地中海での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:01 UTC 版)
「エイジャックス (軽巡洋艦)」の記事における「地中海での活動」の解説
1940年(昭和15年)1月、エイジャックスはモンテビデオ、リオデジャネイロ、シエラレオネを経由し、イギリス本土に帰投する。1月の終わりには、空母アークロイヤル、巡洋戦艦レナウン、駆逐艦ヘイスティ、ヒーロー、デインティ、ダイアモンドと航路を共にした。1月31日、プリマスに到着した。 2月にはチャタム工廠のドッグに入渠し、整備を受けた。同月15日、ラプラタ沖海戦で共に戦った重巡エキセター (HMS Exeter, 68) がプリマスに到着する。エクセターやエイジャックスの一部乗組員はロンドンに派遣され、イギリス国王ジョージ6世から勲章を授与された。エイジャックスの整備が終了し、戦線に復帰したのは1940年(昭和15年)8月である。エイジャックスはレーダー増設工事、艦首および艦橋の改装を受けていた。エイジャックスは地中海戦線の第7巡洋戦隊 (7th Cruiser Squadron) に配属され、艦体にはマウントバッテンピンク塗装がなされた。 この時、すでにフランスは降伏してヴィシー政権が樹立しており、イタリア王国の主要交戦国は今やイギリスとなっていた。8月21日、通商護衛の任を受けたエイジャックスは、重巡洋艦ヨーク (HMS York, 90) と共にイギリスを立った。ハット作戦 (Operation Hats) で連合軍輸送船団は地中海を経由しエジプトに至る予定だったが、イタリア王立海軍 (Regia Marina) が制海権を握っていたため、ダーバン経由の海路変更を余儀なくされた。 9月末、エンプレス・オブ・ジャパン(英語版)、オライオン (客船)(英語版)、オロンセイ(英語版)の3隻からなる武装船団をアデンからスエズまで護送したのち、30日にはオーストラリア海軍の軽巡洋艦シドニー (HMAS Sydney) とアレクサンドリアで合流した(MB5作戦)。アレクサンドリアは地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) の本拠地であり、司令長官カニンガム提督は戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) に将旗を掲げていた。 10月2日から16日にかけて、エイジャックスは地中海での通商作戦の主力艦隊に参加した。すなわち、リビヤに向かうイタリア船団への通商破壊と、マルタに向かうイギリス船団の通商護衛である。作戦当初、エイジャックスは別働艦隊を組み、イタリアの護送船団を捜索した。 そして10月8日、来たるMB6作戦のため、エイジャックスは主力艦隊に合流した。このマルタ補給船団は、地中海攻防戦とマルタ攻囲戦において特に大規模かつ、重要な輸送作戦である。作戦行動において、エイジャックスは同型の軽巡洋艦オライオン (HMS Orion, 85) と共に、12日の第四船団のアレクサンドリアへの到着に先駆けて、マルタ南東海域を巡回した。なお、このとき主力艦隊は船団の東側に展開していた。 10月11日深夜から12日未明にかけて、エイジャックスはイタリア王立海軍の小規模艦隊と交戦した(パッセロ岬沖海戦)。この海戦において、スピカ級水雷艇3隻、ソルダティ級駆逐艦4隻と事実上単独で交戦するという不利な状況下ながら、水雷艇2隻を撃沈、イタリア駆逐艦アルティリエーレを撃破するという戦果をあげ、16日にアレクサンドリアに帰投した。一方で、エイジャックスは7発の直撃弾を受け、救命艇1隻を喪失し、艦橋とレーダーに甚大な被害を受けると共に、35名の死傷者(死者13名を含む)を出した。 10月末、クレタ島のサウダ湾に陸上部隊を輸送する任務に就いた際には、イタリア空軍 (Regia Aeronautica) の航空攻撃から辛くも逃れた。 11月6日、主力艦隊に合流したエイジャックスは、地中海艦隊を総動員した大規模輸送作戦、MB8作戦に参加した。 エイジャックスは英軽巡オライオン (HMS Orion, 85) 、豪軽巡シドニー (HMAS Sydney) 、英駆逐艦ヌビアン、モホークと艦隊を組み、タラント空襲のための陽動作戦を行った(オトラント海峡海戦)。この作戦でイギリス艦隊は4隻のイタリア商船を撃沈し、水雷艇1隻を大破させた。海戦に勝利したあとアルバニアの軍港ドゥラスに砲撃を加え、石油精製設備を炎上させた。 11月15日から20日にかけては、4隻の巡洋艦と共にアレキサンドリアからアテネの都市、ピレウスまで陸戦部隊を輸送した。