェスト」に隔週で対談の連載を設けていた(2006年〜2010年)。 日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会認定焼酎アドバイザー。
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