生涯・作風
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「ジュール・ラフォルグ」の記事における「生涯・作風」の解説
父シャルル=ブノワ・ラフォルグと母ポーリーヌ・ラコレが出逢ったのはウルグアイだった。そこで父親は、最初教師を、続いて銀行員をしていた。結婚後、11人の子供に恵まれ、ジュールはその第二子。1866年、一家は、父親の生地である、フランスのタルブに移る。1867年、家族はウルグアイに戻ることになり、ジュールと兄のエミールだけが、従兄弟の家に預けられる。 1869年、一家はパリに移転。1877年、母親が流産の末、死亡。ジュールは決して優等生ではなかった。その年から翌1878年にかけて、バカロレアの試験に3度失敗する。彼はパリの図書館に通い、フランスのすぐれた著者の本を読み、独学で勉強する。 1879年、父親が病気になり、一家はタルブに引っ越すことになるが、ジュールはパリに残る。トゥールーズで最初の詩を発表。さらにいくつかの詩を発表し、その年の末には、注目される詩人となる。1880年、彼はパリの文壇に出入りするようになり、「近代生活」誌の編集者ポール・ブールジェに目をかけられる。 1881年、文学の仕事が忙しくなり、タルブでの父親の葬式にも出られなかった。その年の11月から1886年にかけて、ドイツ皇后アウグステ・ヴィクトリアのフランス語読書係(一種の文化的カウンセラー)として、ベルリンで暮らす。彼は多額の報酬を得て、余暇を趣味に費やした。1885年には、代表作である『聖母なる月のまねび』を書き上げる。 1886年、フランスに帰国。イギリス人女性リア・リーと結婚。しかし、その翌年、結核でこの世を去る。残された妻も、翌年同じ病気で死去した。 ウォルト・ホイットマンに強い影響を受けたラフォルグは、自由詩の形式を用いたフランスの最初期の詩人の一人である。哲学的には、ショーペンハウアーやエドゥアルト・フォン・ハルトマンの熱心な信奉者だった。 近代の悲愁を破格の韻律にのせてパロディー、造語、俗語等、多彩で高度な言語遊戯をもって人類の泣き笑いと愛を歌い上げた彼の作品は、若い頃のT・S・エリオットやエズラ・パウンドに多大な影響を与えている。日本でも、三富朽葉、中原中也、梶井基次郎などが愛読した。
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生涯・作風
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「チャールズ・ブロックデン・ブラウン」の記事における「生涯・作風」の解説
チャールズ・ブロックデン・ブラウンはフィラデルフィアのクエーカー教徒の家に、7人兄弟の四男として生まれる。家族は彼が法律家になることを望み、彼は大学で法律を学ぶが、1793年に短期の徒弟を経験したのみで法律を諦め、作家として生計を立てようと考えるようになった。 彼はニューヨークを拠点とする若い知識人のグループに参加(詩人のティモシー・ドワイトらと共同生活を開始)、このグループでの経験が彼が作家として活動を始める助けとなった。 ブラウンはイギリスの女権論者ウィリアム・ゴドウィンやメアリ・ウルストンクラフトの影響を受け、女性の権利を論じたパンフレット『アルクィン』”Alquin”(1798)を発表した後、2年間で4冊もの長篇小説を執筆した。その人間の心の闇を追究する作風によりエドガー・アラン・ポーやナサニエル・ホーソーンら多くの後続の作家達に影響を及ぼし、ブラウンは後に「アメリカン・ゴシックの父」と呼ばれるようになった。 1801年に結婚して生活の拠点をフィラデルフィアに移すと、ブラウンは小説の執筆をやめ、1803年からは大衆誌『文藝とアメリカの記録』の編集者を務めた。生来病弱であったブラウンは、1810年2月に結核のため39歳で死去した。
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「サミュエル・バーバー」の記事における「生涯・作風」の解説