11月23日にはクレタ島の輸送船団を護衛し、イギリスのトリポリ爆撃を支援した。 翌1941年(昭和16年)3月末、ウィッペル提督が率いる偵察艦隊(旗艦オライオン、軽巡エイジャックス、パース、グロスター、第2駆逐戦隊)としてマタパン岬沖海戦に参加した。5月21日、クレタ島攻防戦(ドイツ側呼称:マーキュリー作戦)ではドイツ空軍 (Luftwaffe) のJu 87 (Junkers Ju 87 Stuka) の航空攻撃を受けて損傷しながら任務を続行した。クレタ島撤退作戦従事中の5月27日、Ju-87の急降下爆撃で再び損傷し、戦線離脱を余儀なくされた。 修理後の6月、エイジャックスには白と黒を基調とする複雑なダズル迷彩塗装が施された。この頃のエイジャックスが地中海艦隊旗艦とともに停泊していた際、アンドリュー・カニンガム司令長官が「幻惑されてかなわんから、エイジャックスを移動させてくれ」と打診してきた逸話がある。 同月8日~13日にはシリア・レバノン戦役に参加した。11月に入っても、ドイツアフリカ軍への海上輸送を妨害するK部隊に所属して活躍を続ける。1942年(昭和17年)2月、調整と改修のために地中海戦線を離れた。
※この「地中海での活動」の解説は、「エイジャックス (軽巡洋艦)」の解説の一部です。
「地中海での活動」を含む「エイジャックス (軽巡洋艦)」の記事については、「エイジャックス (軽巡洋艦)」の概要を参照ください。
地中海での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 16:05 UTC 版)
その後、ムラト・レイースはエジプトとアナトリアを結ぶ航路を保護する任務に就いた。この交易路はオスマン帝国に莫大な富をもたらしていたが、頻繁にヴェネツィアやフランス、マルタ騎士団の襲撃を受けていた。1609年、キプロス島沖にフランス・マルタ騎士団の連合艦隊が出現した。これは10隻のガレー船と、「レッド・インフェルノ」と恐れられた大砲を90門も装備した巨大なガレオン船「ガレオナ・ロッサ」などで構成されており、フレシネという名の騎士が指揮していた。これを聞いたムラト・レイースは迎撃に向かい、近距離および遠距離からの砲撃を使い分けて敵艦隊を破り、ガレオナ・ロッサ、ガレー船10隻のうち6隻、500人の敵兵、160門の大砲と2000丁のマスケット銃を獲得した。この戦いでムラト・レイースも大けがを負い、死去したとされるが、1638年のヴロラ包囲に参加してその戦中に没したとするものもある。
※この「地中海での活動」の解説は、「ムラト・レイース」の解説の一部です。
「地中海での活動」を含む「ムラト・レイース」の記事については、「ムラト・レイース」の概要を参照ください。
地中海での活動(1)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 02:08 UTC 版)
「シドニー・スミス (軍人)」の記事における「地中海での活動(1)」の解説
ナイルの海戦におけるネルソン圧勝の後、スミスは「ティーグル(Tigre)」(イギリスに捕獲されたフランスの80門戦列艦)の艦長として地中海に派遣された。彼は地中海艦隊司令長官セント・ヴィンセント卿の指揮下に加わるよう命令されたが、彼に与えられたのは純然たる海軍の任務ではなかった。セント・ヴィンセントは、スミスをレバントにおいて必要な軍艦を指揮することのできる代将(コモドー)に任命した。スミスはまた、彼の兄弟がいまや全権公使として赴任しているオスマン帝国のイスタンブールに行く軍事および外交の任務も帯びていた。その任務とは、ナポレオンに対抗するトルコの立場を強化し、エジプトで立ち往生しているフランス軍をトルコが撃破するのを援助するというものだった。この二重の任務は、地中海のセント・ヴィンセント艦隊では彼の上官にあたるネルソンにとって、レバントにおける彼の権威に名目上取って代わるものであったため、その憤慨を招いた。ネルソンの反感は、海軍内部でのスミスの評判に悪影響を与えることとなった。 13,000人の軍隊を率いたナポレオンは、エジプトでオスマン帝国軍を撃破し、オスマン帝国のシリア行政区(それは今日のシリアとレバノンに加え、イスラエルとパレスチナを含む地域である)を地中海の海岸に沿って北に進撃した。彼は民間人に対しても残虐性を発揮しながら(そうしたことは当時の認識では必ずしも非常識なことではなかったが)ガザとヤッファを占領し、捕虜にしたオスマン軍兵士を虐殺した。ナポレオンは彼らを一緒に連れて行くことはできず、かといってエジプトに送り返すこともできなかったからである。