こきんわかしゅう〔コキンワカシフ〕【古今和歌集】
古今和歌集 (こきんわかしゅう)
古今和歌集(彩牋) (東京都)
古今和歌集(彩牋)(元永本)
主名称: | 古今和歌集(彩牋)(元永本) |
指定番号: | 4 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1951.06.09(昭和26.06.09) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 元永三年七月廿四日奥書(上巻) |
員数: | 2帖 |
時代区分: | 平安 |
年代: | 1120 |
検索年代: | |
解説文: | 上下2帖冊子形の本で,平安時代書写の『古今和歌集』として唯一の完本である。上巻奥書に「元永三年(1120)七月の廿四日」と書写年代を明記し,世に「元永本古今集」と称される。料紙に美麗な彩牋を用い,書風も優れた国文学,書道史上の名作である。 |
古今和歌集〈(色紙)/(曼殊院本)〉
主名称: | 古今和歌集〈(色紙)/(曼殊院本)〉 |
指定番号: | 90 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1952.03.27(昭和27.03.27) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 平安 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 平安時代の作品。 |
古今和歌集〈藤原定家筆/〉
主名称: | 古今和歌集〈藤原定家筆/〉 |
指定番号: | 204 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1938.07.04(昭和13.07.04) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 永仁二年京極為兼並ニ冷泉為相ノ奥書アリ |
員数: | 1帖 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
古今和歌集〈藤原定家筆/〉
主名称: | 古今和歌集〈藤原定家筆/〉 |
指定番号: | 270 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1983.06.06(昭和58.06.06) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 嘉禄二年四月九日書写奥書 |
員数: | 1帖 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | 1226 |
検索年代: | |
解説文: | 藤原定家(一一六二~一二四一)が嘉禄二年(一二二六)に書写した『古今和歌集』(二十巻)で、中世以降の『古今集』研究に多大の影響を与えたいわゆる「嘉禄本古今集」の原本である.帖の末尾に嘉禄二年、定家六十五歳の時に書写した旨の奥書があり、その奥に定家の子為家がその子の為相にこの本を譲与した旨の奥書がある。本文中には定家自筆になる和歌の書入れ、校合注記、人名や場所等の勘物書入れ、朱点などが稠密に付されており、定家の『古今集』研究の跡を伝えている。 附の文書は、室町時代にこの『古今集』を冷泉家から借用披見された三代の天皇の礼状で、冷泉家における伝来を伝えている。 |
古今和歌集(清輔本)
主名称: | 古今和歌集(清輔本) |
指定番号: | 1604 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1953.11.14(昭和28.11.14) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 本奥書、永治二年中呂上旬書写 |
員数: | 2帖 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
古今和歌集〈巻第二、第四断簡/(亀山切十七葉)〉
主名称: | 古今和歌集〈巻第二、第四断簡/(亀山切十七葉)〉 |
指定番号: | 1850 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1958.02.08(昭和33.02.08) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | |
員数: | 1帖 |
時代区分: | 平安 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 平安時代の作品。 |
古今和歌集〈上下/〉
書跡・典籍: | 古今和歌集 古今和歌集 古今和歌集 古今和歌集 古今和歌集巻第一、二残闕 古今和歌集巻第一巻首 古今和歌集巻第九断簡 |
古今和歌集
古今和歌集
古今和歌集
古今和歌集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:07 UTC 版)
古くは、『古今和歌集』(905年)第14巻の詠み人知らずの歌に、 さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫 と現われている。 歌の世界ではしばしば伝説と異なり、橋姫は愛らしい女性としてロマンチックな歌に現われた。
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古今和歌集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 04:17 UTC 版)
従来の古典文法に呪縛された解釈を全面否定し、新たな解釈を提示した。 万葉集・古今和歌集・新古今和歌集を素朴・観念的・幽玄だとする従来の認識について、「借字(※これは小松英雄の考案した用語)による表記から仮名だけの表記へ、そして、漢字と仮名との交用による表記へという、和歌の書記様式の転換と密接に連動して生じた、抒情表現の深化と捉えるべき」だとした。 また、古来、謎とされてきた、巻十九冒頭に「短歌」という標目で長歌が収録されていることについても新しい解釈を提示した。
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古今和歌集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 00:07 UTC 版)
最初の勅撰和歌集「古今和歌集』(延喜5年(905年))の序文「仮名序」 に、貞観11年(869年)の貞観津波は「まつ山のなみ」として取り上げられ、「あるは、まつ山のなみをかけ、野中の水をくみ、秋萩の下葉をながめ、暁の鴫の羽掻きをかぞへ、あるは、くれ竹のうきふしを人にいひ、吉野川をひきて世の中を恨みきつるに、今は富士山の煙もたたずなり、長柄の橋もつくるなりと聞く人は、歌にのみぞ心を慰めける。」と記されている。 「末の松山」が詠まれた歌は『古今和歌集』に二首収録された。一首は巻第六の「冬歌」に収められている。 寛平御時后宮歌合の歌 藤原興風浦近く 降りくる雪は 白波の 末の松山 越すかとぞ見る 藤原興風は、生没年不詳の平安時代の歌人で、三十六歌仙の一人とされ、相模掾正六位上道成の男で、自らも昌泰3年(900年)に相模掾となっている。貞観津波の同時代を生きた東国ゆかりの人物であることは間違いなさそうであるが、実際に陸奥国を訪れたことがあるかは定かではない。そもそも貞観津波の発災は夏五月であり、冬ではなく、すでに実景からはかけ離れた虚構の文学世界の表現となっている。この歌は詞書にもあるように、寛平初年(889年)ごろに開催された歌合の作品からの収録である。本来歌合は相手と歌の優劣を競い合う競技の場であり、興風の歌の相手は次のように応じている。 「雪ふりて 年の暮れゆく 時にこそ つひにもみぢぬ 松も見えけれ」 古今和歌集には、上句が「雪降りて 年の暮れぬる 時にこそ」と改められ、掲載されている。両者ともに、雪の白と松の緑の対照のなかで作品を絵画的に構成している。また、興風の歌が成立する前提として「末の松山」に関する知見が必要であり、古今和歌集の巻第二十に収められた「東歌」がすでに都には伝わっていたものと考えられている。 陸奥歌君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波も越えなむ あなたを差し置いて「あだし心」を私が持てば、あの末の松山は波も越えてしまうでしょう。「あだし心」は他心の意と不実の意とを掛けるとし、男女どちらが歌ったともとれる平易で明解な民謡風の歌と評されている。また、季節を特定できる内容ではなく、貞観津波に関する『日本三代実録』の記述とも齟齬はない。問題は、こうした解釈の通りであれば、災後わずか20年を経ずして、溺死者千人ばかりを出した大惨事の舞台が男女の恋心の歌として相対化され、都に聞こえるまでになっていたことである。
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「古今和歌集」の例文・使い方・用例・文例
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