グレゴリオ暦 ユリウス暦によるずれ

グレゴリオ暦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/19 03:27 UTC 版)

ユリウス暦によるずれ

1582年10月4日まで用いられていたユリウス暦では、平年は1年を365日とし、4年ごとに置く閏年を366日とし、これによって平均年を365.25日としていた。

( 365 + 1/4 )日 = 365.25(日)……1年間の平均日数(平均年)= 365日6時間 = 正確に31557600

しかし、平均太陽年、つまり実際に地球が太陽の周りを1周する平均日数は、365日5時間48分45.179秒 = 31556925.179秒 = 約365.242189572日(2013年年央)[4]である。したがって、ユリウス暦の1年は、実際の1太陽年に比べて、365.25日 − 約365.2422日 = 約0.0078日(約11分15秒)長い。このずれは下記の計算のとおり、約128年で1日になる。

ユリウス暦は、その制定当時の天文観測水準を考えればかなりの精度だったが、千数百年も暦の運用が続くと、天文現象の発生日時と暦の上の日付の乖離は無視できないものとなり、16世紀末に10日ものずれが生じていた。

31557600秒/年 − 31556925.179秒/年 = 674.821秒/年 = 11分14.821秒/年 …… 1年ごとのずれ
86400秒/日(= 1日)÷ 674.821秒/年 = 128.03年 …… 1日のずれが生じる年数

なお、上記の計算は2013年時点でのものであり、グレゴリオ改暦が議論された16世紀半ばの計算とは差異がある。

改暦委員会と改暦案の提案

ユリウス暦による春分日のずれを、ローマ・カトリック教会としても無視できなくなり[5]第5ラテラン公会議(1512-1517)において改暦が検討された。このときフォッソンブローネ司教のミデルブルフのパウル(en:Paul of Middelburg)(1446-1534)は、コペルニクスを含めてヨーロッパ中の学者に意見を求めた。しかし、コペルニクスは「太陽年の長さの精度は不十分であり、改暦は時期尚早である」と返答した[6][7]。コペルニクスは彼の主著「天球の回転について」の序文でこのことを明記している[8]

次に、トリエント公会議1545年 - 1563年)において、実際の春分日を第1ニカイア公会議の頃の3月21日(つまり修正すべきユリウス暦のずれの蓄積は公会議開催の325年からの約1240年間分にあたる約9.6日間で、これを10日のずれと見做した)に戻すため、教皇庁に暦法改正を委託した。時の教皇グレゴリウス13世は、これを受けて1579年にシルレト枢機卿を中心とする改暦委員会を発足させ、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、最初の改暦案を考案した天文学者のアロイシウス・リリウスの弟であるアントニウス・リリウス(Antonio Lilio)や数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれていた。

暦改正の新しい原理の大要

アロイシウス・リリウスの提出した原稿そのものは残されていない。委員会は1577年にCompendium novae rationis restituendi kalendarium(Compendium of the New Plan for Restoring the Calendar: 暦改正の新しい原理の大要)という24ページの冊子を刊行した。この冊子も長い間、失われたと考えられていた。しかし、1981年10月に歴史家のゴードン・モイアー (Gordon Moyer) が発見した。モイアーは最初、Biblioteca Nazionale Centrale di Firenze(フィレンツェ国立中央図書館)で発見し、その後、バチカン図書館シエーナのイントロナティ市立図書館(Biblioteca Comunale degli Intronati de Siena)でも発見した。さらに、Polytechnic Institute of New YorkのThomas B. Settle も1975年に フィレンツェのBiblioteca Marucelliana とフィレンツェ国立中央図書館で同じ冊子を発見していたことが分かり、少なくとも7冊が現存していることが明らかになった[9]

この冊子によると、アロイシウスは1252年に書かれたアルフォンソ天文表における365日5時間49分16秒 = 365.242 5463日を採用し[10]、改暦案を考案した。しかし、アロイシウスは1576年に死亡しており、その年に実際に案を委員会に提出したのは弟のアントニウス・リリウス(Antonio Lilio)である[11][12][13]

