征長問題とは? わかりやすく解説

征長問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:28 UTC 版)

松平容保」の記事における「征長問題」の解説

8月2日将軍家上洛促すため家臣野村直臣広沢安任江戸へ派遣した。しかし老中面々からは謁見許し出ず8月19日、容保は再び書面にて関東提出。「…なにとぞ一刻早々進発あそばされ候よう仰望奉り候。万一遅延相成り候ようにては、自然気勢弛み顧慮傍観の念を生じ候やも計り難く、兵は拙速貴ぶともこれあり、くれぐれも急速に進発…」 8月28日江戸へ派遣中の家臣太一郎よりの報告には「着後は御城にて御目付衆に申し上げ候までにて未だ閣老方へ拝謁も仕らず、遂に激論に及び候えども、いつも空しく帰り次第。せっかく諸藩憤発候とも瓦解懸念あり」 9月2日、容保の病気を心配した孝明天皇より「天下多事今日一日早く全快するよう」と内々煎薬菓子賜わる9月5日孝明天皇より禁門の変戦功として勅賞と御剣賜わる9月6日孝明天皇内侍所出向き容保の病気早く治るよう祈り、その洗米を容保は賜わる9月17日将軍家進発幕府死活関わる考える容保は、老中人々形勢にうとく征長を重要視しないことを深く憂え将軍徳川家茂直に書を奉った。以下抜粋「…禁門発砲致し候程の者を御征伐のための御進発遅緩相成り候ては、天朝尊崇筋へも相響き、せっかく一心一致して勇躍奮起仕り諸藩追々瓦解致すべく、中興御大業いかがあらせらるべきかと…」 しかし、江戸にある会津重臣からの知らせにも「昼夜奔走致しおり候儀に候ところ、御憤発の御様子いちじるしく相見えざる段、当惑の事に候」とあり、「あまりに迫って申し上げた閣老方にもっとも嫌われ目付にも嫌な顔をされる」とまで言っている。 10月25日孝明天皇より短刀と勅状を賜る。「国家のためじつに励忠、出格の廉、殊に七月以来の苦勤を厚く褒賞なされ候事」 10月29日朝廷では「将軍家再三長州征討勅命下しているのに未だその様子もない。もはや専命の勅使将軍家発するほかはない」と朝議にて決定。容保はこれを聞きしかしながらそれにては将軍家御威光立たず」と、勅使引き留めるよう願い出再度将軍家親書奉る。「この上延引相成り候ては勅使いよいよ差し下され候」 しかし幕府内では財政難士気低下などから、互いに責任転嫁し、軍勢見せれば降伏するだろうという、旧態依然権威捉われ風潮のままであった12月27日、容保の意に反し、征長総督徳川慶勝が解厳の令を発し長州攻め陣払い命じる。 元治2年慶応元年1865年31歳 1月4日徳川慶勝から朝廷毛利敬親父子伏罪の状を上奏、よって長州処置のために、朝廷より将軍家再度上洛要請する。しかし幕府では「ひたすら悔悟伏罪致し、長防共鎮静したならば上洛の必要はない」とした上に、「毛利父子三条以下脱走公卿江戸へ護送せよ」と命じるなど勅に反した一方朝議では諸大名召して意見させようとした。 容保はこの状況見聞し憂悶絶えず「幕府有司達が朝旨顧みずみだりに旧態権威依存し得意になっている迷夢厳しく警告しまさなけれならない。と同時に朝議また、先に幕府政治委任する聖詔出しておきながら今また勅を下し諸侯を召さば、政令二途になり物議紛乱を招くだろう幕府有司の京の事情に暗いことは、遂には朝令に反し結果公武の間の不協和をきたすこと図り知れない」として、諸侯召す命の延期請い同時に幕府有司の無経験陳弁する。そして「みずから江戸へ出向き天皇真意をよく説き諭し将軍家と相携え速やかに上京する」旨を内奏許可される1月幕府より阿部正外松平宗秀上京する2人に京の情勢上洛長の重要性説き、正外が将軍家上洛の任に、宗秀が大阪にて征長のことにあたることになり、これにより容保の東下見送られた。 4月28日、召により参内孝明天皇拝謁し病気快癒について優渥な恩詔賜る。容保は感泣してこれを拝した5月22日将軍家入京将軍家へ征長の勅書伝えられる。容保も参内し迎え入れる。 閏5月24日将軍家二条城発して大坂城へ。容保も28日大坂至り一心寺に館を決め日々登城する6月15日帰京9月1日、京の官邸完成し、ここに移る。 10月2日老中小笠原長行らが突然伏見まで来て何かを上奏ようとしていることを聞き、容保が馬を飛ばし駆け付け何事か」と問うと、「一つ兵庫開港勅許一つ将軍職慶喜卿にゆずることの奉請である」と答えたそのような重大事慶喜自分説明相談もなく朝廷奉じようとしたことに、容保も家臣茫然自失した。