弊害・危険性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 08:25 UTC 版)
アメリカ国立衛生研究所は、瞑想は一般的に、健康な人にとっては安全であると考えられると報告している。瞑想は経験豊富な優れた指導者の元で、正しい態度で行われる必要がある。精神疾患の既往、身体的な病気がある場合には、始める前に主治医等と相談し、瞑想指導者に病気について知らせることが必要である。 瞑想が宗教的文脈と切り離され、一般での実践が盛んになると、瞑想によって精神的に不調になり、精神病を患う人も現れるようになった。瞑想の臨床研究が盛んになると、瞑想の弊害も報告されるようになった。一般社会に瞑想や神秘主義が流行しているため、精神科医がそうした事象が引き起こす精神的不調や病気に関する十分な理解、援助の知識を持つ必要があるが、そうした蓄積はいまだ十分ではなく、精神科医の側からも教育と研究の必要性が指摘されている。 安藤治は、「そのような報告はまだ数は少ないが、臨床的報告としては非常に重要なものである。というのも、それは、臨床場面で安易に瞑想を適用ないし「処方」したりすることがはらむ大きな危険性を直接的に示すものだからである」、瞑想に不向きな人がおり、様々な瞑想の伝統のように瞑想には十分な準備が必要である可能性がある、と注意を促している。弊害としては、「時折起こるめまい、現実との疎外感、それまでになじみのなかった思考、イメージ、感情などが引き出され、それらに敏感になることによってもたらされる苦痛、また、不安、退屈、ゆううつ感、不快感、落ち着きのなさの増大」などが報告されており、マインドフルネス瞑想によってトラウマ記憶が思い出され、それがうつのきっかけになる恐れもある。マインドフルネス瞑想がストレスになって、痛みへの耐性が下がったり、自己コントロール力が低下した例もある。 アメリカ国立衛生研究所は、瞑想が不安障害やうつ病のような一種の精神病の人々の症状を引き起こしたり悪化させたという報告は稀だと述べている。マインドフルネス瞑想の実践のリスクについては科学的な情報は十分でないが、パニック・うつ・不安の発現・悪化などの報告があり、また稀ではあるが、そう状態・精神症状なども報告されている。マインドフルネス瞑想の長期のリトリート(英:Retreat、集中合宿)では、害の報告は稀であるが、数人の参加者が終了後、数カ月または数年間続く深刻な心理的問題を報告している。ヴィパッサナー瞑想のリトリートでは、1日12時間以上の瞑想を行った人と、2時間以下の瞑想を行った人では体験内容に大きな違いがあることが報告されており、データの集め方が十分とは言えないが、長時間の瞑想者は「身体イメージの変化、エネルギーが湧き上がってくる感覚、通常とは異なる呼吸のパターン、幻覚体験を含んだ奇妙な視覚、聴覚、味覚、嗅覚の変化、喜びや言いようのない幸福感、時間感覚の変化、集中力の変化、対外離脱体験、自然な気づき、スピリチュアルな体験」を報告している。 瞑想のリトリートの場合、日常と切り離された環境で長時間の瞑想を行うため、瞑想体験が深まり、意識は内面へ集中し、日常から意識は遠ざかることになる。リトリートから日常生活に戻る際に「現実的な見当識が弱まり、思考プロセスが止まってしまい、自分が何をすべきか、どこへ行くべきかといったことがなかなかできなくなったりする」といった障害が見られることがあり、その症状は精神医学で離人症と呼ばれる症状に極めて似ている。長期瞑想者のほとんどがこの離人症的な障害を体験しているともいわれ、精神科での治療が必要になった例もある。ただし、瞑想による離人症的な障害と離人症が同じものであるのかはわかっておらず、瞑想による離人症的な障害は、薬物投与で悪化するという指摘もある。 自我構造の弱さが病理として表れていると考えられる精神病や境界例には、瞑想は有害である可能性がある。