社内政治とロバート・マクナマラの役割とは? わかりやすく解説

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社内政治とロバート・マクナマラの役割

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:28 UTC 版)

エドセル」の記事における「社内政治とロバート・マクナマラの役割」の解説

エドセルと、当時フォード・モーター経営陣一人で後にケネディ・ジョンソン両政権国防長官務めたロバート・マクナマラの関係は、エドセル批判的な多く人々によりしばしば失敗の要因として言及される国防長官としてのマクナマラ開発深く関与したF-111 アードバーク戦闘爆撃機渾名一つが「フライング・エドセル」と呼ばれる等、「マクナマラ自身エドセル計画の推進であった」という構図は、マクナマラ自身がケネディ・ジョンソン両政権下にて、米国事実上敗戦幕を閉じ事となるベトナム戦争推進者であった事の批判世界銀行総裁としての批判併せてザ・タイム等のメインストリーム・メディア英語版)でもしばしば言及されてきた。しかし、「Disaster in Dearborn: The Story of the Edsel」を著したトーマス・E・ボンソールによれば、それは必ずしも正確な認識では無いとしている。 エドセル物語興味深い側面は、社内政治英語版)が社内アイデア潰してしまう事例ケーススタディーとなっている点である。エドセル自体車両としての完成度フォード・モーター楽観的な車両計画失敗の要因として最も挙げられるのであるが、フォード・モーター社内資料によればエドセル実際にフォード・モーター経営陣の間における意見の相違犠牲者となっていた可能性示している。 第二次世界大戦中急逝したエドセル・フォード後継に、フォード・モーター病床有ったヘンリー・フォード1世経営復帰させるというミス犯したヘンリー1世は既に認知症症状呈しており、フォード・モーター大戦末期には国有化一歩手前の状態まで経営状態悪化していた。第二次大戦終結後アメリカ海軍から復員したヘンリー・フォード2世ヘンリー1世早期引退を望むエレナー・クレイ・フォードら創業家一族後押しもあり、急遽フォード・モーター指揮執る事となったが、若年故に経営経験不足していたヘンリー2世補佐する目的で、ロバート・マクナマラ始めとする"ウィズ・キッズ英語版)"(神童)と呼ばれる10名の元アメリカ陸軍航空軍軍人達採用された。彼ら10人はアメリカ陸軍若手将校中でも戦争4年間で平時25年相当する経験積んだ評価された最精鋭管理チームであり、特にマクナマラ米陸軍航空隊時代における兵站軍需物資生産管理手法応用したコスト削減及び抑制スキルは、戦後崩壊寸前状況にあったフォード・モーター立て直す事に貢献した結果としてマクナマラフォード・モーター社内で相当な発言力を持つ様になった。実際にヘンリー2世は何か経営上の疑念生じた時には必ずマクナマラ助言求めマクナマラ自身曖昧な見立て観測ではなく具体的な事実数字に基づく明快な回答行っていたため、ヘンリー2世マクナマラ全幅の信頼置いていたとされている。しかし、マクナマラGMクライスラー対抗する目的で多ディビジョン化を推進していた長老ヘンリー1世方針とは逆に同社他の製品をほぼ完全に排除するかの如くフォード車のマーケティング専念していた。従って、マクナマラの高度なスキル同社製造していたコンチネンタルリンカーンマーキュリーエドセルブランド車体開発マーケティングには殆ど活用される事はなかった。 マクナマラコンチネンタルリンカーンマーキュリーエドセル各部門独立形成に反対し、エドセル部門設立から僅か4ヶ月後の1958年1月リンカーンマーキュリーエドセルMEL部門統合した。彼はまた1958年コンチネンタル部門廃止しリンカーン部門合併した。彼は続いて1958年採用され2種類ホイールベースと独自のボディ構造除去目的に、エドセル照準合わせたその結果1959年エドセルフォード車とプラットフォーム内部ボディ構造共有する事となった。