歴史と由来
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奈良時代に糒を蜜などで固め豊作祈願として神に捧げられたものが起源とされる。室町時代には一部の貴族などの間で食べられていた。豊臣秀吉の大坂城築城により大阪は繁栄し「身を起こし、家を起こし、国を起こす」縁起の良い食べ物として人気を得ていった。大阪は江戸時代には「天下の台所」と呼ばれ経済の中心地であったため、良質な米や飴などの材料が比較的安価に入手できた。このことから粟おこしの製造が盛んに行われ、大阪を代表する菓子として全国に広まった。もともとは粟が原料であったが、やがて米などをおこし種に用いるようになった。 大阪の粟おこし、岩おこしには梅鉢の御紋が入れられるのが通例だが、これは太宰府に流される菅原道真が、潮待ちのため現在の大阪市上汐辺りで休憩していた時に、同情した老婆が菓子を献上すると、菅家の梅鉢の御紋が入った自分の着物の袖を老婆に与えて、感謝したことが始まりとされる。また大坂城に司令部を置いた旧軍の第四師団で、非常食として珍重されていたことでも有名である。
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歴史と由来
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昔大きな長い板や木箱にそばを盛り付け、農作等の共同作業や集会後に振舞ったのが由来とされている。本来は大きな木箱に盛られた山形風田舎そばを、複数の同席者で分け合って食べられていた。また、一緒に食べた人との仕事や人間関係のご縁が、水(縁)がこぼれ落ちる「ざる」ではなく、早く「板」に付きますよう(順調になりますように)との願かけと、細く長くそばに居られますようにとの縁起を担いで、「板そば」が振舞われ、仲間が揃った時に食べる縁起のいい〆の食べ物とされている。山形のそば屋では現在も2 - 3人前の板そばは、そば好きは1人で食べるのも普通であるが、数人で分け合って食べる為の5 - 12人前の大きな板そば用の木箱でも供されてる老舗そば屋もある。また、山形そばは(そばの実全粒を挽き二八が基本の「田舎そば」で)江戸そばと違い、色も黒く太切りで固いのが特徴で、江戸そばはそばつゆを少し付けて飲込み、のど越しの良さを味わうのが良しとされるが、山形の田舎そばは、呑み込めないほど固く太いが、噛めば噛むほどそば本来の味が出る噛むそばであり、また山形風そばつゆは、だしで割った薄めの味付けであり、そば全体をそばつゆに漬けて食べるのが、山形そばの正しい食べ方とされている。
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歴史と由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:02 UTC 版)
江戸時代後期(1814年)に刊行された『大坂繁花風土記』には、年越しそばに関する以下のような記述が残っている。 十二月三十一日 晦日そばとて、皆々そば切をくろふ。当月節分、年越蕎麦とて食す。 — 『大坂繁花風土記』 正月十四日 十四日年越とて、節分になぞらへ祝う。この日そば切を食ふ人多し。 — 『大坂繁花風土記』 このことから、遅くとも1814年には大阪で年越しそばが、年中行事として定着していたことが窺える。 さらに年越し蕎麦の起源を遡ると、江戸時代中期には商家に月の末日に蕎麦を食べる三十日蕎麦(みそかそば)という習慣があり、これが転じて大晦日だけに行われる年越し蕎麦になったと考えられている。年越し蕎麦に関する記録は江戸時代中期頃まで遡ることができる。その当時の江戸では江戸患い(脚気)が流行しており、「そばを食べている人は脚気にならない」という巷説が江戸での蕎麦の流行を後押しした。 年越し蕎麦に関する伝承としては、年を越してから食べることは縁起がよくないとするものや、蕎麦を残すと新年は金運に恵まれず小遣い銭にも事欠くことになるといったものがある。 1756年(宝暦6年)の『眉斧日録』には「闇をこねるか大年の蕎麦」と記述されている。明治時代・大正時代の大阪うどんの老舗では、商家でも「年越し蕎麦は注文が殺到した」と記述されている。1812年(文化9年)の旅行記(山伏寺住職・泉光院)によると、東北地方や甲信越では正月に祝い蕎麦を打つところもあった。 年越しそばの由来については諸説ある。 蕎麦は細く長いことから延命・長寿を願ったものであるとする説そばが細く長いことに由来する年越しそばの長寿延命の意味は、引越し蕎麦の「末永く宜しく」と意味を通じる。 金銀細工師が金箔を延ばす為にそば粉を用いたとする説 金銀細工師が金粉銀粉を集める為にそば粉の団子を使用したことから金を集める縁起物であるとする説 鎌倉時代の謝国明による承天寺の「世直しそば」に由来するという説 ソバは風雨に叩かれてもその後の晴天で日光を浴びると元気になる事から健康の縁起を担ぐ説 蕎麦が五臓の毒を取ると信じられていたことに由来するとの説 蕎麦が切れやすいことから、一年間の苦労や借金を切り捨て翌年に持ち越さないよう願ったという説 家族の縁が長く続くようにとの意味であるとの説 上記のうち、謝国明は博多にいた南宋商人である。飢饉の時、彼がそばがき状の蕎麦を人々に振る舞ったところ、食べた人が翌年に福に恵まれたことから、博多では年越し蕎麦を「福そば」「運そば」と呼び、年越し蕎麦の起源伝説としている。謝が渡宋を助けた仏教僧の円爾(聖一国師)は製粉技術を持ち帰ったと伝えられ、彼が開いた承天寺には「饂飩蕎麦発祥之地」碑が建つ。 「蕎麦(そば)」と「側(そば)」とを掛け、一年の締めくくりである大晦日に家族で蕎麦と共に食卓を囲むことで「来年もソバにいよう」という意味を込めたものとされる説もある。 薬味のネギについては心和らげるという「労ぐ(ねぐ)」の意味、あるいは、神職の「祢宜」の言葉に掛けた語呂合わせであるともいわれる。