臨床研究の中には、瞑想は「精神病や境界例、慢性のうつ病、片頭痛やレイノー病などに対しては安易に適用されるべきではない」ことを示唆するものもある。マインドフルネス瞑想は、不安、うつ状態、トラウマ、精神疾患の既往のある人には、有害な作用が増強される可能性があり、一方でこれらが改善することも報告されているため、十分なトレーニングを受けた指導者が慎重にスクリーニングを行い、途中経過をモニターしつつ実施することが必要とされる。 マインドフルネスの実践は、快適な、不快な、または中立的な体験をもたらすもので、動揺、身体的不快感、眠気、悲しみ、怒りなどの不快な経験も含まれる。多くの場合そうした経験は一時的なものであり、それが生まれて消えていく過程を観察することが学びのプロセスになっているが、ごく一部の参加者は持続的な悪化または長期的なダメージを経験している可能性がある。この問題はまだ十分に研究されておらず、今後の研究が期待されている。 運動をする際に、その強度、個人の特性、指導者の質が重要であるように、マインドフルネスなどの瞑想の実践においてもその3点は重要である。マインドフルに食べる、見る、聞くといったごく軽度の実践が有害であるというデータはない。8週間にわたり毎日最大で40分間のマインドフルネスを実践する心理療法マインドフルネスストレス低減法は、強度は中程度であるが、参加者の母集団が明確に定義され指導者が十分に訓練された予備調査では、害の証拠がないことが示唆されている。最も強度の強い実践はリトリートであり、参加者は1日何時間も、時に1週間も沈黙の中で瞑想を続ける。マインドフルネスの悪影響の報告は、ほとんどがこうしたリトリートである。 瞑想初期の段階に、実践方法・実践態度が間違っていると、受け流すべき思考に圧倒されて妄想的な思考に陥ったり、不安や心身の不調が現れることがある。瞑想を進めていくと、心理的な防衛のメカニズムが崩され、不快な記憶が思い出されたり、心理的葛藤が起こって不快な気持ちや抗うつ感に悩まされたり、痛みが起きることがよくあり、精神病の既往歴のある人の場合、再発の可能性もある。心理学的な知識のない瞑想指導者が、不調に陥った瞑想者に対し、さらに集中的な瞑想をするべきだと判断して悪化する可能性もあり、このような事態に陥った場合、精神科医等の専門家による介入が必要となる可能性がある。 瞑想の実践がある程度進んだ時期(キリスト教においては、念祷に熟達した段階)では、キリスト教の聖者十字架のヨハネが「魂の暗夜」と呼んだ、霊的進歩が停滞し、むしろ後退してしまったように思われ、「生のすべてが意味を失い、深い苦痛や絶望、重苦しい抑うつ感にさいなまれる」状態になることがある。通常のうつ病的な状態とは異なり、自殺することはないと言われ、十字架のヨハネの理解によると、魂がより高い次元に足るための一つの過程である。同様の体験をした聖者たちの記録が、魂の暗夜を乗り切るささえとして活用される。 多くのスピリチュアルなコミュニティには、現実逃避や、現実の問題に魔術的な解決がもたらされることを期待して、瞑想などのスピリチュアルな実践に熱中している人も少なくない。トランスパーソナル心理学者・精神療法家のフランシス・ヴォ―ンは、瞑想や様々なスピリチュアルな実践に向かう人の態度に見られる問題として、スピリチュアル・アディクション(スピリチュアル中毒、スピリチュアル依存)をあげており、「スピリチュアリティへの強い欲求やこころざしには、本質的に自己の責任の放棄という要素が含まれるため、外的対象に依存しがちになり、アディクション(中毒)に陥る傾向がつねに強く潜在している」と注意を促している。精神医学や心理学が、スピリチュアルな実践を病理的なものと考えたり、疑いの目で見るのは、こうした一部の実践者たちの現実逃避的な態度も影響している。現実逃避的な人が瞑想などのスピリチュアルな実践を行う場合、依存が起きやすく、一度依存してしまうと抜け出しにくい。スピリチュアルな実践を行う自分を特別だと思い上がったり、スピリチュアルなもののみに価値を見出すような生活の破綻が起こることもあり得る。まだ自我が確立されていない場合、スピリチュアルな実践が弱い自分の自己評価を高める道具になってしまう恐れもあり、罪からの解放や浄化を目指す場合には、実践全てが贖いの儀式と化してしまうこともあり得る。 瞑想修行がすすみ、集中的瞑想の段階に入ると、新しい心的世界に直面し、様々な心的要素が現れ出でる。多くの瞑想伝統では、こうした現象は悟りに至る過程にすぎず、「副作用」のようなものとみなされているが、瞑想者が受ける衝撃は大きく、道を踏み外す人もおり、病気のような状態になる人もいる。研究の盛んな欧米ではまだこの段階に達している瞑想者は少ないため、こうした現象がどの時期に現れるかよくわかっていないが、初心者にはみられない。感情的・身体的エネルギーの激発(体の一部が突然動く、急に脊髄が燃えるように感じられて体中が熱くなる、身体各部に強烈な痛みを感じる、身体各部の緊張が急に解き放たれる、様々な色の光に襲われる、強いエクスタシーを伴って身体全体が震える、複雑で劇的な身体の動きが数日~数年続く、など)があり、そうした現象が起こった場合、冷静に観察しながら正しい瞑想を続けるが、瞑想をいったん中断して適度な運動や鍼治療、農作業やイメージトレーニングを行うこともある。ヒンドゥー教で「クンダリニーの覚醒」と言われる状態に当たるものだと思われるが、「クンダリニーの覚醒」自体が、科学的に十分理解されていない。 また瞑想集中期には、身体の大きさや重さの感覚に異常が生じたり、自分自身を外から眺める幽体離脱体験することもある。幻聴などの聴覚の変容、絶望感、喜び、深い悲しみ、恐怖といった強い感情に急に襲われたり、感情が強く動きコントロールできなくなることもある。過去世のようなヴィジョンや見知らぬ情景といった古代的・元型的イメージに圧倒されて、精神のコントロールを逸するものもいると言われる。こうした体験を恐れたり強く抵抗すると、禅で「魔境」と呼ばれるように、体験に取り込まれて瞑想が継続不可能になることもあるが、優れた指導者による十分なサポートなしに、体験を受け流すことは難しく、病的な状態に陥り、薬物治療が必要になる危険性がある。 集中的瞑想が深まり、次なる段階への入り口に差し掛かると、「すばらしい喜び、至福の感情、魅惑的な恍惚感、強烈な解放感」が湧き上がることがあり、瞑想者がこれを瞑想の最終的な到達点と勘違いすることが少なくない。シュード・ニルヴァーナ(偽涅槃)と呼ばれており、瞑想が深まる過程の正しい一段階であるとみなされているが、強烈な幸福感を伴うため、この体験に夢中になってしまったり、悟りの境地に達したと信じてしまうものもいる。伝統的な瞑想では、こうした体験を指導者がチェックし、瞑想者が正しく認識するよう導くよう体系化されており、このような体験とは距離を取って接するように指導される。 また日本の禅では、修行の途中で様々な精神的・身体的不調をきたす状態「禅病」があることが、修行者たちの間で知られているが、肯定的な体験ではないため、あまり記録が残されていない。江戸時代の禅僧白隠が禅の修行で患った禅病は、臨済禅の公案(師に与えられた非論理的な質問への答えを探し出す修行法)によって引き起こされることが多いと言われる。安藤治は、瞑想が深まった高次の段階で起こる障害は情報が少ないため、白隠の記録は意味深いと評している。 さらに深まった洞察的瞑想期の体験については、あまり知られていないが、世界の生成消滅の有様についての洞察をつかむと言われている。なお、瞑想に伴って現れる危機は、必ずしも瞑想の段階と正確な関連があるわけではなく、整理することは困難である。
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