ペンシルベニア州ウェストチェスター出身。外科医の父とアマチュアピアニストの母の間に生まれる。19世紀のアメリカ東部で名声を博したオペラ歌手、ルイーズ・ホーマーの甥に当たる。その夫シドニーは19世紀のニューイングランドなどで人気の歌曲作曲家であった。 フィラデルフィアのカーティス音楽学校でロザリオ・スカレロに作曲を学ぶ他、ピアノ・声楽を専攻。また、フリッツ・ライナーに指揮も学ぶ。最優等を得て卒業した後、1935年に、ローマのアメリカ学士院より奨学金を得て、翌年よりイタリア留学を果たす。同地で《弦楽四重奏曲第1番ロ短調》を作曲、この第2楽章が後に弦楽合奏用に編曲され、《弦楽のためのアダージョ》として広く親しまれるに至った。 同世代のパリに留学したアメリカ人作曲家、たとえばコープランドやカーターなどとは違ってモダニズムや実験的姿勢に走らず、和声法や楽式において、かなり伝統に従っている。バーバーの作品は豊かな旋律が特徴的で、新ロマン主義音楽の作曲家に分類され、やはりイタリアに留学したハワード・ハンソンと並んで「最後のロマンティスト」と評される。ただし、いくつかの作品には、たとえば《ヴァイオリン協奏曲》のフィナーレにおける無調、《ピアノ・ソナタ》の中間楽章における12音など、現代的な要素も見られる。 ピアノ伴奏ないしは管弦楽伴奏の歌曲集は、とりわけ英語圏出身の歌手にとっては古典的なレパートリーとなっている。初版では弦楽四重奏とバリトンのための《ドーヴァー・ビーチ》、中世アイルランド無名作家による詩に基づいた《隠者の唄》、ソプラノと管弦楽伴奏のための《ノックスヴィル、1915年夏》などは特に有名である。《この輝ける夜にSure on this Shining Night 》作品13-3は、エリー・アーメリングなどのレパートリーにも入った人気の歌曲で、後にオーケストラ伴奏版も作成された。バーバー自身は優れたバリトン歌手であり、声楽の訓練も受けたことがあった。声楽家兼作曲家としてカーティス四重奏団と共に自作の演奏旅行をしたり、《ドーヴァー・ビーチ》などの自作の録音を残し、レコードが発売されたこともある。ただし、バーバーの声楽家としての録音点数は少ない。大規模な合唱曲として、《キルケゴールの祈り》(1954年)と《恋人たち》(1971年)がある。また、《弦楽のためのアダージョ》にラテン語の典礼文を載せた《アニュス・デイ》などの作品もある。 バーバーはまた優れたピアニストでもあり、舞台に立つことこそなかったが、1日の仕事を始める前に、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》などを弾く習慣があり、とりわけスクリャービンやラフマニノフのピアノ曲に傾倒したと言われる。また、ラフマニノフの使っていたピアノを所有していた。1949年に作曲された《ピアノ・ソナタ》はホロヴィッツによって初演され、国際的に有名な演奏家によって公式に初演された最初のアメリカ人作曲家によるピアノ曲と見なされている。この作品は、リチャード・ロジャーズとアーヴィング・バーリンが創設した楽譜出版社から出版されている。 その他の器楽曲のうち、純粋な管弦楽作品としては、弦楽合奏のためのセレナーデ、2つの交響曲(《第1番ホ短調》(1936年)、《第2番》1944年)、演奏会用序曲《悪口学校》(1932年)、《シェリーによる一景のための音楽》、3つの《管弦楽のためのエッセイ》(順に1938年、1942年、1978年)がある。 協奏曲では、《ヴァイオリン協奏曲 ト長調》、《チェロ協奏曲》、《ピアノ協奏曲》(1962年9月24日にジョン・ブラウニングとボストン交響楽団によりニューヨークで初演)がある。晩年にニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団からオーボエ協奏曲の作曲を依頼されたが、緩徐楽章を遺すにとどまった。この作品は後にチャールズ・ターナーによってオーボエと弦楽合奏のための《カンツォネッタ》として編曲され、バーバーの没後の初演では、当初から予定されていたオーボエ奏者ハロルド・ゴンバーグが引退した直後であったが、特にその演奏のために独奏者として一回だけ復帰し、ズビン・メータ指揮で演奏された。また《カプリコーン協奏曲》は、いくつかの独奏楽器と弦楽合奏のための、近代化された一種のコンチェルト・グロッソである。 バーバーにはいくつかの歌劇があり、40年余りの間私生活のパートナーだったジャン・カルロ・メノッティの台本による《ヴァネッサ》は、ニューヨークでメトロポリタン歌劇場において初演され、評論家や聴衆から圧倒的支持を受けて成功を収め、バーバーにピューリッツァー賞が授与された。しかしながらヨーロッパ初演では冷遇され、その後も国際的なレパートリーとなるまでには至っていない。フランコ・ゼフィレッリの台本による1966年の《アントニウスとクレオパトラ》の初演は失敗で、その後、ジャン=カルロ・メノッティの改訂が加わり、再演された。マーサ・グラハムのために作曲されたバレエ音楽《メデアの瞑想と復讐の踊り》は、印象主義的な部分と表現主義的な部分の交錯する晦渋な作風をとり、近年では一種の交響詩(あるいは舞踊詩)として演奏されるようになりつつある。 1981年、リンパ腺癌によりニューヨーク市内の自宅にて死去。
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