芸能界入りへ
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一方で、芸能タレントにも憧れを持っていた。小学2年生から合唱部に入り、小学6年生の時に地元のテレビやラジオ番組に出演。また、同じく小学6年生の時、学芸会の音楽劇『浦島太郎』で乙姫役を演じ、校長が見に来たほどだった。その役作りのために、テレビアニメ『ベルサイユのばら』(日本テレビ)で主人公の1人、マリー・アントワネットを研究していた[要ページ番号]。 中学生になると、ホリプロタレントスカウトキャラバンやテレビドラマなどの様々なオーディションに応募した[要ページ番号]。名古屋を舞台にした連続テレビドラマ『中学生日記』(NHK名古屋放送局)にエキストラとして出演したが、重要な役を任される矢先に降板している。1981年(昭和56年)8月、姉が購読していた雑誌『高一時代』(旺文社)に載っていたオーディション『ニコン フレッシュギャルコンテスト』に中学2年生で応募し、準グランプリに選ばれた。写真は月刊誌『写楽』(小学館)1982年3月号に掲載され、特大ポスターが全国各所に貼り出された[要ページ番号]。中学3年生の夏休みには、大阪城で開催された『ニコン 中・高生のためのカメラ教室』の写真モデルになっているが、いずれも芸能界入りにはつながらなかった。 1982年(昭和57年)6月、前年に応募していたオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ)の予選会通知が中京テレビから届いた。「中学2年生で出場、中学3年生でデビュー」の計画から1年遅れの通知だった。担任教諭に反対される中、学校を無断欠席して名古屋地区予選に出場。北原佐和子「マイ・ボーイフレンド」を歌い、決戦大会への切符を掴む。しかし、家族にも反対されたため、12月の決戦大会出場を断念。ハンガー・ストライキを起こし、自分の部屋に閉じこもる。数日後、芸能界入りの条件として「学内テストで学年1位になること」「中部統一模擬試験で学内5位以内に入ること」「第1志望の名古屋市立向陽高等学校に合格すること」を母親から提示された。学業成績が優秀でも厳しい条件だったが、猛勉強の末に全てクリア。さらに、地区予選に立ち会っていた芸能事務所「サンミュージック」専務・福田時雄と番組プロデューサー・金谷勲夫が家族へ説得したこともあり、1983年3月の決戦大会への出場を許された。3月30日、『スター誕生!』第46回決戦大会で中森明菜「スローモーション」を歌い、結果は後日発表されることとなった。 1983年(昭和58年)4月、名古屋市立向陽高等学校に入学。部活動はサッカー部のマネージャーだったが、スコアの付け方がわからず雑用係だった。それからしばらくして、『スター誕生!』決戦大会の合格が伝えられた。芸能事務所はサンミュージックと研音、レコード会社はキャニオンレコードとVAPから指名され、「サンミュージック」「キャニオンレコード」との契約が決まった[要ページ番号]。5月12日から、名古屋を舞台にした映画『アイコ十六歳』(日本ヘラルド)のオーディションを受けるが、7月11日の第5次選考(最終選考)で落選している。
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