牧野家由来説
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東三河の郷土史料の『牛窪記』に初出の説。徳川家康が今川軍の拠点の吉田城(愛知県豊橋市)を攻略した際に、後に譜代に列する東三河の牧野家の金扇の馬印を譲り受けたとするもの。後の牛窪密談記など、他の史料においても記述内容は微妙に異なるが、吉田城攻略の際にという日時場所は一致している。 『常山紀談』にある永禄六年牧野氏由来説 「金の七本骨の扇の御馬印の事/東照宮、金の七本骨の扇に日丸附けたる馬印は、参河の設楽郡牛窪の牧野半右衛門が印なりしを、永禄六年に乞ひ得させられて馬印となし給ふ。」 「夫より前の御印は厭離穢土欣求浄土の八字を書きたるにて、大樹寺の登誉が筆なり。其印明暦丁酉の火災にかかれりと言へり。然れども扇の御印は其前よりの事にや。天文十四年,公矢矧川にて織田家と軍ありし時・・・(以下略)」同上。 『牛窪記』にある説、「牧野家参神君大原退駿河事」 「其後天正十八年小田原御陣ニ。神君御馬印ニ右ノ金ノ扉ヲアソハシタル也。牧野半右衛門モ印ニ金の扉ナレハ。遠慮ニ思ヒサヽサリケルヲ。神君聞シメサレ。同縁不浅コトナレハ。同シ印モクルシカラスト御免ヲ蒙リケル。」 『牛窪密談記』の説。 「一、天正十八寅歳、小田原御陣に牧野半右衛門が馬印扇なり、家康公の御馬印も扇なれば半右衛門遠慮するところに、下地聖眼寺太子にての事仰せ出され、同様苦しからざる旨御免を蒙り、牧野家の誉なり。」 「一、家康公、吉田の城代大原肥前守御退治として、永禄八乙丑歳夏御出馬なり、牧野右馬允先陣を蒙りける下地村聖眼寺御本陣なり、右馬允つくつく思ふやうは、家康公の御手に属し初めての軍なれば、一手柄なくてはとて聖眼寺太子の御前にうづくまり、牧野家の馬印扇二本を太子の宮殿に籠めて暫く観念あり退出しけり、余人是を知らず、其後住持太子を拝しられけるに、件の扇仏前に有り、正しく御身より分身まきれしと、家康公言上有りければ、一本召し上げられ、残り一本は聖眼寺の什物と成る。」 『三河国宝飯郡誌』の説。下地村聖眼寺(豊橋市下地町)に伝わる。 「永禄七年吉田ノ城主小原肥前守鎮実ヲ攻メ給ハントテ、神君当寺ヲ陣営トナシ給フ。則チ聖徳太子ノ宮殿ニシテ、天下泰平ノ事ヲ祈り給フ。或夜御夢中ニ雙扇ヲ感得シ総フノ御奇瑞アリ。夫ヨリ一扇ヲ以テ馬幟トシ、牧野康成先陣ニ進ム。一扇ハ当寺ニ止メテ霊法トナサシメ給フ。即チ吉田城程ナク御手ニ入リシコソ奇特ナレ。馬標扇、延宝元年将軍家綱治世ノ砌、徳川家所蔵ノ扇ト照合アリテ由緒顕ハレ、年頭登城、白書院時服拝領スト云フ。」
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