牧野平三郎系
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平三郎系は牧野時成のとき元弘の乱(1332年)で足利尊氏に味方し、子の孝成が三州渥美郡内に恩賞の地数カ所を得た。その子成国のときには三河守護一色範光に属し、その孫・平三郎成興は応仁の乱で一色義直に従い京合戦に参陣したとされる。牧野平三郎系はその後、応仁合戦に西軍一色義直麾下として参陣したため疲弊し、その勢力を著しく低下させたと思われ、一色義直の家臣牧野成興(平三郎)は文明8年(1476年)死去し、その主君義直が将軍足利義政に和睦を認められ三河守護職を放棄したために、その後衰えた。成興の子忠高は継嗣がなく、一族牧野成種(出羽守)・成勝を養子としたと云う 。ここまでは、牧野家の系図・家譜等の家伝のみで伝承の類である。 16世紀に入ると家伝以外の史料に牧野氏の記述があらわれて来る。駿河国の大名今川氏に関係の深い、連歌師柴屋軒宗長の「宗長手記」によると大永7年(1527年)7月に、伊奈の牧野平三郎方に宿泊したとの記事がある。 また天文13年(1544年)に連歌師谷宗牧が東三河に訪れた際に牧野平三郎・平四郎兄弟が牛久保より出迎えた記事が「牛久保密談記」に見え、またこの牧野平三郎は宝飯郡南端の伊奈に居住したといい、永禄年間(1558年~1570年)に一時は伊奈本多氏に代わり伊奈城主であったともいう。 成種の系は牧野出羽守保成が継ぎ、戦国大名今川義元の庇護のもとに牧野一族の実質的な惣領となったが、義元戦死後は今川氏の衰退とともに徳川家康に屈して滅亡。また、その弟・牧野貞成(民部丞)は牛久保城主の牧野成勝(氏勝)の系を継いだとされ、天文年間初期(6年頃)には牛久保城主になったと推定される。 しかし今川氏の支配を嫌った民部丞貞成は、弘治2年(1556年)には今川義元に城主の地位から追放された。永禄4年(1561年)には徳川氏(当時は松平氏)に転属、養嗣子の成定(右馬允)も永禄9年5月には岡崎で家康に謁見を受け徳川氏に服属した(「松平家康判物」『牧野文書12』(永禄9年5月9日(1566年5月27日)付け牧野右馬允成定宛))。こうして、家康との関係を強めたこの系統より、徳川譜代大名家の牧野氏が生ずることになった。
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