牧野家時代とは? わかりやすく解説

牧野家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 07:06 UTC 版)

与板藩」の記事における「牧野家時代」の解説

越後長岡藩初代藩主牧野忠成次男康成が1634年寛永11年)に三島郡与板1万石を分与され、長岡藩支藩として立藩した。上杉家家老直江兼続居城として知られ廃城となった与板城址の麓に陣屋置いて与板近辺支配した(現長岡市与板支所)。しかし、康成は領地得てから23年間、陣屋に移らなかった。 第2代藩主牧野康道の上家臣として、牧野野口加藤木俣諏訪真木稲垣平井・甲谷・小川太田惣士があった。1667年寛文7年)、突如として家老野口家改易され、一族召し放ち処分解雇)となり、牧野家家中から根こそぎ追放された。野口家は、家老のほかに2人要職にあった改易の理由は、江戸城から下城するにあたって、幼い藩主であった道の後詰め不備責められたものである藩主幼く、その父も他界していたので、藩主の強い意思なされた懲戒処分とは想像できない[誰?]。改易および一族事実上追放明らかに厳しすぎる処分であり、野口家権力闘争敗れたか、謀略よるものであると考えられている[誰?]。 1702年元禄15年)、牧野家信濃小諸藩1万5千石転封された。実高は3万石領地であったが、公称表高)は1万5千石抑えられた。これは、当時藩主である3代康重が将軍徳川綱吉の母・桂昌院実弟本庄宗資実子であるという縁から綱吉引き立てられ小藩ながら城持ち格式の高い小諸栄転させられたものである

※この「牧野家時代」の解説は、「与板藩」の解説の一部です。
「牧野家時代」を含む「与板藩」の記事については、「与板藩」の概要を参照ください。

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