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歴史と由来
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山岳信仰の栄えた戸隠には、古くから修験者が多く集まってきた。彼らの携行食料として、そばが戸隠にはいってきたと伝えられている。当時のそばは、現在のそばきりではなく、そばがき(蕎麦がき)やそば餅のような形態であったと考えられている。
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歴史と由来
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隋や唐の時代、市場は厳格な規制を受けており、官吏の管制で開店や閉店時間が決められていた。晩唐の時代に長安の崇仁坊で夜市が始まったと言われている。その後、洛陽、開封、揚州などに発展して行った。宋の時代に書かれた「東京夢華錄」などに、当時の夜市の様子が描写されている。 東南アジアの熱帯および亜熱帯地域では、昼間の高温を避けるため夜市が自然に発展していき、庶民の憩いの場・生活の場として愛されている。特に台湾では夜市が観光資源として重要な役割を果たしている。しかし、国が豊かになり、道路占有や食品衛生に関する法律が整備され、人々の嗜好も変化していく中、かつて日本の大都市から屋台が姿を消してしまったような事が起こる気配もある。観光目的や文化的な遺産として夜市を残したいという発想がある一方で、時代の変化の中でこれらのビジネスモデルがどのように変化していくのかは非常に興味深い所である。
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歴史と由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 17:50 UTC 版)
江戸時代中期において、庶民には米は高価だったことから、一般の「粟おこし」は「粟」や「ハトムギ」から作られていた。当時の大阪は商業地として発展し、米相場が開かれ、米・飴・砂糖の入手しやすかった状況があり、大阪人の食に対する創意工夫から、食材として米が注目され、粟の代わりに米を細かく砕いて作った米の粟おこしを開発したところ、評判を得たのが始まりとされている。(江戸時代に編纂された百科事典である『和漢三才図会』に製法が記載されている。)。 豊臣秀吉の大坂城築城により大阪は繁栄し「身を起こし、家を起こし、国を起こす」縁起の良い食べ物として人気を博していた。名前については、江戸時代に大阪の町で運河工事の際に大きな岩がたくさん出てきたことから「大阪の掘り起こし、岩起こし」 という大阪人の駄洒落に由来し、その固さにちなんで「岩おこし」の名が付けられた。 大阪の粟おこし、岩おこしには梅鉢の御紋が入れられるのが通例だが、これは太宰府に流される菅原道真が、潮待ちのため現在の大阪市上汐辺りで休憩していた時に、同情した老婆が菓子を献上すると、菅家の梅鉢の御紋が入った自分の着物の袖を老婆に与えて、感謝したことが始まりとされる。
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歴史と由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 22:55 UTC 版)
物を包む布としての起源は奈良時代に遡ることができ、正倉院宝物の中に舞楽の衣装包みとして用いられたものが残っている。この専用包みには、現在の風呂敷にはない中身を固定するための紐が取り付けられていた。また、伎楽衣装を包む「伽楼羅(かるら)包(本来は果冠に下が衣)」、子どもの衣装を包む「師子児(ししじ)包(同じく元の字は果冠に衣)」と言う呼称が用いられ、それらに収容する内容物が墨書されていた。 平安時代には「平裹」・「平包」(ひらつつみ)と呼ばれていて、庶民が衣類を包んで頭にのせて運んでいる様子が描かれている(「裹」は「裏」(うら)とは別字)。また、古路毛都々美(ころもつつみ)という名称も和名類聚抄にうかがえる。一方この時代、入浴することは心身を清めるための厳粛な行事であったため、裸ではなく白衣で入るのが作法であった。そのため入浴前後に、広げた布の上で服を更衣したが、この布を「風呂敷」と呼んだのが呼称の起源という説がある。この説によると、濡れた風呂衣を風呂敷に包んで持ち帰ることなどによって敷布としての役割から包んで運ぶ用途が加わっていくようになったと考えられる。 下って、室町時代の風呂は蒸し風呂のようなものであったため「むしろ」「すのこ」「布」などが床に敷かれていた。足利義満が大湯殿を建てた際、招かれた大名などが入浴する際に他者の衣服と間違えないよう家紋を付けた布に脱いだ衣服を包み、湯上りに際してこの布の上で装束を調えたという記録があり、この時用いられていた敷布が「風呂敷」と「平裹(平包)」の双方の役割を果たしていたものとしての最古の記録と考えられる。 このような入浴の際の習慣は、江戸時代にも継承されていた。江戸時代初頭、湯を張って入浴に供する商売:銭湯が誕生したが、元禄時代頃から江戸や上方の町では銭湯が盛んになり、庶民も衣類や入浴用具を「平裹(平包)」に包み持って銭湯に出かけている。風呂に敷く布で包むことから、「平裹(平包)」に代わって「風呂敷包み」や「風呂敷」と広く呼ばれるようになった。このようにして広まっていった包むための布としての風呂敷の呼称は、やがて「風呂で敷く布」から、「包む布」として行商人たちによって全国に広められていったと考えられる。
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