歴史と用法
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11世紀以降の西欧におけるローマ王(ラテン語:Romanorum Rex、ドイツ語:Römisch-deutscher König)とは、諸侯に選挙された神聖ローマ帝国君主が名乗った称号であり、ローマ教皇による正式な戴冠によって(西)ローマ皇帝となる前の君主を意味した。東フランク王から改称されたゲルマン人由来の称号であり、よってその王権が及ぶ範囲も旧東フランク王国、すなわち現在のドイツに限定されていた。教皇からローマ皇帝に推戴されない場合や対立王として立てられた場合、後世にはドイツ王と呼ばれることが多い。皇太子の称号としても用いられ、近世以降はこの意味に限定された。 中世初期にあった東フランク王国は、ザクセン人のハインリヒ1世が国王になった際、フランク人が統治する国でなくなったために単に「王国」、その王も単に「王」と呼ばれるようになった。対外的には「フランク王」、まれに「東フランク王」も使われた。これはオットー1世がイタリア王を兼ねてローマ皇帝となっても変わらなかった。何を統治するかを示さない単なる「王」の称号は、西欧全体に対する普遍的な権威を持つことを主張してもいた。そして「ローマ王」の称号が持つ権威は、より具体的にローマ・カトリック世界全体を覆う理念的「ローマ帝国」における世俗の頂点であることを示していた。いつから「ローマ王」の称号が使われだしたかは明確でないが、早くてザクセン朝のハインリヒ2世、遅くともザーリアー朝のハインリヒ3世からである。ローマ王の称号は教皇によって皇帝に戴冠される予定であることも示す聖なる称号であったが、11世紀の叙任権闘争で教皇グレゴリウス7世はローマ王ハインリヒ4世を「ドイツ王」(Teutonicorum Rex)の蔑称で呼んだ。これはハインリヒ4世の権威が局地的なものであって、カトリック世界全体にまたがるものではないことを示そうとするものであった。このときの記録で、ドイツ王国(ラテン語:Regnum Teutonicum)という名称も初めて現れた。しかしハインリヒ4世は、1084年に対立教皇クレメンス3世によって皇帝に戴冠されるまで、通常はローマ王(Romanorum Rex)を名乗り、その後もこの例に倣って歴代の君主は皇帝戴冠前にローマ王、戴冠後にローマ皇帝(Romanorum Imperator)の称号を用いた。
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歴史と用法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 17:08 UTC 版)
X.509の第1版は、1988年7月3日にX.500標準と関連して公開された。証明書を発行するための認証局(証明機関、Certificate authority、CA)の厳密な階層構造を規定している。PGPのような、特別な認証局だけではなく誰でも署名や他人の公開鍵の真正の確認ができるweb of trustモデルと対照的である。第2版は1994年に公開され、証明書の形式はv2となったが、ほとんど使用されていない。1997年の第3版で、証明書の形式がv3となり、証明書失効リストの形式がv2となった。2000年に第4版が公開され、標準拡張フィールドが 1 つ追加されたが、証明書や証明書失効リストの形式は第3版と同じである。X.509 v3の証明書は、ブリッジやメッシュネットワーク(RFC 4158)などの他のトポロジをサポートする柔軟性を備えている。OpenPGPのようなピアツーピア方式のweb of trustモデルもサポートしているが、2004年現在でもほとんど使われていない。X.500システムは今まで完全に実装されたことがない。 実際のところ、X.509証明書という言葉は大抵の場合IETFの RFC 5280 Internet X.509 Public Key Infrastructure Certificate and Certificate Revocation List (CRL) Profile(インターネットX.509 PKI: 証明書と CRL のプロファイル)のことを指す。これを意味する用語として、PKIXも用いられる。PKIXは、RFC 5280の3. Overview of Approachにおいて、Public-Key Infrastructure using X.509の略として登場している。
