グレゴリオ暦
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暦法
グレゴリオ改暦が議論され始めていた1560年ごろには、平均太陽年は、約365.2422日であることが知られていた。(365.25日 − 365.2422日)× 400年 = 3.12日/400年 であるから、ユリウス暦における置閏法(400年間で100回の閏年)に比べて400年間に3回の閏年を省けば、かなりよい近似となることが分かる。このため、グレゴリオ暦では、400年間に、97回 (= 100 − 3) の閏年を置くこととして、1年の平均日数を365.2425日 = 365日5時間49分12秒 = 正確に31556952秒 とした。
- 365日 + 97/400 = 365.2425(日/年)…… グレゴリオ暦による1年の平均日数
なお、400年間の日数は、365.2425 × 400 = 146 097日であり、これは7で割り切れる(146097 ÷ 7 = 20871週)ので、グレゴリオ暦は、曜日も含めて400年周期の暦である。
暦法 | 閏年 | 平年 | 合計 |
---|---|---|---|
ユリウス暦 | 100回 | 300回 | 400回 |
グレゴリオ暦 | 97回 | 303回 | 400回 |
400年間に3回の閏年を省くには様々な方法があり得るが、3回の平年がなるべく均等に分布すること、わかりやすく記憶しやすいことを考慮して、「西暦紀元(西暦)の年数が、100で割り切れるが400では割り切れない年は、平年とする。これ以外の年では、西暦年数が4で割り切れる年は閏年とする。」というルールが採用された。
100で割り切れる年は400年間に4回あるが、400で割り切れる年は400年間に1回だけである。以上のルールによって、ユリウス暦では閏年になる3回分の年を、グレゴリオ暦では平年とすることができるのである。
100で割り切れる年のうち、西暦1600年・2000年・2400年は400で割り切れるので、これらの年は閏年のままである。しかし、西暦1700年・1800年・1900年・2100年・2200年・2300年・2500年・2600年・2700年は400で割り切れないので、これらの年は平年となる。
西暦年 | 平閏の区分 | 備考 |
---|---|---|
1600年・2000年・2400年 | 閏年 | 400で割り切れる年 |
1700年・2100年・2500年 | 平年 | |
1800年・2200年・2600年 | 平年 | |
1900年・2300年・2700年 | 平年 |
平年および閏年のそれぞれにおける各月の日数は、グレゴリオ暦でもユリウス暦と同じである。すなわち、1月・3月・5月・7月・8月・10月・12月は31日、4月・6月・9月・11月は30日、2月は平年が28日、閏年は29日である。
先発グレゴリオ暦とユリウス暦
上記の暦法(グレゴリオ暦)を1582年以前に遡って適用すると、200年3月1日から300年2月28日までは、ユリウス暦と同じ日付となる(ユリウス通日も参照)。これは以下の経緯による。
- 「制定に至る背景」の節にあるように、第1ニカイア公会議にて、春分日たるユリウス暦3月21日直後の太陰月14日の直後の日曜日を、復活祭とすることが決定された。
- しかし、ユリウス暦1582年には、ユリウス暦の精度があまり良くなかったことによって、春分日とユリウス暦3月21日の間に約10日の差が生じており、ユリウス暦の使用を続ければ、西暦1583年に含まれる春分日もまた、3月21日ではなくなってしまう。
- 西暦1582年10月15日(グレゴリオ暦)に上記の暦法が導入されたことで、西暦1583年からは3月21日と春分日とが基本的に一致するようになり[注釈 7]、第1ニカイア公会議での決定と矛盾しなくなった。
- その結果として、ユリウス暦と1582年以前に遡って適用されたグレゴリオ暦(先発グレゴリオ暦)の日付が、200年3月1日から300年2月28日にかけて、たまたま一致する。
注釈
- ^ この日は、ユリウス通日では「2299160.5」に、ユリウス暦では「1582年10月5日」に相当する。
- ^ 日本の公文書に和暦の記載を義務付ける法令はない[1]。
- ^ 日本は1873年(明治6年)からグレゴリオ暦に移行し、それまでの天保暦を旧暦、導入したグレゴリオ暦を新暦と呼ぶ。
- ^ ユリウス暦での1年は、平均太陽年より約675秒長い。
- ^ (旧暦)明治5年1月1日から同年12月2日まで -(グレゴリオ暦)1872年2月9日から同年12月31日までという対応になっている。
- ^ この日は後にキリスト教に取り入れられ、聖母マリアがイエスを身ごもった日「受胎告知日」として、太陽暦で祝われるイエスの誕生日12月25日すなわちクリスマスと対をなす祝祭日となり、更に中世のユリウス暦においては広く新年として扱われるようになっていく。
- ^ ただし、下記のように、将来、再びズレを生じることになる。「基本的に」が意味するのは、それまでの当面の間ということである。
- ^ この1月1日年初は、グレゴリオ改暦前にすでにヨーロッパ各地に広まりつつあった。
- ^ 太政官布告第359号では、旧暦の11月が29日までであったものを30日・31日を追加してそのまま新暦の明治6年1月1日としていたが、発表翌日に取り消された。太政官布告第372号で、2日しかない12月については月給を給付しない、とした。