そして、1960年エドセルフォード車と僅かに違う姿で登場したマクナマラ1959年エドセル広告予算削減する方向フォード・モーター社内動かし1960年には実質的に広告予算廃止する至ったエドセル奈落突き落とす最終的な打撃1959年秋に下されたマクナマラはこの時、ヘンリー・フォード2世残り経営陣エドセル破滅した確信させ、エドセル生産終了部門閉鎖実行したマクナマラはまたリンカーン・ブランドの廃止すら検討したが、1960年アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディにより米国国防長官指名された事によりフォード・モーター社長辞任し1961年にエルウッド・エンゲル(英語版)がリンカーン再設計した事により、その努力水泡に帰した1964年アメリカ合衆国大統領選挙において、共和党候補バリー・ゴールドウォーターマクナマラ国防長官非難する材料としてエドセルの失敗槍玉に挙げた。結局、ゴールドウォーターの資金面での援助者であったフォード・モーター副社長のアーネスト・ブリーチは、米国上院議員向けの説明において「マクナマラ国防長官は、エドセル企画及び計画のどの部分においても一切関与はなかった。」と弁明する羽目になった。しかし、マクナマラ対すこうした個人攻撃その後長年渡り続く事になったマクナマラは後に世界銀行総裁就任するが、自身対すエドセル関連した告発が行われた際には、アーネスト・ブリーチからの弁明書簡コピーを各報道機関配布する様、部下指示していたという。 なお、マクナマラ本人生前1997年ニューヨーク・タイムズ電話インタビューにて、自身エドセル好んでいなかったという事実関係は認め一方でエドセル商品展開に不利益となる干渉行ったり、部門閉鎖積極的に関与したという説については否定したマクナマラは「私がエドセル非合理的閉鎖させたと主張する者は、歴史もう一度見直した方が良い当時であってもエドセル救済できる可能性は全くなく、また救済されるはずもなかった。何故なら、エドセル災害であったからだ。」と述べるに留まった。しかしその一方でエドセル一般公開される前である1957年8月28日のプレス・プレビューの夕食会席上マクナマラは「私はそれらを段階的に廃止する計画持っている」という発言行った事が記録されている。マクナマラエドセル発表翌日フォード・モーター副社長就任しフォード・モーター製全ての自動車トラック販売に関する権限握ったマクナマラエドセル発売の僅か4ヶ月後にMEL部門統合断行し1959年にはエドセル・ディーラーの多くを他ディビジョンディーラー転換させた。エドセル拡販諦めていなかった多く熱意あるディーラーマンが、この時エドセル販売から離れていった。自動車ライターのジョセフ・シャーロックはこうした状況総括し、「まだ乳児であったエドセルを、マクナマラ複数回も突き刺したこれではブランド生き残れなかったのも不思議ではない。」と評したマクナマラフォード・モーター社内独自に研究していた事は、シートベルト始めとする先進的な安全装備燃費良い小型車体、そして後年自動車排出ガス規制先取りする様なエミッション・コントロール英語版)のシステムであった。これらは1950年代アメリカ自動車産業ではほとんど考慮されていない事であり、シートベルト至って装着する事が運転者運転技術信頼しない事を意味する侮辱捉えられる風潮がある状況であったマクナマラ部下であったリー・アイアコッカ回想によれば1950年代排気ガス排出量について熱弁振るうマクナマラに対して、それが何を意味しているのか社内誰も理解できていない状況があったという。また、マクナマラ自身提唱する安全装備普及により自動車事故起因する搭乗者傷害半減出来ると信じており、マクナマラ理念多数盛り込まれ1956年フォード英語版)は、同年式のシボレー英語版)に19台以上販売台数で差を付けられた。彼を信頼したヘンリー2世ですら、こうした事態激怒しシボレーは車を売っているが、マクナマラは安全を売っている。」と周囲記者愚痴始末であった。