上野動物園とともにとは? わかりやすく解説

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上野動物園とともに

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 03:36 UTC 版)

高橋峯吉」の記事における「上野動物園とともに」の解説

新潟県長岡出身農家次男として生まれ独立して生計立てるために1906年明治39年)に東京へ出た東京では兄の友人頼った。兄の友人上野公園に近い下谷初音町現在の台東区谷中) に住んでいて、高橋帝室博物館附属動物園上野動物園前身にあたる)への就職勧めた当時帝室博物館附属動物園は、宮内省管轄だった。宮内省官員になるのは悪くないとの考え田舎育ちの身には東京人間相手にするより動物たち相手の方がやりやすいだろうとの思いから、高橋帝室博物館附属動物園への就職志願した高橋同年12月5日に、帝室博物館附属動物園畜養園丁見習いとして採用された。採用当時日給25銭で、翌年1月17日付で正式の辞令交付された。1年半ほどの見習い期間経て27歳のときに飼養係(飼育係となった高橋加入する前の勤務形態は、飼養係8人が4人ずつの班に分かれて隔日働いていた。なお、隔日交代勤務制度1935年昭和10年)頃まで続いていたが、夜勤専門人員増やされたために廃されている。自著動物たち五十年』の中で高橋往時回想してあけくれは愉しく、張りのある生活が続いた」と記述している。 当初ラクダシカヤク水鳥などの飼育を担当した高橋採用当時上野動物園にはフタコブラクダが7頭飼育されていた。そのうちの2頭は1905年明治28年11月4日上野動物園来園したつがいで、日露戦争の「戦利品」として満州軍総司令官大山巌から献納されたものであったオスのほうは大変に気が荒く高橋たち飼育係から警戒の意味込めて横車のラア公」と呼ばれていた。ラクダオスは、ラア公の他に上野生まれ個体がもう1頭いた。ラクダ運動場ではオス2頭は太い麻縄縛られていたが、どちらかオス時折縄を切ってメスめぐって大げんか始めることがあり、仲裁入った飼育係がラア公に頭を噛まれ病院送りになる事故まで発生していた。高橋もラア公に足をかまれた経験があったが、そのときは厚い靴皮が足を守ったため大した怪我にはならなかった。 高橋50年余りの上動物園勤務中に、14-15頭のラクダ出産立ち会いその子育てにも携わった最初に立ち会ったのはラア公の子出産のときで、初産のためにうまく哺乳できないメスラクダの頸部後脚木に縛りつけて哺乳教えた。メスラクダは4、5日で哺乳要領覚えて、子に乳を飲ませることができるようになった。このラクダの子は「チビ」と呼ばれて人気者となった裕仁親王(後の昭和天皇)が弟の雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)、宣仁親王(後の高松宮宣仁親王とともに上野動物園来園したとき、高橋チビとのかけっこ披露したことがあった。3親王とも動物園が好きであったといい、多いときは月に2、3訪問があった。 1907年明治40年)、上野動物園日本への初渡来となるキリンのつがい(ファンジとグレー)が来園することになった。このキリンは、1907年明治40年)まで上野動物園監督最高責任者)を務めていた動物学者石川千代松ドイツ動物カール・ハーゲンベック契約したものであった。しかし、購入上の手続きはおろか収容する動物舎さえできていないうちに、同年3月15日キリン載せたドイツ船パスボルグ号が横浜港到着した横浜港から東京には屋根なしの貨車陸送ようとしたが、キリン神奈川トンネル品川陸橋の下をくぐることができず、達磨船日本橋浜町河岸陸揚げしてから大八車2台に分乗させた。3月18日キリン上野動物園到着した上野動物園側ではラクダ小屋屋根ぶち抜き急造キリン舎を完成させた。このキリン舎の工事には、大工一緒に高橋携わり、その流れで飼育も担当することになった高橋キリン初め見たとき、その背の高さに驚嘆する同時に中国古来神獣である麒麟恐ろしげ容貌想像していたところに実物キリン優しげな顔にも驚いたという。ただしこのキリン短命で、1908年1月メスが、次いで同年3月にはオス死亡している。 1911年明治44年)に、上野動物園にこれも日本への初渡来となるカバ来園した。来園した子カバオスで、石川千代松カール・ハーゲンベックとの通算6回目最後となる取引によって購入されたものであったこの子カバ短命で、1912年大正元年11月21日にわずか3歳死亡した高橋著書『動物たちと五十年』では当時のことについて「深さ六尺(約1.82メートル)、二間(約3.64メートル四方水槽に、張り二つ五右衛門釜に湯をわかしーその湯を水槽流し込んで水温高めるのだ」と記述していて、劣悪な飼育状況であったことを窺わせていた。子カバの死は、高橋にとっても悲しい出来事であり「これが自分の手落のように思われ、しばらくはぼんやりしていたものだ」と回想している。 