弊害の指摘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:47 UTC 版)
天保5年(1834年)、20年間の延長が決定した薩摩藩の長崎商法であったが、その後間もなく逆風に晒されることになる。天保6年(1835年)3月、老中大久保忠真は勘定奉行土方勝政に対し、薩摩藩が唐物を北陸、越後などに大量に送って売りさばいており、それが長崎での貿易が振るわない要因となっている等の、薩摩藩の抜荷に関する風説書を手渡し、調査を求めた。4月には土方は回答に当たる言上書を提出する。言上書で、蝦夷地の上等品の煎ナマコが抜荷となって越後で売買され、薩摩へと流れていくとの通報があったため、天保4年(1833年)に越後の海岸部を見回ってみたところ、新潟に蝦夷地産の煎ナマコが出回り薩摩船に密売しているのは間違いないとの報告があったこと、薩摩藩が唐物の抜荷を密売買しているとの風説は以前よりあることは承知しているものの、(大藩である)薩摩藩の御手入れは容易なことではないこと、そして薩摩藩には抜荷取り締まりを改めて通達すべきであると報告された。 老中大久保忠真の勘定奉行土方勝政への調査依頼に始まった幕府の本格的な薩摩藩の疑惑に関する調査は、幕閣では大久保、土方の他、長崎奉行久世広正、若年寄林忠英の間で進められた。天保6年(1835年)5月、久世広正は長崎会所は近年、借入金の増大や幕府に対する上納金が納められず、むしろ幕府からの御下金によって運営している状況に陥っており、これは薩摩藩による抜荷などによって長崎貿易の輸入品の価格下落が起きているためであると報告した。 薩摩藩に対する疑惑が深まる中、若年寄林忠英は天保6年(1835年)7月、目付の戸川安清に長崎取り締まり強化を命じた。しかし薩摩藩は大藩であり、藩主の島津家は将軍家との姻戚関係もある。土方の言上書にもあるように薩摩藩の行動を直接的に抑え込むことは容易なことではなく、しかも薩摩藩は長崎での唐物商売を幕府から公認されている。そこでまず抜荷の摘発、封じ込めを行って薩摩藩の違法な貿易活動に制限を加える方法が取られた。7月には土方、久世の連名で改めて言上書が提出された。言上書には唐物抜荷と俵物抜荷は互いに密接に関係していると指摘した上で、俵物の産地である松前藩と唐物抜荷問題の当事者である薩摩藩に対して、抜荷を厳しく取り締まるように命じる「達書」の案文を付けていた。薩摩藩への案文の中で、風聞に偽りが無ければ長崎会所の貿易に支障があるのみならず、国政に関わる問題であると厳しく指摘した上で抜荷取り締まりを厳命し、違反があるようならば年限内であっても長崎での唐物商売の停止を行うとされていた。 薩摩藩にとって悪いことに、天保6年(1835年)9月、幕閣にあって長崎商法20年間延長を主導した老中松平康任が、仙石騒動問題で辞職を余儀なくされていた。幕閣は長崎貿易と抜荷に対する規制、取り締まりを強化する方向へと政策を転換していく。前述の土方、久世の松前藩、薩摩藩への達書案は、天保6年末には実際に両藩に通達された。しかし幕府は天保6年年末段階ではまだ、薩摩藩に対しては抜荷取り締まり強化を命じる対応で収めようと考えていた。
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