牧野家の時代とは? わかりやすく解説

牧野家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 16:59 UTC 版)

小諸藩」の記事における「牧野家の時代」の解説

元禄15年1702年)に越後国与板藩より牧野康重1万5000石で入ることで、ようやく藩主家安定し廃藩置県まで藩主務めた。康重は、本庄宗資の4男で、牧野康道養子入った人で本庄氏一族連なったので、5代将軍徳川綱吉生母桂昌院義理の甥にあたる。康重には、特別な功労があったわけではないが、桂昌院との縁故により3万石領地与えられて、5万石並の格式である小諸城主に栄転となった。康重は綱吉従弟にあたるため、当初から実際は3万石上の領地与えられたが、格式1万5000石とされた。嫉妬批判警戒したためであろうとする説がある。小諸城主に着任後、牧野家は、熱心に新田開発取り組み180年間で、9000石を増産した(幕末実高内高とも云う〕は、39000石)。小諸藩主牧野家出自は、牧野康重祖父・康成が、長岡藩牧野家領地のうち1万石を分与されて、三島郡与板陣屋構えて立藩した譜代極小であった。また小諸藩牧野家は、長岡藩領地家臣団分与されたという由来があったため、本藩の長岡から政事上の監督を受け、家風長岡見習こととし家老人事をはじめ重要事項長岡藩内諾を得る必要があり、その旨誓約書長岡藩提出されていた。小諸実質3倍の栄転となった牧野家は、まず家臣団増員迫られた。その給源としてまず求められたのは古参足軽50人、同じく中間20であった。また高崎浪人暮らしをしていた上野国沼田藩真田家浪士数人程度、また信濃国郷士浪人数人程度士分として新規召し抱えをした。石高家臣員数とに比べて小諸城大きかったため、城下足軽多く長屋入らず門戸玄関を持つ一戸建て屋敷与えられた。これは諸藩比較した場合珍しい例である。享保年間、康重は朝鮮通信使来朝迎馬御用日光祭奉行務めたが、享保7年1722年11月8日死去した。 康重の跡を継いだ息子康周時代寛保2年1742年8月1日千曲川流域未曾有の大水害(「戌の満水((いぬのまんすい)」)が起こり濁流城下押し寄せた。三の門が流出したほか家屋多数流出し溺死中心に小諸藩だけでも死者584人が出るという大被害至ったその後水害起こりときには幕府に救金2000両を要請するほどであった。また康周は元文年間薬用人参栽培開始し年貢検見法から定免法改め延享4年1747年)には倹約令を出すなどして財政政策尽力したが、享保11年1726年)と享保14年1729年)に領内火事被害を受けるなど災害多かった。康周は宝暦8年1758年)に死去した3代・康満の天明3年1783年)、浅間山大噴火がおこり、凶作となった。ときの城代家老牧野八郎左衛門載成が噴火様子著述した日記現存しており、史料的価値が高いとされる3代康満の治世からその隠居後にかけて、康満が文化人として、また側室多く持ち子だくさんであったこと、旅行好きであったことなどで小諸藩が最も浪費放漫財政をした時期であった家老牧野八郎左衛門載成は失脚して閉門減石処分となった。なお、この浅間山噴火小諸領内荒廃して天明の飢饉始まり天明騒動という一揆起こったそれ以前にも康満は奏者番日光祭奉行務めており、寛保年間水害後始末もあって出費重なった天明4年1784年)、康満は息子の康陛に家督譲って隠居した。 第4代藩主康陛は、天明の飢饉復興のために藩政引き締め図り、「康陛公御代覚書」を出した。また藩財政補助のため、役料1万石が付く大坂加番嘆願して自ら就任した天明8年1788年)には倹約令出し70歳以上の者の隠居命じたりしたが、寛政年間入って台風により千曲川大洪水になって藩内は大被害を受け、また小諸荒町大火大被害を受けるなどする中で、康陛は寛政6年1794年1月死去。 第5代藩主康儔は奏者番になったが、わずか6年在任早世した。 6代・康長は学問家であり、文学奨励し文化2年1805年)、信濃における諸藩先駆けて藩校明倫堂開校した。この藩校では学問の他に剣術砲術馬術槍術必須科目とし、「父は義」・「母は慈」・「子は孝」・「兄は友」・「弟は恭」の五教明倫堂教訓として多くの子教育行なった家老稲垣源太左衛門正良を改易取り潰しにした。また油菜栽培奨励したりしたが、文政2年1819年)に隠居した。 跡を継いだ長の弟の康明は病弱で、在任8年早世。その跡を継いだ康命も病弱で、在任6年早世した。 9代・康哉は、井伊直弼大老派に属していた。奏者番安政5年1858年)に若年寄などの要職歴任して直弼懐刀となる。藩政では殖産興業務め天保の飢饉の際には被害大きく家中扶持米都合して急場凌いでいる。また西洋から種痘医術伝来したのを見て藩医江戸派遣してこれを学ばせた。そして天然痘苦し領民強制的に種痘実施した領民最初種痘信用しなかったため、康哉は我が子種痘実施して証拠見せた種痘その後実施され小諸藩全国諸藩先駆けて種痘2万人以上も実施されと言われている。財政改革中心とする藩政改革にも着手したほか、家臣俸禄制度にも切り込んだ綱紀粛正もはかり、過失非行繰り返す木俣氏から、家老家柄とりあげた。そのほか職務怠慢や、酒ばかり飲んでいる家臣遠慮なく懲戒処分としたり、隠居させた。また庶民に対して無謀な迷惑をかけた家臣懲戒処分とした。これらの詳細内容家臣姓名史料として現存している。また小諸城下の豪商小山久左衛門柳田兵衛高橋平四郎等を、特権的商人となし、産業経済醸成図ったが、果実得たのは、明治維新となった文久3年1863年)に最後藩主となった康済(康哉の子)の時には慶応2年1866年)には小諸騒動が起こる。このときは河井継之助調停によって解決している。慶応4年1868年)、康済は信濃追分において赤報隊戦ってこれに勝利したが、これが原因新政府逮捕された。その後岩倉具視碓氷峠守備などで功を挙げたため罪を許されたが、直後小諸騒動再燃して藩内で混乱続いた明治元年1868年11月9日新暦12月22日)、小諸藩主牧野康済は、家臣加藤六郎兵衛成美牧野馬成賢等に騙されて、家老ほか4名の斬首刑執行。これを知った家老1名は、出奔という事件がおきて混乱極め統治不能となった結局加藤六郎兵衛牧野求馬の謀略露見して、加藤は永禁固無期禁固)、牧野求馬は家は閉門本人禁固出獄後謹慎・刀取りあげ・親子兄弟外面禁止となったほか、加藤牧野求馬一派処罰された(詳細小諸騒動)。 藩主・康済は、明治2年版籍奉還により小諸藩知事となる。その後も藩内両派の確執続き江戸時代家老相当する大参事自前で出すことができず、本藩の長岡から大参事招聘した。 明治4年1871年7月廃藩置県により小諸県となり、康済は従五位下叙せられ、小諸県知事任じられた。同年12月小諸県長野県吸収された。 藩主家は、康済が康民と名を改めて、華族子爵)に列したが、その家督相続した康強は、妻帯をせずに子がないまま没したこのため公家出身嵯峨公勝・南加の男子嵯峨次郎養子牧野康熙改称)として辛うじて存続された。

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