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歴史と用法
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このフレーズは、少なくとも2001年にはガリー・アームストロングとリチャード・ジュリアノッティがFear and Loathing in World Footballという共書の中で用いている。1968年のインターコンチネンタルカップではアルゼンチンのエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタがイングランドのマンチェスター・ユナイテッドFCを破ったが、その際にアルゼンチンのスポーツ誌であるエル・グラフィコ (El Gráfico) の1968年版が、エストゥディアンテスに対して使用した言い回しの引用であった。2002年の2002 FIFAワールドカップの際には、ブラジル代表の優勝を助けた戦術を批判する意味合いでヨハン・クライフがこの単語を用い、「ブラジルは優勝するに値したが、彼らはひとつのチームではなかった。彼らはアンチフットボールを行い、対戦相手のミスを利用するだけでよかった」と述べた。 2003年のUEFAチャンピオンズリーグ準々決勝で、スペインのバレンシアCFがイタリアのインテルナツィオナーレ・ミラノと対戦して敗れた際、バレンシアCFを率いていたラファエル・ベニテス監督は相手のプレーをアンチフットボールだと非難した。2004年、FCバルセロナのフランク・ライカールト監督は、マーティン・オニール監督率いるセルティックFCの戦術をアンチフットボールと呼んだ。ライカールトは「(1-1で引き分けたため)私は観客に申し訳なく感じたが、セルティックFCのプレーはアンチフットボールだ。彼らは5人が横に並んだラインを2列も形成した。統計が語ってくれるが、我々は約70%のボール支配率を記録した」と述べた。2006年11月、アーセナルFCのセスク・ファブレガスは、ウェストハム・ユナイテッドFCに0-1で敗れた後に「両チームは守って守って守るばかりで時間を浪費しようとした。僕はこの試合をアンチフットボールと呼ぶ。我々はこの出来事を受け入れ、やめなければならない」と発言した。 2007年、イギリスのデイリー・テレグラフは、かつてジョゼ・モウリーニョ監督に率いられたチェルシーFCのプレースタイルを表現する際にこのフレーズを使った。ガーディアン・アンリミテッドのスポーツブログでも、ファビオ・カペッロ監督の下でのレアル・マドリードのプレースタイルをこう呼んだ。2007年10月23日、FCバルセロナのリオネル・メッシは、UEFAチャンピオンズリーグで対戦した(アイブロックス・スタジアムでの試合は0-0の引き分けに終わった)レンジャーズFCのプレースタイルをアンチフットボールであると言及した。レンジャーズFCは、FCバルセロナ戦の数週間前に行われたオリンピック・リヨン戦で3-0の勝利を収めていたが、この際のアラン・ペラン監督のチームもアンチフットボールであると非難されていた。 2010年、東南アジアサッカー選手権のグループリーグで、ベトナム代表がフィリピン代表に0-2で敗れた際、ベトナム代表のエンリケ・カリスト(英語版)監督は、相手の戦術がアンチフットボールであったと語った。2010年、FIFAワールドカップ決勝のスペイン代表対オランダ代表戦で、クライフは再びアンチフットボールという単語を使用したが、今度は母国のオランダ代表に対しての言及であった。決勝の翌日、クライフはオランダ代表が長い間継続してきた攻撃的で魅力的なプレーを放棄したとし、「オランダ代表はボールを欲しなかった。そして残念なことに、彼らはとても汚いプレーをした。私は2度の醜いタックルにショックを受けたが、彼らはただちに9人でプレーするべきであった。醜く閉ざされ、下品で耐えがたく、人の注目を集めないこのスタイルはオランダ代表を不安定にした。たとえオランダ代表の選手にとっては満足でも、結局彼らは負けてしまった。彼らのプレーはアンチフットボールだ」と発言して代表を糾弾した。大会中には、クライフ以外の解説者もオランダ代表に対してアンチフットボールという表現を使用しており、特に決勝のプレーぶりに対して言及された。 ただし、これらの「アンチフットボール」を用いた例において、言葉の意味についての統一的な見解が示されているわけではなく、何をもって「アンチフットボール」と呼んでいるかの基準が明確でない点については留意が必要である。
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