- ^ 2015年(平成27年)の場合、2月2日(月)に発行された第6463号の25~26ページに「平成28年(2016)暦要項」が「告示」(掲載)されている。
- ^ この暦法の制定は3月21日を春分とするキリスト教の教義上の都合に由来し、そこから年初である1月1日が定まる。
出典
- ^ “公文書の西暦表記、義務づけ見送り 政府方針”. 日本経済新聞. (2018年8月20日) 2021年12月27日閲覧。
- ^ “Seasons calculator”. 2018年9月3日閲覧。
- ^ 例えば1550年のローマのユリウス暦では、春分点が現地時間で3月11日午前6時51分になる[2]
- ^ a b 天文年鑑2013年版、p190(このページの執筆者:井上圭典)ISBN 9784416212851
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、15頁。ISBN 4-309-22335-4。
- ^ Copernicus and Calendar Reform Starry Messenger,Department of History and Philosophy of Science, University of Cambridge, 1999. "Copernicus wrote in a response, which is now lost, but probably stated something along the position stated in the preface to his Revolutions, that reform of the calendar was premature because the precise length of the tropical year was not yet known with sufficient accuracy."
- ^ 青木信仰、「時と暦」、東京大学出版会、1982年9月20日、ISBN 4130020269、p.83 コペルニクスは遠慮深く、「今の天文学は不確かで、暦を改良するほど知識が揃っていない」として断っている。
- ^ De Revolutionibus (On the Revolutions)天球の回転について Nicholas Copernicus, 1543 C.E., 序文 TO HIS HOLINESS, POPE PAUL III,NICHOLAS COPERNICUS’ PREFACE TO HIS BOOKS ON THE REVOLUTIONS の最後のパラグラフの中程。「For not so long ago under Leo X the Lateran Council considered the problem of reforming the ecclesiastical calendar. The issue remained undecided then only because the lengths of the year and month and the motions of the sun and moon were regarded as not yet adequately measured.」
- ^ G Moyer (1983),"Aloisius Lilius and the 'Compendium novae rationis restituendi kalendarium'", pp.173-174, in G.V. Coyne (ed.), The Gregorian Reform of the Calendar: Proceedings of the Vatican conference to commemorate its 400th anniversary (Vatican City: Specola Vaticana), 1983. SAO/NASA Astrophysics Data System (ADS)
- ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.182
- ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.172
- ^ "Aloisius Lilius and the 'Compendium novae rationis restituendi kalendarium'" p.172, "a book was brought to us by our beloved son Antonio Lilio, doctor of arts and medicine, which his brother Aloysius had formerly written...", Gordon Moyer (1983),The Gregorian Reform of the Calendar: Proceedings of the Vatican conference to commemorate its 400th anniversary (Vatican City: Specola Vaticana), 1983.
