シリーズの終了
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「もうすぐ夜明けABC」の記事における「シリーズの終了」の解説
朝日放送では、当番組の日曜放送を、2017年10月1日で終了。翌週(10月8日)からは、同年のナイターイン期間に特別番組として2回放送していた『霜降り明星のだましうち!』(霜降り明星初の冠番組)が、事前収録によるレギュラー番組として日曜版の放送枠を引き継いでいる。 火 - 土曜版については、2017年10月以降も放送を継続。同月から発売を開始した「ABCラジオカレンダー」の2018年版にも、3月分が当番組のPRに宛てられていた。しかし実際には、2017年12月30日放送分で、『夜は、おととも』と合わせて終了。『もうすぐ夜明けABC』の開始から34年3ヶ月にわたった番組シリーズの歴史に終止符を打った。最終日のパーソナリティは安井ゆたかで、『もうすぐ夜明けABC』の4時台には、安井以外の火 - 土曜版最後期のパーソナリティ(尾崎、内田、高野、阪口)もリスナーへの挨拶を兼ねて全員出演。最後に流れた楽曲は、『夜は、おととも』が「笑顔のまんま」(BEGIN with アホナスターズ)、『もうすぐ夜明けABC』が「明日に架ける橋」(サイモン&ガーファンクル)であった。 朝日放送では、放送最終週に当たる2017年12月25日(月曜日)の午後に、公開収録と連動した「さよならイベント」をABCホール(大阪市福島区)で開いた。このイベントには、上記の火 - 土曜版最後期のパーソナリティ5名が一堂に会したほか、歴代のパーソナリティ経験者から桶村、三島、阿部、藤原、倉森、松葉の6名が出演。『もうすぐ夜明けABC』シリーズのパーソナリティではなかった三代澤康司(朝日放送アナウンサー)が進行役を務める一方で、三代澤の上司に当たる道上洋三や、『もうすぐ夜明けABC』のオープニングテーマを歌う島津などからビデオメッセージが寄せられた。
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シリーズの終了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 14:08 UTC 版)
本シリーズの企画者は、岡田茂とともに梅宮辰夫を売り出した園田実彦といわれ、園田は「映画のプロデュースに霊感はつきもの」との観点から卦を立てて映画をプロデュースしていたといわれた。しかし1960年代後半に起きた園田や岡田、今田智憲、伊藤義ら活動屋重役と大川博社長の息子・大川毅専務との確執から興った東映お家騒動がイヤになり、1969年『夜の歌謡シリーズ 港町ブルース』撮影中に突如失踪、日活にヘッドハンティングされ、日活のプロデューサーに収まり、日活で『ハレンチ学園』をプロデュースし、社会現象を捲き起こした。 シリーズ最終作となった『夜の演歌 しのび恋』は、1974年2月15日の東映番組発表では上がらなかったが、2月に公開された『聖獣学園』の興行が大惨敗し、岡田茂東映社長が腹を立て、長年製作を続けた東映ポルノの製作中止を発表し、「今後は実録ものとギャングもの、それに歌謡路線を強化していく」という新方針を打ち出したことで製作が決まったもので、5日後の1974年2月20日にまた番組発表があり、『夜の演歌 しのび恋』として製作が発表された。『夜の演歌 しのび恋』と同時期に海援隊の大ヒット曲「母に捧げるバラード」を基にした歌謡映画の企画が東映で挙がり、武田鉄矢は1977年の『幸福の黄色いハンカチ』より前にこの作品で俳優デビューが予定されていた。監督は鈴木清順と発表され、1967年の『殺しの烙印』以来の復帰作として注目されたが、これに出演オファーをされていた岡田裕介が脚本を読み、自宅で父の岡田茂に「こんなホンで東映はよく映画を作っているね」と言ったら、岡田もホンを読み「確かに酷い」と認め、岡田茂は翌朝、出社するなり社内で怒鳴り散らし「母に捧げるバラード」の企画を出したプロデューサーをクビにし企画も潰したという。
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シリーズの終了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/21 22:30 UTC 版)
シリーズ終了の理由は、学研レモン文庫の市場撤退のため事前の勧告もないままの打ち切りによるものであった。そのため著者が構想していた最終回は消え、一巻完結形式とはいえ著者と読者双方共に悔いを残すものだった。後に一般小説の分野に執筆の場を移すようになった著者は、ライトノベル出身の作家が一般誌に移ることが世間的にはステップアップだと言われていることに対し「私はライトノベル界を卒業したのではなく、放逐されたのです。私がライトノベルを棄てたのではなく、ライトノベルが私を棄てたのです」と記している。 学研レモン文庫から発刊されていた作品群の中で、このシリーズだけが復刊されるに至った理由を、文芸評論家の細谷正充は「ユーモラスな作品は他の作家も書いていたが、ここまで“お笑い”に徹したものは少女小説では初めてだったのではないか」と、突出したギャグ要素が年若き読者を惹きつけ、大人となった読者の心にもその存在を残し続けたからではないかと語っている。 著者曰く「心やさしき変人たちのお話」。
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シリーズの終了
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「電撃大賞 (ラジオ番組)」の記事における「シリーズの終了」の解説
