牧野平三郎系とは? わかりやすく解説

牧野平三郎系

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:31 UTC 版)

三河牧野氏」の記事における「牧野平三郎系」の解説

平三郎系は牧野時成のとき元弘の乱1332年)で足利尊氏味方し、子の孝成が三州渥美郡内に恩賞の地数カ所を得たその子成国ときには三河守一色範光属し、その孫・平三郎成興は応仁の乱一色義直従い合戦に参陣したとされる。牧野平三郎系はその後応仁合戦西軍一色義直麾下として参陣したため疲弊し、その勢力著しく低下させたと思われ一色義直家臣牧野成興(平三郎)は文明8年1476年死去し、その主君義直将軍足利義政和睦認められ三河守護職を放棄したために、その後衰えた。成興の子忠高は継嗣がなく、一族牧野成種(出羽守)・成勝を養子としたと云うここまでは、牧野家系図家譜等の家伝のみで伝承の類である。 16世紀に入ると家伝以外の史料牧野氏記述あらわれて来る。駿河国大名今川氏に関係の深い、連歌師柴屋軒宗長の「宗長手記」によると大永7年1527年7月に、伊奈牧野平三郎方に宿泊したとの記事がある。 また天文13年1544年)に連歌師谷宗牧東三河訪れた際に牧野平三郎平四郎兄弟牛久保より出迎えた記事が「牛久保密談記」に見え、またこの牧野平三郎宝飯郡南端伊奈居住したといい、永禄年間1558年1570年)に一時伊奈本多氏代わり伊奈城であったともいう。 成種の系は牧野出羽守保成が継ぎ戦国大名今川義元庇護のもとに牧野一族実質的な惣領となったが、義元戦死後今川氏衰退とともに徳川家康屈して滅亡また、その弟・牧野貞成民部丞)は牛久保城主の牧野成勝(氏勝)の系を継いだとされ、天文年間初期6年頃)には牛久保城になった推定される。 しかし今川氏支配嫌った民部丞貞成は、弘治2年1556年)には今川義元城主地位から追放された。永禄4年1561年)には徳川氏当時松平氏)に転属養嗣子の成定(右馬允)も永禄9年5月には岡崎家康謁見を受け徳川氏服属した(「松平家康判物」『牧野文書12』(永禄9年5月9日1566年5月27日付け牧野右馬允成定宛))。こうして、家康との関係を強めたこの系統より、徳川譜代大名家の牧野氏生ずることになった

※この「牧野平三郎系」の解説は、「三河牧野氏」の解説の一部です。
「牧野平三郎系」を含む「三河牧野氏」の記事については、「三河牧野氏」の概要を参照ください。

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