牧野家の時代
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元禄15年(1702年)に越後国与板藩より牧野康重が1万5000石で入ることで、ようやく藩主家が安定し、廃藩置県まで藩主を務めた。康重は、本庄宗資の4男で、牧野康道の養子に入った人で本庄氏の一族に連なったので、5代将軍・徳川綱吉の生母、桂昌院の義理の甥にあたる。康重には、特別な功労があったわけではないが、桂昌院との縁故により3万石の領地が与えられて、5万石並の格式である小諸城主に栄転となった。康重は綱吉の従弟にあたるため、当初から実際は3万石以上の領地を与えられたが、格式上1万5000石とされた。嫉妬や批判を警戒したためであろうとする説がある。小諸城主に着任後、牧野家は、熱心に新田開発に取り組み約180年間で、9000石を増産した(幕末の実高〔内高とも云う〕は、3万9000石)。小諸藩主・牧野家の出自は、牧野康重の祖父・康成が、長岡藩・牧野家の領地のうち1万石を分与されて、三島郡与板に陣屋を構えて立藩した譜代極小藩であった。また小諸藩・牧野家は、長岡藩の領地と家臣団を分与されたという由来があったため、本藩の長岡から政事上の監督を受け、家風は長岡を見習うこととし、家老人事をはじめ重要事項は長岡藩の内諾を得る必要があり、その旨の誓約書が長岡藩に提出されていた。小諸に実質3倍の栄転となった牧野家は、まず家臣団の増員に迫られた。その給源としてまず求められたのは古参の足軽50人、同じく中間20人であった。また高崎で浪人暮らしをしていた上野国沼田藩・真田家浪士を数人程度、また信濃国の郷士や浪人を数人程度、士分として新規召し抱えをした。石高・家臣の員数とに比べて小諸城は大きかったため、城下の足軽の多くは長屋に入らず、門戸・玄関を持つ一戸建ての屋敷を与えられた。これは諸藩と比較した場合、珍しい例である。享保年間、康重は朝鮮通信使来朝の迎馬御用、日光祭礼奉行を務めたが、享保7年(1722年)11月8日に死去した。 康重の跡を継いだ息子康周時代の寛保2年(1742年)8月1日、千曲川流域で未曾有の大水害(「戌の満水((いぬのまんすい)」)が起こり、濁流が城下へ押し寄せた。三の門が流出したほか家屋も多数流出し、溺死を中心に小諸藩だけでも死者584人が出るという大被害に至った。その後も水害が起こり、ときには幕府に救金2000両を要請するほどであった。また康周は元文年間に薬用人参の栽培を開始し、年貢を検見法から定免法に改め、延享4年(1747年)には倹約令を出すなどして財政政策に尽力したが、享保11年(1726年)と享保14年(1729年)に領内の火事で被害を受けるなど災害も多かった。康周は宝暦8年(1758年)に死去した。 3代・康満の天明3年(1783年)、浅間山の大噴火がおこり、凶作となった。ときの城代家老・牧野八郎左衛門載成が噴火の様子を著述した日記が現存しており、史料的価値が高いとされる。3代康満の治世からその隠居後にかけて、康満が文化人として、また側室を多く持ち子だくさんであったこと、旅行好きであったことなどで小諸藩が最も浪費・放漫財政をした時期であった。家老・牧野八郎左衛門載成は失脚して閉門・減石処分となった。なお、この浅間山の噴火で小諸領内は荒廃して天明の飢饉が始まり、天明騒動という一揆も起こった。それ以前にも康満は奏者番・日光祭礼奉行を務めており、寛保年間の水害の後始末もあって出費も重なった。天明4年(1784年)、康満は息子の康陛に家督を譲って隠居した。 第4代藩主康陛は、天明の飢饉の復興のために藩政の引き締めを図り、「康陛公御代覚書」を出した。また藩財政補助のため、役料1万石が付く大坂加番に嘆願して自ら就任した。