2015年3月28日の放送をもって、1994年10月から始まった『電撃大賞クリス・クロス』から続いた本シリーズは20年半の放送に幕を降ろした。最終回は歴代パーソナリティをゲストに交えて、番組のフィナーレを飾った。
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シリーズの終了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 02:56 UTC 版)
シリーズ終了の経緯については諸説ある。本シリーズは、第3作『望郷一番星』から第8作『一番星北へ帰る』まで4週間(28日間)の興行を打っていたが、1979年12月公開の第10作『故郷特急便』は、当時テレビ映画もどきと評された併映作『夢一族 ザ・らいばる』に足を引っ張られ、極端の不振で予定より4日早めて24日間で打ち切りられたとされ、『動乱』が繰り上げ公開されたといわれる。 第10作は2人のマドンナを迎え、これまでの大ヒットには及ばないとはいえ、多くの観客を集めた。シリーズはすべてヒットし、盆と正月に公開される東映の興行の柱であった。打ち切りの通達が発表される直前まで鈴木は、第11作として山陽・山陰路や夏の秋田、冬の北海道といったロケ地を打診していた。 菅原文太は「10億円を切ったって嫌みを言われたから俺の方からやめたんだよ」と話している。また菅原は「『トラック野郎』は喜劇だろう。苦痛だったね、早くやめたいと思っていた。自分の中にないものを無理やり出してたからな。やっぱり『仁義なき戦い』みたいなのが楽なんだよ、地でやれるからね。それでもお客さんが喜んでくれるんだからやらにゃ仕方ない。会社も儲かるからやれっていう。そのあたりで自分なりの葛藤があった」などと話している。 『映画秘宝』は「岡田茂社長が『動乱』や『徳川一族の崩壊』、『二百三高地』といった大型戦記ものや時代劇大作を稼ぎどきにぶつけ、収益広大を目指したため打ち切った」と論じている。 1980年1月12日の日本経済新聞には「東映は大作路線の強化、安定を図るため、かせぎ時の正月、夏休み興行でドル箱シリーズとなってきた『トラック野郎』を現在公開中の10作で打ち切り、大作に置きかえていくことになった。東映のほか、東宝、松竹を含めた邦画大手3社は正月、夏休み興行に人気シリーズ作品を配し、手堅くかせぐ作戦を展開してきたが、東映では同シリーズの動員力が頭打ち現象が強まってきたとして方向転換を図ることになったもの」と書かれている。 『キネマ旬報』1980年3月上旬号には「『トラック野郎』製作中止か?」という記事があり、「前作から40%近い減で配収でも6億円ぐらいしかいかない。今年のお盆に出ないことだけは決定したが、東映は、シリーズをこれで完全に打ち切るかどうかはまだ未定だと言っている。ただ、作品自体の力の落ち具合からみてもやはり、ここらで打ち切りが妥当だろう。『トラック野郎』に対する評価は落ちている。昨年のお盆興行でも、看板の『トラック野郎』に稼働力があったのではなく、併映の香港映画『酔拳』が引っぱった感じがある。聞いたところによると『トラック野郎』を正月とお盆の興行からはずし、一本立て大作としてやれば、平月でも6、7億円稼ぐようになるのではないかという楽観的な見通しのもとで一応やる方向にいっているというが、それでも無理なような気がする。今までの東映の流れを見ると、任侠路線が約6年、その後の実録路線が3年か4年。それで『トラック野郎』が今回で5年目を迎えた。路線番組の時間的な流れからみても、もう大体寿命が尽きているからこれで打ち切りだろう。今の日本映画の状況を考えるともう路線で当たる時代ではなくなってきているから」などと書かれている。 『ロードショー』1980年4月号には「東映は新年早々、今年のお盆番組は『トラック野郎』を製作しない。しかし、シリーズ打ち切りではない、と未練たっぷりではあるが、敗北宣伝をしなかった。東映のいう延期は、過去の例でいうと事実上の中止であるため、もう、文太・キンキンのコンビが復活することは九分通りないだろう」と書かれている。はっきりと打ち切りは発表されず、継続を模索しているうちに、うやむやに終了してしまったものらしい。シリーズの打ち切りの後、トラックも売却された。
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シリーズの終了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 14:46 UTC 版)
「GO!GO!ガリバーくん」の記事における「シリーズの終了」の解説
2006年4月15日から、JR西日本が『旅っきり!〜ふれあい紀行〜』で日曜9:30枠のスポンサーに復帰したため、関西テレビでは『走れ!ガリバーくん』以来放送され続けてきた同時間帯を離れて土曜 16:55 - 17:25の放送となり、その他の局では異時ネットとなった。また、完全にローカルセールス扱いとなり、山陰中央テレビ、岡山放送、テレビ新広島、テレビ愛媛、高知さんさんテレビが制作から撤退した。放送時間についてはネット局節を参照。 番組は2006年9月30日放送分(関西テレビ基準)をもって終了(全49回)。それとともに、『走れ!ガリバーくん』から10年半にわたって続いたガリバーくんシリーズも終了した(通算525回)。BSフジも2006年10月7日放送の回をもって終了した。最終回のエンディングでは、歴代のガリバーくんをロールテロップ形式で流した。
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