この日、この件が将軍家から上奏される。 10月3日将軍徳川家茂大阪発して帰する報告が入る。容保は愕然として立ち上がり今将軍家が東帰すれば大事はことごとく去る。引き止めねばならぬ」として馬を飛ばした。「陸路である」「海路である」など、定まらぬ情報飛び交う中、淀橋伏見駆け回り、ようやく翌日未明伏見にて家茂拝謁する。容保は「開港の事は天皇至誠尽くして情勢説明し奉請すれば必ず理解頂けるまた、征長を中途にして東帰すればたちまち天下人心失いこれを挽回するのは不可能である。願わくば二条城にて朝旨奉じ庶績を上げるように」と再三申し上げ家茂もようやく心を開き、東帰を取りやめた。 10月4日条約勅許奉る10月5日、容保は家臣諸藩遊説させ、遂に十余藩の会議持ち込み開港勅許をえることに成功する。容保は守護職就任してからそれまで攘夷不可能なことを知りながらも天皇意思攘夷であったことから、心中では天皇意思が変わることを望みながらも謹んで天皇に奉従してきた。この日、初め条約問題解決した12月22日西国視察出た近藤勇から「長州表向き謹慎恭順しているが、裏では戦闘の準備進めている」との報告慶応2年1866年321月幕府では長州処分を「10万取り上げ」と決まり朝廷においても裁可されたが、長州ではその命を奉じ備中倉敷などで挙兵行動出たため、幕府軍進発6月には戦端開かれた7月20日将軍徳川家茂大阪城病死した。容保は哀痛の情の中であったが、情勢一変し薩摩藩挙動変え、征長軍と長州戦闘敗報がしきりに続いた7月22日薩摩藩幕府失体を条挙し、長州救解上奏した。容保は奮然として「長門藩兵が勢い乗じて近畿に迫ることがあれば京の薩摩兵は必ずこれに応じであろうしからば前門の虎、後門の狼となり、なすすべがなくなる。座して敵の来るのを待つよりも、我から機先を制するしくはない。すなわち京師守護所司代譲り、みずから在京の兵を引き連れて石州口から進み慶喜卿は山陽道の軍を監督し互いに約して勝敗一挙に決めれば、他の諸軍も軍気を挽回することができよう」として、慶喜老中出征催促した。しかし慶喜は「肥後守が京から離れれば朝議がたちまち一変する恐れがある」としてひたすらに許さない8月11日、さらに続く敗報慶喜休戦評議にかかる。容保は大い不可として慶喜争ったが容れられず。 容保は書簡呈する。以下抜粋一つ将軍家決定勅命をもって諸藩出兵仰せ付け粉骨をつくし藩あり、城を失いし藩あり。しかるに今に至り筋道反していない幕府側が解兵を言い出せば、上は天朝、中は諸侯、下は万民への信義立たせざること。 一つ奉命尽力諸藩見殺しなされ武道に於いていかがこれあるべきや。 一つ違勅をもって賊名負いし者に、再勅出しては、義賊分明せず。忠否乱れ天下耳目違乱致し事。 一つ長州休戦応じ勢い乗じ押し寄せる至りては、一度惰気相成り人衆の奮発、これあるまじき事。 一つこれまで天幕の命に応じ攻めかかり諸藩長州より報復致し候わば、いかがいたすのか。 一つ天前において仰せ立てられ件々ことごとく相反し節刀をも賜り申訳これなく。勅諚改めとなってこれまでのことも皆偽勅と相成り申すべき事。 しかし慶喜老中も容保の意見聞かず、容保はただただ慨嘆するのみであった10月17日、容保は「中納言慶喜)は京に於いて内外諸制の革新実行に移す。不肖守護職嘱望集めて対立するようなことがあっては新立の将軍家にとって有害であろう」として守護職辞職申請。しかし老中より却下されるこの間過激派公卿勢い付き巻き返し図り二条殿下・中川宮を威嚇し辞職追い込むよう画策しまた、八・一八の政変の際に追放され公卿復権など上奏したが、孝明天皇怒り触れ退けられている。 12月25日孝明天皇突然の崩御。容保は最も頼りにして忠義尽くしてきた2人続けて失くし、公武一和の策を失うことになる。「これを私にしては数回優渥聖詔髣髴として今なお耳にあり、当時追想する毎に哀痛極りて腸を断んとし、暗涙千行満腔遺憾はどこにも訴える所なく、遂に慶応二年も暮れ行きぬ」と容保は回想している。

※この「征長問題」の解説は、「松平容保」の解説の一部です。
「征長問題」を含む「松平容保」の記事については、「松平容保」の概要を参照ください。

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