牧野家由来説とは? わかりやすく解説

牧野家由来説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 22:49 UTC 版)

徳川家康の馬印」の記事における「牧野家由来説」の解説

東三河郷土史料の『牛窪記』に初出の説。徳川家康今川軍拠点吉田城愛知県豊橋市)を攻略した際に、後に譜代列する東三河牧野家金扇馬印譲り受けたとするもの。後の牛窪密談記など、他の史料においても記述内容微妙に異なるが、吉田城攻略の際にという日時場所一致している。 『常山紀談』にある永禄六年牧野氏由来説 「金の七本骨の扇の御馬印の事/東照宮、金の七本骨の扇に日丸附けたる馬印は、参河設楽郡牛窪牧野半右衛門が印なりしを、永禄六年に乞ひ得させられ馬印となし給ふ。」 「夫より前の御印厭離穢土欣求浄土八字書きたるにて、大樹寺の登誉が筆なり。其印明丁酉火災にかかれりと言へり。然れども扇の御印は其前よりの事にや。天文十四年,公矢矧川にて織田家と軍ありし時・・・(以下略)」同上。 『牛窪記』にある説、「牧野家神君大原退駿河事」 「其後天十八小田原御陣ニ。神君御馬印ニ右ノ金ノ扉ヲアソハシタル也。牧野半右衛門モ印ニ金の扉ナレハ。遠慮ニ思ヒサヽサリケルヲ。神君聞シメサレ。同縁不浅コトナレハ。同シ印モクルシカラスト御免ヲ蒙リケル。」 『牛窪密談記』の説。 「一、天正十八寅歳、小田原御陣に牧野半右衛門馬印扇なり、家康公の御馬印も扇なれば半右衛門遠慮するところに下地聖眼寺太子にての事仰せ出され、同様苦しからざる旨御免を蒙り、牧野家の誉なり。」 「一、家康公、吉田城代大原肥前守御退治として、永禄乙丑歳夏御出馬なり、牧野右馬允先陣を蒙りける下地村聖眼寺御本陣なり、右馬允つくつく思ふやうは、家康公の御手属し初めての軍なれば、一手なくてはとて聖眼寺太子御前にうづくまり、牧野家馬印二本太子宮殿籠め暫く観念あり退出しけり、余人是を知らず、其後住太子拝しられけるに、件の仏前有り正しく御身より分身まきれしと、家康公言有りければ、一本召し上げられ残り一本聖眼寺什物と成る。」 『三河国宝飯郡誌』の説。下地村聖眼寺豊橋市下地町)に伝わる。 「永禄七年吉田城主小原肥前守鎮実ヲ攻メ給ハントテ、神君当寺陣営トナシ給フ。則チ聖徳太子宮殿ニシテ天下泰平ノ事ヲ祈り給フ。或夜御夢中ニ雙扇ヲ感得シ総フノ奇瑞アリ。夫ヨリ一扇ヲ以テ馬幟トシ牧野康成先陣ニ進ム。一扇ハ当寺ニ止メテ霊法トナサシメ給フ。即チ吉田城ナク御手ニ入リシコソ奇特ナレ馬標扇、延宝元年将軍家治世ノ砌、徳川家所蔵ノ扇ト照合アリテ由緒ハレ年頭登城白書院時服拝領スト云フ。」

※この「牧野家由来説」の解説は、「徳川家康の馬印」の解説の一部です。
「牧野家由来説」を含む「徳川家康の馬印」の記事については、「徳川家康の馬印」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「牧野家由来説」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「牧野家由来説」の関連用語

牧野家由来説のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



牧野家由来説のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徳川家康の馬印 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS