慶長の役とは? わかりやすく解説

慶長の役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/06 16:36 UTC 版)

日野元重」の記事における「慶長の役」の解説

慶長2年1597年)から始まる慶長の役では秀元に従って朝鮮渡った同年12月22日から慶長3年1598年1月4日にかけて行われた第一次蔚山城の戦いにおいては和智元盛、三刀屋孝和、口羽元良吉見広行毛利氏家臣加え加藤清正家臣加藤重次近藤四郎右衛門と共に蔚山城三の丸籠城して戦い負傷しつつも武功挙げた。これにより、第一次蔚山城の戦いで功のあった毛利氏家臣賞した慶長3年1598年1月25日付の豊臣秀吉朱印状に元重の名(日野新次郎)も記されている。また、同年1月29日に輝元は児玉元兼を使者として、蔚山城での籠城戦苦労をねぎらう旨の書状を元重に送っている。

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慶長の役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:49 UTC 版)

豊臣秀吉」の記事における「慶長の役」の解説

詳細は「文禄・慶長の役#慶長の役」を参照 文禄5年1596年)、明との間の講和交渉決裂し秀吉作戦目標を「全羅道悉く成敗し忠清道京畿道にもなるべく侵攻すること、その達成後は拠点となる城郭建設し在番城主定めその他の諸将帰国させる」として再出兵の号令発した慶長2年1597年)、小早川秀秋元帥として14万人の軍を朝鮮再度出兵する漆川梁海戦朝鮮水軍壊滅させる進撃開始し、2か月慶尚道全羅道忠清道制圧京畿道進出後、日本軍作戦目標通り南岸撤収し文禄の役の際に築かれ既存城郭外縁部に新たに城塞倭城)を築いて城郭群を補強したこのうち蔚山城完成前明・朝鮮軍の攻撃受けたが、日本軍明・朝鮮軍を大破する(第一次蔚山城の戦い)。城郭群が完成し防衛体制を整えると、64千余の将兵在番として拠点となる城郭群に残し防備固めさせる一方、7万余将兵本土帰還させ慶長の役の作戦目標完了したその後第二次蔚山城の戦い泗川の戦い順天城の戦いにおいても日本軍防衛成功した秀吉慶長4年1599年)にも再出兵による大規模な攻勢計画しており、それに向けて倭城兵糧玉薬などを諸将備蓄するように命じていたが、計画実施前に秀吉死去したため実施されることはなかった。秀吉死後五大老により、朝鮮半島在番日本軍帰国命令発令された。

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慶長の役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 10:21 UTC 版)

立花宗茂」の記事における「慶長の役」の解説

慶長2年1597年)からの慶長の役では侵攻軍には編入されずに釜山守備を命ぜられた。侵攻軍のうち井邑会議参集した諸将今後作戦展望として連署注進状秀吉送っており、その中で南部布陣当初計画では釜山守備について日本と結ぶ重要拠点であるため、当初計画した若い立花宗茂から豊臣政権信望高い老将毛利吉成変更したい」との要請行い最終的に吉成釜山宗茂固城安骨倭城守備割り当てられた。続く、第一次蔚山城の戦いでは固城倭城守備に就いており戦闘には二日遅く参加したとされる慶長3年1598年9月明・朝鮮軍による蔚山泗川順天への三方同時攻勢の際には、固城守備に就いていた宗茂島津忠恒より泗川攻撃通報受けて9月28日書状返信行っており、戦闘には参加しなかった。だが、『柳河藩享保八年藩士系図』によって、家臣小串成信など蔚山にて戦死記載があるので、蔚山の戦闘は実際に参加していた可能性はある。 秀吉死去する朝鮮派遣されていた日本軍撤退命令下ったが、順天倭城小西行長らが海上封鎖を受け撤退阻まれていることを知ると、弟の高橋直次島津義弘宗義智寺沢広高小早川秀包筑紫広門と共に水軍編成して救援向かい陳璘率い明水軍や李舜臣率い朝鮮水軍戦い露梁海戦)、一番乗りの功を挙げた家臣池辺貞政(彦左衛門池辺永晟の弟)が戦死したものの、行長らの救出成功させ、朝鮮軍60艘を捕獲した。この戦いについて島津家臣の川上久国自身日記海戦にも敵の偵察用心し善戦した立花高橋軍に比べ自軍死傷甚大嘆いていると記述した上記の他に次のような武勇伝伝わっている。 慶長3年1598年第一次蔚山の戦いの時、日本軍諸将救援のため釜山から出て蔚山進軍した1月2日、明将の高策率い明軍2万2千、朝鮮軍3日本軍本陣を偸襲するために釜山進軍、般丹に現れた。本陣宇喜多秀家は、安骨倭城にいる宗茂呼びかけ釜山出撃求めた宗茂800の兵を率いて高策2万2千の兵を夜襲火計使い撃破し700の首を取った戦功挙げ、これは般丹の戦い称えられたという。のち、蔚山城救援日本諸軍比べて二日遅く蔚山到着しても、吉川広家日本軍諸将と共に連携して明・朝鮮軍を撃退した。 明将の麻貴率い明・朝鮮軍29,500人が蔚山倭城再度攻撃し第二次蔚山城の戦い)、守備当たった加藤清正包囲され窮地に陥っていることを知ると、釜山近所日本軍諸将会議を行う。日夜対策評議されたがなかなか結論出ず辛抱強く議論聞いていた宗茂さすがにしびれを切らし評定のみに日を送って無駄なことです。思いますに、まず蔚山城の敵を追い払え泗川の敵は退き泗川の敵が退却すれば順天の敵もおのずから退却いたすでありましょう拙者蔚山城救援いたしましょう」と進言した。それを聞いた総大将小早川秀秋は「それはよいことを申された。わずか3,000にも満たないであれば万一やり損なって味方難儀にはなりますまい」と言い放った宗茂はわずか1,000の兵を率いて救援駆けつけ500の兵をわけて夜襲敢行別の500の兵が鉄砲攻撃し明軍先陣5,000人を撃退しその後偽情報拡散するために先の夜襲した際の捕虜40人余を解放したその夜、偽の陣地や営火と伏兵使って明軍引き出して分断包囲撃破翌日蔚山城到着し加藤清正援助したその後清正も5,000軍勢明軍追撃し戦後ともに蔚山城入り清正から「日本軍第一勇将」と絶賛された。 なお、これらの武勇伝同時代史料記録無く、話の信憑性には疑問符が付く。しかし、立花家臣の十時惟由(但馬)と米多比鎮久立花丹波)は二人自身覚書両度蔚山戦闘記述がある。