そしてナポレオン軍は、ついにアッコに進出した。 スミスは海路アッコに達し、アッコの太守ジャッザール・パシャの防備を援助するとともに古い城壁の補修を行い、さらに彼の艦隊から大砲とそれを操作する水兵と海兵隊員を供給した。彼はまた、自軍の制海権を行使してエジプトから船で送られてくるフランス攻囲軍の大砲を横取りし、さらに海から砲撃を行うことによって、フランス軍がヤッファから海岸沿いの道を利用することを妨害した。 1799年3月遅く、フランス軍の包囲が始まると、スミスは軍艦「ティーグル」と「シーシュース」を構内に錨泊させ、その舷側砲火で防備軍を援助させた。度重なるフランスの攻撃は追い返され、また城壁の下を掘り進む数度の試みも阻止された。5月初め、フランス包囲軍の交代の砲兵部隊が陸路で到着し、突破口が開けられたが、その攻撃は、ロードスからのオスマン増援軍の上陸により再び阻止された。5月9日、激しい砲撃の後にフランスの最後の攻撃が行われたが、これも結局撃退された。ナポレオンは軍をエジプトに撤退させる計画を立て始めた。その直後、ナポレオンは彼の軍をエジプトに放置して、地中海を警戒しているイギリス艦隊の目をかわしてフランスへ帰った。 スミスは残ったフランス軍の降伏と本国送還についてフランス軍のクレベール将軍と交渉し、エル=アリシュ協定に署名した。しかし、エジプトのフランス軍は本国に帰さずに撃滅すべしというネルソンの意見が力を持ち、セント・ヴィンセントから艦隊司令長官の任を引き継いだキース卿により、その条約は破棄された。 イギリスは、サー・ラルフ・アバークロンビー指揮下の陸軍部隊をアブキール湾に上陸させることを決定した。スミスと「ティーグル」は上陸部隊の訓練と輸送、およびオスマン帝国との連絡任務を担当した。しかしスミスの不人気は、その外交上の信任と東部地中海の戦隊指揮官という海軍での地位の喪失につながった。侵入は成功し、フランス軍を破ったが、アバークロンビーは負傷してまもなく死亡した。フランス軍は結局、スミスが以前締結したエル=アリシュ協定と同じ条件で本国へ送還された。
※この「地中海での活動(1)」の解説は、「シドニー・スミス (軍人)」の解説の一部です。
「地中海での活動(1)」を含む「シドニー・スミス (軍人)」の記事については、「シドニー・スミス (軍人)」の概要を参照ください。
地中海での活動(2)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 02:08 UTC 版)
「シドニー・スミス (軍人)」の記事における「地中海での活動(2)」の解説
1805年11月にスミスは少将に昇進し、地中海に派遣されて、ネルソンの死後に司令長官となったコリングウッドの下に配属された。コリングウッドは彼を両シチリア王国のフェルディナンド1世王を援助するために分遣し、ナポリ王となっているナポレオンの兄のジョゼフから首都ナポリを奪還するのを援助することを命じた。 スミスは、カラブリア非正規軍と5,000人のイギリス将兵をナポリの北に進撃させることを計画した。1806年7月4日、彼らはマイダの戦いで、優勢なフランス軍を破った。しかし彼はまたしても上官の怒りを買い、勝利にもかかわらず陸上部隊の指揮官を交替させられてしまった。後任はイギリスの有能な兵士のひとりであるジョン・ムーアだった。ムーアはスミスの計画を放棄し、シチリア島を地中海におけるイギリスの重要な根拠地とする方針に転換した。 スミスは、1807年2月、サー・ジョン・トーマス・ダックワース提督のコンスタンティノープル遠征に同行した。これはフランスが彼らの軍隊を自由にエジプトに送れるようにトルコとの同盟を作ろうとする動きに前もって対処することを目的としていた。スミスの、トルコ海域に関する他に類を見ない経験と、トルコ宮廷についての知識、それにトルコにおける個人的人気にもかかわらず、彼には従属的な役割しか与えられなかった。ダックワースは結局スミスの助言を求めることになったが、その場合でもそれは変わらなかった。ダックワースはスミスにトルコとの交渉を任せたが、フランス大使が後に「フランス風序曲の終わり」と言った、トルコの激しい砲撃を浴びながらダーダネルス海峡を通って後退した。これは敗北に他ならなかったが、攻撃を受けながらの撤退は英雄的な行為としてたたえられた。同年夏、ダックワースとスミスはイングランドに呼び戻された。
※この「地中海での活動(2)」の解説は、「シドニー・スミス (軍人)」の解説の一部です。
「地中海での活動(2)」を含む「シドニー・スミス (軍人)」の記事については、「シドニー・スミス (軍人)」の概要を参照ください。
- 地中海での活動のページへのリンク