永井荷風との交わり
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歌劇『葛飾情話』の台本は、永井荷風が書いた。1937年(昭和12年)暮、銀座で知りあった荷風に、翌1938年春、菅原が依頼したのである。その5月、浅草オペラ館で10日間上演し、好評であった。 菅原は、そのときのアルト、永井智子と結婚し[要検証 – ノート]、夫妻ぐるみで荷風と交わるようになった。太平洋戦争末期の食糧不足の時期、夫妻は訪れくる独り者の荷風を、しばしばもてなした。 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲に罹災した荷風は、夫妻を頼って、同じ東中野のアパートの別室に住み、夕食はともにした。アパートは5月25日の空襲に焼け、3人は菅原の郷里明石市へ向かい、さらに菅原の旧知が疎開していた岡山市へ移った。そこで6月29日に重ねて罹災し、山の手に転じ、8月15日を迎えた。 そして、「3人で一緒に帰る」という口約束にそむき、荷風が先に勝手に上京したことから、付き合いにひびが入った。それでも菅原はときたま荷風を訪ねたが、智子が顔を出したのは、荷風の葬儀のときであった。
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