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慶長の役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 14:01 UTC 版)

李舜臣」の記事における「慶長の役」の解説

1597年李舜臣後任水軍統制使・元均水軍単独での攻撃命令嫌がりながらも遂行したが、漆川梁海戦巨済島の海戦)で大敗元均をはじめとした数名将軍戦死し朝鮮水軍はほとんど壊滅してしまった。李舜臣は、水軍統制使に返り咲いて壊滅した水軍再建進めた李舜臣再任された時、朝鮮水軍には僅か12隻の戦船板屋船)しか残っていなかった。日本軍によって全羅道忠清道掃討されつつある中、壊滅直後残存艦隊収容しながら後退した李舜臣艦隊は、朝鮮半島西南端の潮流激しい鳴海峡日本水軍を誘導し突入してきた日本水軍の先頭部隊を攻撃し大名来島通総戦死させた(鳴梁海戦)。しかし、後続日本水軍は質・量ともに強大なため、海戦夜には鳴海峡放棄し後退した続いて日本勢全羅道西岸拠点次々と制圧し停泊地失った李舜臣はさらに後退し全羅道北端まで退却した日本水軍は全羅道西岸制圧実施し姜沆や鄭希得などの多く捕虜得た全羅道忠清道掃討作戦成功裏終結させた日本軍は、当初からの作戦計画沿って慶尚道から全羅道にかけての朝鮮南岸域へ後退して倭城群を構築した日本軍後退する李舜臣水軍明・朝陸軍と共に朝鮮南岸再進出し、朝鮮南岸西部にある古今島拠点として朝鮮水軍再建努めた1598年7月日本軍西端拠点であり小西行長率い13,700人の兵が守る順天城攻撃するため、陳璘率い明水軍が古今島合流すると、李舜臣明水軍の指揮下に入った同年9月明・朝鮮の水陸55,000人による水陸共同順天攻撃作戦開始され戦い10月初めまで続いたが、水陸両面明・朝鮮軍は多大な損害を出すなど苦戦続き厭戦気分蔓延して攻撃頓挫明・朝鮮軍は撤退開始し李舜臣海上封鎖解いて古今島撤退し兵数圧倒的に勝っていた明・朝鮮軍は敗北した順天城の戦い)。 豊臣秀吉死後日本軍退却命令出される小西行長は明との間に講和成立させた後、海路撤退しようとしたが、それを知った明・朝水軍古今島から松島沖に進出海上封鎖実施し小西らの退路阻んだ講和後のこの明・朝水軍行動(ただし明とのみの講和朝鮮との講和成立していない)に、小西軍は順天城での足止め余儀なくされた。この小西軍の窮状知った島津義弘日本側の諸将急遽水軍編成して救援に送ることとなり、これに対し李舜臣および明・朝水軍順天封鎖解いて東進し島津水軍を露海峡迎え撃つこととなった。 この露梁海戦では、夜半からの戦闘長時間続き日本軍明・朝水軍双方大きな被害被ったとされる明・朝鮮側の資料では自軍勝利を強調しているが、明軍では副将鄧子龍戦死朝鮮軍では主将李舜臣島津兵の鉄砲弾丸受けて戦死した後述)。朝鮮軍ではさらに、李英男(加里浦僉使)、方徳龍楽安郡守)、高得蒋(興陽県監)、李彦良、といった将官戦死した一時突出した明軍主将陳璘日本軍包囲から危うく逃れている。朝鮮側将軍戦死損害過多統制欠き作戦行動継続不可能となり、小西軍の救援駆けつけ島津軍は、殿軍務めて無事にこれを撤退させ当初の予定通り救援任務完遂した。

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慶長の役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:46 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「慶長の役」の解説

慶長2年1597年)の後役作戦目標は、諸将に発せられた2月21日朱印状によると、「全羅道残さず悉く成敗し、さらに忠清道その他に進攻せよ。」というもので、作戦目標達成後は、慶尚道沿岸部撤収し仕置きの城(倭城)を築城し、在番城主主として九州の大名)を定めて、他の諸将帰国するという計画定められた(さらに、その後慶長4年1599年)に、再出兵による大規模な攻勢計画されていた。)。慶長2年1597年)、九州四国・中国勢を中心に編成され総勢14万人超える軍勢逐次対馬海峡渡り釜山浦を経て任地向かった

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