牧野富太郎と池長孟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 06:38 UTC 版)
牧野富太郎は1916年(大正5年)12月、生活苦から収集した植物標本10万点を海外の研究所に売ることを決断する。 富太郎の窮状を知った渡辺忠吾は、『東京朝日新聞』に「篤学者の困窮を顧みず、国家的資料が流出することがあれば国辱である」との記事を書き、『大阪朝日新聞』がこれを転載した。 記事は反響を呼び、神戸から二人の篤志家が現れた。一人は久原房之助、もう一人が当時20歳で京都帝国大学在学中の孟であった。 12月21日、富太郎は壽衛子夫人と共に神戸に向かう。孟は父、通の遺産の中から3万円で標本を買い取り、改めて富太郎に寄贈しようと申し出た。感激した富太郎はこの申し出を固辞、標本は通が建てた池長会館に所蔵されることになり、会館は池長植物研究所と改称される。 これで富太郎は困窮時代の危機を脱することになる。また、孟は富太郎にその後も研究費を援助する。
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