しかし、マクナマラ心血を注いだ1956年フォードは、1965年制定され最初米国連邦自動車安全基準英語版)を完全にクリアする先進性有していた。 マクナマラ自動車に対して資産的な価値蒐集対象、あるいは技術者理想具現対象といった思想持っておらず、飽くまでも単なる移動手段」としか捉えていなかったが、それ故自動車が「安価安全に家族輸送できるモノ」である事を追究し大胆なコストカット提案それまで米国自動車業界至上とされていた概念覆す様なアイデア次々フォード車に投入した一例挙げれば、元々は2人乗りとして出発した初代サンダーバード英語版)を、1958年式の二代目サンダーバード英語版)では後部座席追加した4人乗り変更し発売初年度のみでエドセル部門はおろか初代サンダーバード1955年から1957年までの総生産台数上回る販売台数叩き出した。しかし、こうした彼の自動車対す姿勢は、しばしばフォード・モーター社内生粋自動車業界人とは激しく対立するになった実際にマクナマラケネディにより国防長官抜擢されフォード・モーター去った直後からフォード部門内でも従来マクナマラ方針反す設計変更が行われ始め、本来は144立方インチ (2.4 L) または170立方インチ (2.8 L) の直列6気筒スリフトパワーシックスであったフォード・ファルコンは、1963年式にV型8気筒チャレンジャー260V8 (4.27 L) を搭載した。これは後のマッスルカー先行する試みであり、ギャラクシー、フェアレーン、カスタムといったマクナマラが関わった1957年フォードの各車種も、マクナマラフォード・モーター去って以降1961年フォード英語版)を境に過剰なまでの大排気量化が進んでいった。この後1960年代10年間、フォード・モーター始めとするアメリカ車NASCAR全州的な人気の獲得にも支えられる形で、一時的なマッスルカー及びポニーカー(英語版全盛期迎えるが、1970年代初頭石油危機と共にアメリカ車大排気量ハイパワー路線は完全に破滅し俗にアメリカ車悪夢時代英語版)とも呼ばれる長い低迷期迎え事となってしまう。また、マクナマラフォード・モーター通じて自動車業界持ち込んだコスト管理概念は、マクナマラフォード・モーター去って以降は、事故失われる人命対す賠償金開発コスト天秤に掛けるというマクナマラ本人の安全思想とは逆の方向発展していき、アイアコッカ開発指揮を執った1970年フォード・ピントによりフォード・モーターにとって最悪の結末迎え事となる。 フォード・モーター市場調査社内政治杜撰さを示す証言は、リー・アイアコッカ指揮下でフォード・マスタング設計したドナルド・N・フレイ英語版)によっても成されている。フレイによればマスタングなどの成功作においてしばしばフォード・モーター自ら言及する入念な市場調査により消費者動向事前に掴んでいた」という発言は正当ではなくフォード・モーターにおける市場調査結果は、しばしば実際車体発売後に社の内外公開され、ひどい場合事後行われたものをさも発売前に行ったかの様見せ掛けたり発表前の市場調査結果実際車体販売状況合わせて改竄する事すらあったという。フレイまた、車体開発において現場側の独走経営陣追認される事態もしばしばあった事を証言している。実際にマスタングは、エドセルの失敗深く後悔したヘンリー2世により4度渡り却下され企画であったが、フレイ始めとする技術陣は経営陣承認が全く無い不安定な環境の中で秘密裡マスタング開発続け5度目提案にて「マスタング失敗した場合には自らの解雇受け入れる」事を条件ヘンリー2世承認取り付けたという。最終的にマスタング成功作となり、マスタングパワートレイン豪州フォードファルコンにも流用されて成功収めたアイアコッカは「事前市場調査と自らの先見の明」を自画自賛したが、フレイは「彼らは全体結果神聖化する為に全てを後から書き換えた。あなたが今手にしているフォード・モーター調査資料は、全くくだらないものでしかない。」と語った

※この「社内政治とロバート・マクナマラの役割」の解説は、「エドセル」の解説の一部です。
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