永井荷風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 13:48 UTC 版)
家族・親族
永井家
(1902年〜1903年頃、余丁町永井邸にて)
- 永井家[34]の祖は、天正12年(1584年)の長久手の戦いに武功を挙げた戦国武将・永井直勝である。鈴木成元『永井直勝』によると、直勝は、長田氏を名のり、徳川家康の嫡男松平信康に仕えたが、信康自刃後に家康に仕えることとなり、その命によって「長田を改めて大江氏となり、家号を永井というようになった」という。この大江永井氏の始祖が、直勝の庶子久右衛門正直である。
- 弟・永井威三郎の『風樹の年輪』(俳句研究社、1968年)で、永井家の系譜を詳細に調べているが、それによると、「慶長十二年丁未(一六〇七)尾張国星崎荘大江永井家の始祖正直は、年廿三歳で牛毛荒井村に居を構えて一家を創立した。早くは知多郡板山村外で育ち、慶長の初めに愛知郡星崎荘本地村に移り、数年の後にこの地に移った」とある。正直は製塩業によって成功し、「巨利を得た」という[35]。
(1902年9月、大久保余丁町永井邸にて)
- 荷風の一族からは、作家高見順、第1回衆議院議員永井松右衛門(12世)、外交官・ロンドン海軍軍縮会議全権永井松三(13世)、台湾総督府民政長官・神奈川県知事大島久満次(荷風の叔父)、福井県知事・名古屋市長・枢密顧問官の阪本釤之助、童謡歌手小鳩くるみ等々の名士も出している[36]。
略系図
「三島由紀夫」も参照
鷲津蓉裳 | (氏名不明) | (氏名不明) | 鷲津名都江 (小鳩くるみ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鷲津毅堂 | 恒 | 永井壮吉 (永井荷風) | 永井永光 | 永井壮一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
鷲津貞二郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井久一郎 | 永井威三郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井匡威 | 永井松右衛門 | 永井松三 | 永井邦夫 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西竹一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西泰徳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
柳原義光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
川村鉄太郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
花子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
艶子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
阪本瑞男 | 野村万作 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
野村萬斎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
阪本釤之助 | 阪本越郎 | 阪本若葉子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
坂本鹿名夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井佐々吉 | 古井喜実 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ふく | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
馳浩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小野寺房子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高見恭子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高見順 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
由紀子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秋子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大島成友 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大島久満次 | 大島一雄 (杵屋五叟) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井永光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井銉次 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井頑頡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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- ^ a b c d e 「荷風の周縁世界編制 : 銀行時代の荷風をめぐって」加太宏邦 法政大学多摩論集2011年3月号
- ^ 漢字の「荷」には、植物のハスの意味もある。
- ^ 『断腸亭日乗』1936年3月18日。
- ^ 「會社にしろ官省にしろ將来ずつと上の方へ行くには肩書がなければ不可(いか)ん」という父久一郎は「貴様見たやうな怠惰者(なまけもの)は駄目だ、もう學問なぞはよしてしまえ」と叫んだという(『永井荷風 人と作品43』23頁)。
- ^ 永井荷風ブリタニカ国際大百科事典小項目事典
- ^ 秋庭太郎『考証 永井荷風』岩波書店
- ^ 『書かでもの記』(2009年版「全集 第13巻」岩波書店)。
- ^ 2009年版「全集 第9巻」岩波書店。
- ^ 『永井荷風 人と作品43』85-86頁によると「父の一周忌が過ぎた頃、八重次との結婚を従兄永井松三に相談したが同意を得られず、これがもとで松三との間が気まずくなった。1916年5月には末弟の威三郎が東京のある工学博士の三女と結婚したが、この結婚には荷風と“別戸籍とすること、新居を構へること、結婚式當日荷風を参列させぬこと”などの条件付だった(『荷風外傳』による)。ために荷風は威三郎の結婚以後、次弟貞二郎を別として威三郎をはじめ親類縁者との交際も絶った」という。
- ^ 『荷風随筆集(下) 小説作法』岩波文庫。
- ^ 断腸亭日乗 1917年9月16日
- ^ 断腸亭日乗 1919年1月1日
- ^ 断腸亭日乗 1936年2月26日
- ^ 断腸亭日乗 1940年8月1日
- ^ 断腸亭日乗 1944年12月3日
- ^ 断腸亭日乗 1945年3月9日
- ^ 断腸亭日乗 1945年3月10日
- ^ 谷崎潤一郎:『疎開日記』、『谷崎潤一郎全集 第16巻』中央公論社(1982)所載。
- ^ 断腸亭日乗 1945年8月14日
- ^ 『断腸亭日乗』1947年7月 - 8月。
- ^ 断腸亭日乗 1945年8月15日
- ^ 『断腸亭日乗』1947年7月 - 8月。
- ^ 断腸亭日乗 1947年5月3日
- ^ 店名は「大黒家」であるが、永井は「大黒屋」と繰り返し記している。大黒家では永井が毎回食していた並カツ丼、上新香、酒1合(菊正宗)を「荷風セット」として販売していたが、2017年6月を以って閉店した。現在は店内はほぼ末期のままで、建物の所有者である市進ホールディングスが運営する「大人の学び舎大黒家」として屋号を残している。 https://tabelog.com/chiba/A1202/A120202/12000794/ なお浅草にも大黒家天麩羅があるが、荷風が通いつめて天ぷらやかしわ南蛮を食していたのは蕎麦処尾張屋のほう。
- ^ 断腸亭日乗 1947年3月15日ー4月29日
- ^ 「現代」で約3億円ほど(関川夏央『やむを得ず早起き』小学館 2012年)。
- ^ 半藤一利『荷風さんの戦後』ちくま文庫。
- ^ 『断腸亭日乗』1937年6月22日。
- ^ 『断腸亭日乗』1940年6月16日。
- ^ “『バガボンド』(漂泊者)ー永井荷風の好色人生と野垂れ死考 ③生涯一人暮らし、娼婦、芸妓、女給20人以上と女性遍歴とは・・” (日本語). 前坂俊之オフィシャルウェブサイト. 2019年7月22日閲覧。
- ^ 『新潮日本文学アルバム 23 永井荷風』(略年譜)より。
- ^ 永井荷風ブリタニカ国際大百科事典小項目事典
- ^ 秋庭太郎『考証 永井荷風』
- ^ 永井氏系譜(武家家伝)
- ^ 秋庭太郎『考證 永井荷風』
- ^ 了願寺由緒沿革
- ^ 『日本キリスト教歴史大事典』P.973
- ^ 岩波書店、1971年 - 1974年版『荷風全集』第12巻巻末の、『後記』。
- ^ 柳永二郎 『木戸哀楽 新派九十年の歩み』、読売新聞社(1977年)ほかより。
- ^ YouTube『すみだ川』。
- ^ M YouTube『渡り鳥いつ帰る』。
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