生涯前半
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赤尾敏は1899年(明治32年)1月15日、愛知県名古屋市の金物商の息子として生まれた。彼の父親は家業である織物業を継がず、中小企業者になって金物・木炭販売、漁業、牧場などを手広く経営しており、自由主義者の知識人であった。 高等小学校に入学した時に、ある教師から「太閤秀吉はぞうり取りから天下を取った」と言われ、「俺だって勉強すれば総理大臣になれる」との夢を抱いたという。その時から彼は総理大臣を将来の希望とした。
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生涯前半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 09:05 UTC 版)
1943年(昭和18年)、のちに陸上自衛官となる山口晋平と大衆作家村上浪六の三女夫妻の次男として、東京都台東区谷中で生まれた。次男として生まれたことから、晋平が姓名判断をした上で、「二の字に縁が多い」ことによって名前を二矢と名付けた。晋平は東北帝国大学出身の厳格な人物で、兄も学業に秀でていた。文化史家の村上信彦は伯父にあたる。 幼年時代から新聞やニュースを読み、国体護持の闘争に身を投じて政治家たちを激烈に批判し、早くから右翼思想を持った兄の影響を受けて右翼活動に参加することになった。中学から高校の初めまでは晋平の勤務地の関係で、札幌で生活した。1958年(昭和33年)玉川学園高等部に進んだが、晋平の転勤が発令されたため、札幌の光星学園へ転校。しかし、再び東京へ戻って玉川学園に転入した。兄の朔生は大日本愛国党党員で、1959年のメーデーの際に検挙され、それに刺激された二矢も赤尾敏の思想に傾倒して入党した。
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