天明8年(1788年)には倹約令を出し、70歳以上の者の隠居を命じたりしたが、寛政年間に入って台風により千曲川が大洪水になって藩内は大被害を受け、また小諸荒町の大火で大被害を受けるなどする中で、康陛は寛政6年(1794年)1月に死去。 第5代藩主康儔は奏者番になったが、わずか6年の在任で早世した。 6代・康長は学問家であり、文学奨励し文化2年(1805年)、信濃における諸藩に先駆けて藩校・明倫堂を開校した。この藩校では学問の他に剣術・砲術・馬術・槍術を必須科目とし、「父は義」・「母は慈」・「子は孝」・「兄は友」・「弟は恭」の五教を明倫堂の教訓として多くの子弟教育を行なった。家老・稲垣源太左衛門正良を改易・取り潰しにした。また油菜の栽培を奨励したりしたが、文政2年(1819年)に隠居した。 跡を継いだ康長の弟の康明は病弱で、在任8年で早世。その跡を継いだ康命も病弱で、在任6年で早世した。 9代・康哉は、井伊直弼大老派に属していた。奏者番、安政5年(1858年)に若年寄などの要職を歴任して直弼の懐刀となる。藩政では殖産興業に務め、天保の飢饉の際には被害が大きく、家中の扶持米を都合して急場を凌いでいる。また西洋から種痘の医術が伝来したのを見て、藩医を江戸に派遣してこれを学ばせた。そして天然痘で苦しむ領民に強制的に種痘を実施した。領民は最初、種痘を信用しなかったため、康哉は我が子に種痘を実施して証拠を見せた。種痘はその後も実施され、小諸藩は全国諸藩に先駆けて種痘が2万人以上も実施されたと言われている。財政改革を中心とする藩政改革にも着手したほか、家臣の俸禄制度にも切り込んだ。綱紀粛正もはかり、過失と非行を繰り返す木俣氏から、家老の家柄をとりあげた。そのほか職務怠慢や、酒ばかり飲んでいる家臣は遠慮なく懲戒処分としたり、隠居させた。また庶民に対して、無謀な迷惑をかけた家臣も懲戒処分とした。これらの詳細内容と家臣の姓名は史料として現存している。また小諸城下の豪商・小山久左衛門・柳田五兵衛・高橋平四郎等を、特権的商人となし、産業経済の醸成を図ったが、果実を得たのは、明治維新後となった。 文久3年(1863年)に最後の藩主となった康済(康哉の子)の時には、慶応2年(1866年)には小諸騒動が起こる。このときは河井継之助の調停によって解決している。慶応4年(1868年)、康済は信濃追分において赤報隊と戦ってこれに勝利したが、これが原因で新政府に逮捕された。その後、岩倉具視や碓氷峠の守備などで功を挙げたため罪を許されたが、直後に小諸騒動が再燃して藩内で混乱が続いた。 明治元年(1868年)11月9日(新暦12月22日)、小諸藩主・牧野康済は、家臣の加藤六郎兵衛成美・牧野求馬成賢等に騙されて、家老ほか4名の斬首刑を執行。これを知った家老1名は、出奔という事件がおきて混乱を極め、統治不能となった。結局、加藤六郎兵衛・牧野求馬の謀略は露見して、加藤は永禁固(無期禁固)、牧野求馬は家は閉門、本人は禁固・出獄後は謹慎・刀取りあげ・親子兄弟以外面会禁止となったほか、加藤・牧野求馬一派は処罰された(詳細→小諸騒動)。 藩主・康済は、明治2年の版籍奉還により小諸藩知事となる。その後も藩内両派の確執が続き、江戸時代の家老に相当する大参事を自前で出すことができず、本藩の長岡から大参事を招聘した。 明治4年(1871年)7月の廃藩置県により小諸県となり、康済は従五位下に叙せられ、小諸県知事に任じられた。同年12月に小諸県は長野県に吸収された。 藩主家は、康済が康民と名を改めて、華族(子爵)に列したが、その家督を相続した康強は、妻帯をせずに子がないまま没した。このため公家出身の嵯峨公勝・南加の男子・嵯峨次郎を養子(牧野康熙と改称)として辛うじて存続された。
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