ずれ修正の二つの提案

ユリウス暦の約1240年間の運用により蓄積された約10日間のずれをどのように修正するかについては、次の2案が委員会に提出された。

  • 第1案:1584年以降の40年間にわたって、閏日を設けない。
40年 ÷ 4年 = 10 であるから、これによって、10日間だけ暦を進めることができる。
  • 第2案:1582年の最も適当な月に10日間を省く。

結局、委員会は、第2案を採用したのである[14]

どの月から10日間を省くか

10日間を省く月を1582年の10月にしたことについて、クラヴィウスは、「単に10月が宗教典礼日(religious observance)が最も少ない月であり、教会への影響が最小だからだ」と説明している[15]

改暦の実施

改暦委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日グレゴリウス13世の教皇勅書として発布された[16][17]。この勅書は、"Inter gravissimas"の語(「最も重要な関心事の中でも」の意)から始まるので、“en:Inter gravissimas”と称される[18]

この勅書はユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を、曜日を連続させながら、グレゴリオ暦1582年10月15日金曜日とすることを定め、その通りに実施された。

グレゴリオ暦の実施日前後の日付
適用の暦 年月日 曜日 0時世界時)の
ユリウス日
ユリウス暦 1582年10月03日 水曜日 2299158.5
ユリウス暦 1582年10月04日 木曜日 2299159.5
グレゴリオ暦 1582年10月15日 金曜日 2299160.5
グレゴリオ暦 1582年10月16日 土曜日 2299161.5
1582年10月
1 2 3 4 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

ただし、上記の日付通りに改暦を実施したのは、イタリア、スペイン、ポルトガルなどごく少数の国に過ぎず[19]、その他のヨーロッパの国々での導入は遅れた。


注釈 

  1. ^ この日は、ユリウス通日では「2299160.5」に、ユリウス暦では「1582年10月5日」に相当する。
  2. ^ 日本の公文書に和暦の記載を義務付ける法令はない[1]
  3. ^ 日本は1873年(明治6年)からグレゴリオ暦に移行し、それまでの天保暦を旧暦、導入したグレゴリオ暦を新暦と呼ぶ。
  4. ^ ユリウス暦での1年は、平均太陽年より約675秒長い。
  5. ^ (旧暦)明治5年1月1日から同年12月2日まで -(グレゴリオ暦)1872年2月9日から同年12月31日までという対応になっている。
  6. ^ この日は後にキリスト教に取り入れられ、聖母マリアがイエスを身ごもった日「受胎告知日」として、太陽暦で祝われるイエスの誕生日12月25日すなわちクリスマスと対をなす祝祭日となり、更に中世のユリウス暦においては広く新年として扱われるようになっていく。
  7. ^ ただし、下記のように、将来、再びズレを生じることになる。「基本的に」が意味するのは、それまでの当面の間ということである。
  8. ^ この1月1日年初は、グレゴリオ改暦前にすでにヨーロッパ各地に広まりつつあった。
  9. ^ 太政官布告第359号では、旧暦の11月が29日までであったものを30日・31日を追加してそのまま新暦の明治6年1月1日としていたが、発表翌日に取り消された。太政官布告第372号で、2日しかない12月については月給を給付しない、とした。
  10. ^ 2015年(平成27年)の場合、2月2日(月)に発行された第6463号の25~26ページに「平成28年(2016)暦要項」が「告示」(掲載)されている。
  11. ^ この暦法の制定は3月21日を春分とするキリスト教の教義上の都合に由来し、そこから年初である1月1日が定まる。