1923年大正12年9月1日関東大震災発生したその日高橋いつもの通り出勤したところ、一緒に組んで仕事をしていた職員2日前に荒川堤釣りをしている最中溺死したという知らせ入って騒動になっていた。高橋連続勤務につくことになり、2時間時間休をとって午前11時半ころに下谷下車坂町(現台東区上野東上野)の自宅戻った昼食食べ始めたところに遠い地鳴り聞こえ間もなく家が激しく揺れ出した揺れが収まるのを待って高橋動物園駆けつけ動物舎の様子確かめた動物園には特段被害はなく動物たちも無事であったが、高橋動物たちを気づかって帰宅せず園内とどまった下谷下車坂町自宅震災発生2日目夕方火災遭って焼失したが、家族上野公園にいったん避難した後で谷中友人宅に逃れて無事だという知らせ2日目の夜9時ごろに受けた震災発生後、高橋は約50日間ほとんど帰宅もせず動物園での勤務続けた。それは震災発生後に上野公園配属され兵隊1週間ほどで帰隊したため職員自らが動物園を守らなければならないという決意からの行動であった1924年大正13年)に上野動物園東京市移管されると、高橋身分東京市職員となった1919年大正8年)に京城現在のソウル特別市)の昌慶苑動物園から来園しメスカバ京子」に続いて1927年昭和2年)、その弟にあたるカバ同じく昌慶苑動物園から来ることになった。 このとき高橋東京市主任技師実質上の上野動物園園長であった黒川義太郎とともに京城まで出張しカバ当初は「小僧」といい、後に「大太郎」と呼ばれるようになった)を受け取っている。 1931年昭和6年3月高橋勤続25年迎え上野動物園開設50年記念日表彰を受けることになっていた。しかしその直前フタコブラクダメスたちに赤いリボンをつけて飾り立てていたときに、オスフタコブラクダに顎を噛まれて7針縫うけがを負い表彰を棒に振ることになった。なお、「加害者となったフタコブラクダはあの「横車のラア公」の息子にあたる個体であったという。1935年昭和10年)には、ワニ強制的に給餌作業行っている最中に肩を噛まれ10針も縫うけがをしている。 時局戦争へ向かい緊迫の度を強めていくにつれて上野動物園職員からも応召される者が出始めた。それらの人々は、高橋に「鹿の面倒を見て下さい。さるどもも頼みます」などと必ず自分担当して可愛がっていた動物たちのことを託け出征していった高橋始めとした残り職員たちは、命がけ動物たち守ってやろうという決意のもとで日々過ごした戦局悪化するにつれて人間食糧事情逼迫すると同時に動物たちエサ不足し始めた草食動物にはそれでも干し草購入することが可能であったが、肉食動物エサそういうわけにもいかず、高橋たちは周囲町会人々依頼して残飯集め東大病院上野松坂屋にも残飯をもらいに通っていた。やがて動物園内の鉄柵木製のものに代わり防空訓練来園者動員してまで実施されるようになった上野動物園職員たちは辛い明け暮れに耐えて日々過ぎていった。 1943年昭和18年8月16日上野動物園の全職員に対して事務室に集まるようにとの指示があった。集まった職員たちに対して園長古賀忠道伝えたのは、「猛獣1427頭の処理」という過酷な命令内容であった。「処理」を命じられた「猛獣」たちの中には高橋が飼育を担当した野牛クマニシキヘビなども含まれていた。既に老境入っていた高橋直接「処理」に関わることはなかったが、事務室調理室にいるとその話が嫌でも耳に入ってくるため、カンガルーの飼育舎前で日没を待つ日々を過ごすようになった動物たちの「処理」は夜間実行され翌朝早くには動物園の裏門から密かにその遺体搬出されていった同年9月4日には、動物たち慰霊祭執り行われた。 高橋第二次世界大戦後正規職員立場退いてからも、常勤臨時職員として上野動物園勤務したツル類などの鳥類の他、カンガルーなどの飼育も担当し1953年昭和28年)に来園しトキの飼育にもかかわった1957年昭和32年3月31日76になった高橋はその職を辞した勤続年数50年3か月に及び、『上野動物園百年本編359頁では「飼育係員として50年に及ぶ勤続は、空前絶後であろう」と評している。現役として最後勤務日に、高橋園内回って動物たち別れ告げた高橋自著動物たち五十年』で「不思議解放感は少しも起らず、別な世界へ旅立つときのような気持であった」とその心情記している。 退職後の1958年昭和33年)秋、高橋黄綬褒章受章した受章申請取り扱った賞勲局担当官は「勤続50年で、しかもこの履歴なら、褒章どころか勲章ものなのに…」と驚いていたと伝わる。高橋1964年昭和39年4月6日死去し明治から昭和にかけて上野動物園とともに歩んできた83年生涯終えている。

※この「上野動物園とともに」の解説は、「高橋峯吉」の解説の一部です。
「上野動物園とともに」を含む「高橋峯吉」の記事については、「高橋峯吉」の概要を参照ください。

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