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、266, 277頁。ISBN 4-309-22335-4。
- ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 pp.182-183
- ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.183 クラヴィウスからMichael Maestlin への返書による。
- ^ Inter Gravissimas Issued by Pope Gregory XIII, February 24, 1582、グレゴリウス13世が発布した教皇勅書の全文、ラテン語・フランス語・英語の3言語版、英語版はBill Spencer( November 1999, revised March 2002)によるフランス語とラテン語からの重訳
- ^ 英語版のみ、Inter Gravissimas Home Page for Calendar Reform, Bill Spencer, November 24-28, AD 1999
- ^ 表現としての時刻――江戸期まで― 多ヶ谷 有子、p.86, 脚注29、関東学院大学文学部 紀要 第131号(2014)
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、pp.298-299頁。ISBN 4-309-22335-4。
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、p.333頁。ISBN 4-309-22335-4。 ダンカンは1年につき約25.96秒の誤差があるとし、1582年10月から1997年年初までの累積時間を計算している。
- ^ Meeus, J. & Savoie, D. (1992) “The history of the tropical year” Journal of the British Astronomical Association, 102(1) p. 42による。
- ^ Meeus, J. “Astronomical Algorithms” (1991) p.166 および 須賀隆 “「七千年ノ後僅ニ一日」の謎” 日本暦学会 第21号 (2014) p.5 表2 による。
- ^ Tajerian, Ardem A.. “When Is Easter This Year?”. ChurchArmenia.com. 2012年3月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年10月13日閲覧。
- ^ 福澤諭吉『福澤諭吉書簡集』 第2巻、岩波書店、2001年3月23日、173-175頁。ISBN 4-00-092422-2。に収録。
- ^ 福澤は『福澤全集緒言』の中で、「『改暦弁』は風邪で寝込んでいるときに6時間で書き上げたもので、発売後ベストセラーになり、2・3箇月で売上額が700円に達した」、「その後の2・3箇月も同じように売れ続けたので、売上額は合計1000~1500円に達したようだ」と記している。以上の公文を見れば古来の太陰暦を廃し
大 ()陽暦に改むることにして甚 ()だ妙なり。吾々 ()の本願は唯 ()旧を棄 ()てゝ新に就 ()かんとするの一事のみなれば、何は扨 ()置き先 ()ず大賛成を表したりと雖 ()も、抑 ()も一国の暦日を変するが如 ()きは無上の大事件にして、之 ()を断行するには国民一般にその理由を知らしめて丁寧反覆、新旧両暦の相異 ()なる由縁を説き、双方得失の在る所を示して心の底より合点 ()せしむこそ大切なれ。欧羅巴 ()の耶蘇 ()教陽暦国にて、露国の暦は他に異 ()なること僅 ()かに十二日なれども、古来の慣行にて今日尚 ()お之 ()を改むるを得ず。然 ()るに日本に於 ()ては陰陽暦を一時に変化して凡 ()そ一箇月の劇変を断行しながら、政府の布告文を見れば簡単至極 ()にしてその詳 ()なるを知るに由 ()なし、畢竟 ()官辺 ()にその注意なくして且 ()つは筆執 ()る人の乏しきが為 ()めなりと推察せざるを得ず。左 ()れば民間の私に之を説明して余処 ()ながら新政府の盛事 ()を助けんものをと思付 ()き、匆々 ()書綴 ()りたるは改暦弁なり。その起草は発令の月か翌十二月か、日は忘れたり、少々風邪に犯され床 ()の上にて筆を執 ()り、朝より午後に至るまで凡 ()そ六時間にて脱稿したり。固 ()より木葉 ()同様の小冊子にて何の苦労もなかりしが、扨 ()これを木版にして発売を試みたるに何千何万の際限あることなし。三版も五版も同時に彫刻して製本を書林 ()に渡しさえすれば直 ()に売れ行くその有様 ()は之を見ても面白し。一冊何銭とて高 ()の知れたる定価なれども、塵 ()も積れば山と為 ()るの諺 ()に洩 ()れず、発売後二、三箇月にして何かの序 ()に改暦弁より生じたる純益の金高を調べたるに七百円余に上 ()りたることあり。その時、著者は独 ()り心に笑い、この書を綴りたるは僅 ()に六時間の労なり、六時間の報酬に七百円とは実に驚き入る、学者の身に斯 ()る利益を収領 ()しても宜 ()しかるべきやと、恰 ()も半信半疑に自 ()から感じたるは、旧藩士族根性の然 ()らしむる所にして今尚 ()お之 ()を記憶す。二、三箇月の後も売捌 ()は依然として止 ()まず、利益の全額は千円も千五百円も得たることならん。畢竟 ()余が今日に至るまで何に一つの商売もせず、工業もせず、家富みて余 ()あるには非 ()ざれども、大勢の家族と共に心配なく生活して静 ()に老余を楽しむは、改暦弁のみならず他の著訳書より得たる利益の多かりしが故なり。 — -、福澤諭吉『福澤全集緒言』時事新報社、1897年、102-104頁 。 - ^ 円城寺清『大隈伯昔日譚』立憲改進党々報局、1895年、601頁 。
- ^ 青木信仰『時と暦』東京大学出版会、1982年9月、p.30頁。ISBN 4-13-002026-9。
- ^ 内閣記録局 (1889—1891). “法規分類大全. 〔第2〕”. 内閣記録局. 2019年2月14日閲覧。
- ^ 『法令全書 明治5年』 第7冊、内閣官報局、1912年、358頁。NDLJP:787952/236。漢字は新字体にあらためた。
- ^ デイヴィッド・E・ダンカン『暦をつくった人々 : 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、p.299頁。ISBN 4-309-22335-4。
- ^ Saudi Arabia adopts the Gregorian calendar, The Economist, 2016-12-15.
- ^ 「暦の大事典」朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷
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