地中海での指揮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 20:59 UTC 版)
「フリートウッド・ペリュー」の記事における「地中海での指揮」の解説
その後フリートウッド・ペリューは、36門艦イフィゲニア(英語版)の指揮官となって地中海へ向かった。1813年1月に46門艦レジスタンスの指揮官となって、その年の10月の攻撃に参加し、ポルトダンソの砲台を静まらせ、逃げ出した29隻の護送商船団を拿捕した。しかし1814年2月には、レジスタンスに帰国命令が出た。このため反乱がおこり、鎮圧されたものの、何人かの水兵が死刑になり、または鞭打ちにされた。この一連の反乱行為は厳密な法解釈によって無効となったが、フリートウッドの苛烈な性格により、水兵が反乱を起こしたのだと広く噂された。これがペリューの軍人生活の挫折の発端となった。1815年6月にバス勲章を受け、引き続き地中海でレヴォリューショネア(英語版)を1818年8月から1822年6月まで指揮したものの、以後は艦上で指揮を執ることはなく、その後30年間は半給生活を送った。
※この「地中海での指揮」の解説は、「フリートウッド・ペリュー」の解説の一部です。
「地中海での指揮」を含む「フリートウッド・ペリュー」の記事については、「フリートウッド・ペリュー」の概要を参照ください。
- 地中海での指揮のページへのリンク