出典

  1. ^ “公文書の西暦表記、義務づけ見送り 政府方針”. 日本経済新聞. (2018年8月20日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34347110Q8A820C1PP8000/ 2021年12月27日閲覧。 
  2. ^ Seasons calculator”. 2018年9月3日閲覧。
  3. ^ 例えば1550年のローマのユリウス暦では、春分点が現地時間で3月11日午前6時51分になる[2]
  4. ^ a b 天文年鑑2013年版、p190(このページの執筆者:井上圭典)ISBN 9784416212851
  5. ^ デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、15頁。ISBN 4-309-22335-4 
  6. ^ Copernicus and Calendar Reform Starry Messenger,Department of History and Philosophy of Science, University of Cambridge, 1999. "Copernicus wrote in a response, which is now lost, but probably stated something along the position stated in the preface to his Revolutions, that reform of the calendar was premature because the precise length of the tropical year was not yet known with sufficient accuracy."
  7. ^ 青木信仰、「時と暦」、東京大学出版会、1982年9月20日、ISBN 4130020269、p.83 コペルニクスは遠慮深く、「今の天文学は不確かで、暦を改良するほど知識が揃っていない」として断っている。
  8. ^ De Revolutionibus (On the Revolutions)天球の回転について Nicholas Copernicus, 1543 C.E., 序文 TO HIS HOLINESS, POPE PAUL III,NICHOLAS COPERNICUS’ PREFACE TO HIS BOOKS ON THE REVOLUTIONS の最後のパラグラフの中程。「For not so long ago under Leo X the Lateran Council considered the problem of reforming the ecclesiastical calendar. The issue remained undecided then only because the lengths of the year and month and the motions of the sun and moon were regarded as not yet adequately measured.」
  9. ^ G Moyer (1983),"Aloisius Lilius and the 'Compendium novae rationis restituendi kalendarium'", pp.173-174, in G.V. Coyne (ed.), The Gregorian Reform of the Calendar: Proceedings of the Vatican conference to commemorate its 400th anniversary (Vatican City: Specola Vaticana), 1983. SAO/NASA Astrophysics Data System (ADS)
  10. ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.182
  11. ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.172
  12. ^ "Aloisius Lilius and the 'Compendium novae rationis restituendi kalendarium'" p.172, "a book was brought to us by our beloved son Antonio Lilio, doctor of arts and medicine, which his brother Aloysius had formerly written...", Gordon Moyer (1983),The Gregorian Reform of the Calendar: Proceedings of the Vatican conference to commemorate its 400th anniversary (Vatican City: Specola Vaticana), 1983.
  13. ^ デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、266, 277頁。ISBN 4-309-22335-4 
  14. ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 pp.182-183
  15. ^ GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982 p.183 クラヴィウスからMichael Maestlin への返書による。
  16. ^ Inter Gravissimas Issued by Pope Gregory XIII, February 24, 1582、グレゴリウス13世が発布した教皇勅書の全文、ラテン語・フランス語・英語の3言語版、英語版はBill Spencer( November 1999, revised March 2002)によるフランス語とラテン語からの重訳
  17. ^ 英語版のみ、Inter Gravissimas Home Page for Calendar Reform, Bill Spencer, November 24-28, AD 1999
  18. ^ 表現としての時刻――江戸期まで― 多ヶ谷 有子、p.86, 脚注29、関東学院大学文学部 紀要 第131号(2014)
  19. ^ デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、pp.298-299頁。ISBN 4-309-22335-4 
  20. ^ デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、p.333頁。ISBN 4-309-22335-4  ダンカンは1年につき約25.96秒の誤差があるとし、1582年10月から1997年年初までの累積時間を計算している。
  21. ^ Meeus, J. & Savoie, D. (1992) “The history of the tropical year” Journal of the British Astronomical Association, 102(1) p. 42による。
  22. ^ Meeus, J. “Astronomical Algorithms” (1991) p.166 および 須賀隆 “「七千年ノ後僅ニ一日」の謎” 日本暦学会 第21号 (2014) p.5 表2 による。
  23. ^ Tajerian, Ardem A.. “When Is Easter This Year?”. ChurchArmenia.com. 2012年3月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年10月13日閲覧。
  24. ^ 福澤諭吉 『福澤諭吉書簡集』 第2巻、岩波書店、2001年3月23日、173-175頁。ISBN 4-00-092422-2 に収録。
    其後改暦の令あり。此時も同様、唯一片の詔にて更に諭告文を見ず。余り難堪存候に付、生は私に改暦弁と申小冊子を出版して、一時に十万部計り国内に分布し、此出版にては聊か行政の便を助けたること、今日も私に自負の意あり。 — 福澤諭吉松田道之宛て書簡(1879年(明治12年)3月4日付)
  25. ^ 福澤は『福澤全集緒言』の中で、「『改暦弁』は風邪で寝込んでいるときに6時間で書き上げたもので、発売後ベストセラーになり、2・3箇月で売上額が700円に達した」、「その後の2・3箇月も同じように売れ続けたので、売上額は合計1000~1500円に達したようだ」と記している。
    以上の公文を見れば古来の太陰暦を廃し〔太〕陽暦に改むることにしてはなはだ妙なり。吾々われわれの本願はただ旧をてゝ新にかんとするの一事のみなれば、何はさて置きず大賛成を表したりといえども、も一国の暦日を変するがごときは無上の大事件にして、これを断行するには国民一般にその理由を知らしめて丁寧反覆、新旧両暦の相異あいことなる由縁を説き、双方得失の在る所を示して心の底より合点がてんせしむこそ大切なれ。欧羅巴ヨーロツパ耶蘇ヤソ教陽暦国にて、露国の暦は他にことなることわずかに十二日なれども、古来の慣行にて今日これを改むるを得ず。しかるに日本においては陰陽暦を一時に変化しておよそ一箇月の劇変を断行しながら、政府の布告文を見れば簡単至極しごくにしてそのつまびらかなるを知るによしなし、畢竟ひつきよう官辺かんぺんにその注意なくしてつは筆る人の乏しきがめなりと推察せざるを得ず。れば民間の私に之を説明して余処よそながら新政府の盛事せいじを助けんものをと思付おもいつき、匆々そうそう書綴かきつづりたるは改暦弁なり。その起草は発令の月か翌十二月か、日は忘れたり、少々風邪に犯されとこの上にて筆をり、朝より午後に至るまでおよそ六時間にて脱稿したり。もとより木葉このは同様の小冊子にて何の苦労もなかりしが、さてこれを木版にして発売を試みたるに何千何万の際限あることなし。三版も五版も同時に彫刻して製本を書林しよりんに渡しさえすればただちに売れ行くその有様ありさまは之を見ても面白し。一冊何銭とてたかの知れたる定価なれども、ちりも積れば山とるのことわざれず、発売後二、三箇月にして何かのついでに改暦弁より生じたる純益の金高を調べたるに七百円余にのぼりたることあり。その時、著者はひとり心に笑い、この書を綴りたるはわずかに六時間の労なり、六時間の報酬に七百円とは実に驚き入る、学者の身にかかる利益を収領しゆうりようしてもよろしかるべきやと、あたかも半信半疑にみずから感じたるは、旧藩士族根性のしからしむる所にして今尚これを記憶す。二、三箇月の後も売捌うりさばきは依然としてまず、利益の全額は千円も千五百円も得たることならん。畢竟ひつきよう余が今日に至るまで何に一つの商売もせず、工業もせず、家富みてあまりあるにはあらざれども、大勢の家族と共に心配なく生活してしずかに老余を楽しむは、改暦弁のみならず他の著訳書より得たる利益の多かりしが故なり。 — -、福澤諭吉 『福澤全集緒言』時事新報社、1897年、102-104頁http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=114&PAGE=108 
  26. ^ 円城寺清 『大隈伯昔日譚』立憲改進党々報局、1895年、601頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781144/316 
  27. ^ 青木信仰 『時と暦』東京大学出版会、1982年9月、p.30頁。ISBN 4-13-002026-9 
  28. ^ 内閣記録局 (1889—1891). “法規分類大全. 〔第2〕”. 内閣記録局. 2019年2月14日閲覧。
  29. ^ 『法令全書 明治5年』 第7冊、内閣官報局、1912年、358頁。NDLJP:787952/236 漢字は新字体にあらためた。
  30. ^ デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 : 人類は正確な一年をどう決めてきたか』松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、p.299頁。ISBN 4-309-22335-4 
  31. ^ Saudi Arabia adopts the Gregorian calendar, The Economist, 2016-12-15.
  32. ^ 「暦の大事典」朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷






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